<藤原氏>北家 秀郷流

F929:藤原千常  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 近藤脩行 F971:近藤脩行

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近藤国平 近藤国重

 祖父の代より伊豆国に地盤を有していたとされ、治承・寿永の乱では源頼朝の旗揚げ当初よりその幕下に加わり転戦した。以後、御家人としてその名がみえ、平家が滅亡する直前の元暦2年(1185年)2月には頼朝の代官として中原久経と共に上洛し、混乱に乗じて非法狼藉を働く畿内近国の武士の平定にあたったほか、鎮西にも下向し同様の任務に就いた。
 建久10年(1199年)3月には三左衛門事件への関与により罷免された後藤基清に代わり讃岐守護に任ぜられるが、以降の動静は未詳となっている。 

 承久の乱後、山梨県巨摩郡万沢村(現・南部町)の浅間神社を再興して神主をつとめた。 
近藤能成

 祖先は藤原北家秀郷流と同利仁流の2説があるが、後者の方が蓋然性が高いとされる。当時、能成は相模国愛甲郡古庄郷(古沢郷の郷司を務める在庁官人だった。
 治承・寿永の乱に際しては源頼朝に従う。養和2年(1182年)、愛甲郡の金剛寺の僧侶たちが能成の非法を鎌倉に訴え出る事件があった。金剛寺が提出した解状によれば、郷司の能成が「猥耽二一旦之貪利一」ために寺が窮乏し、さらに山狩のために住僧たちを追い払ってしまったという。頼朝は金剛寺の訴えを認め、能成の非法停止を言い渡した。
 同国の有力武士団である波多野氏の一族・大友経家の娘を妻に迎えた。間に生まれた男子・能直は後に鎌倉幕府の重鎮となった。また能成と相婿の関係にあった中原親能の猶子となり、九州北部の中原親能の遺領を継承し、中世に繁栄した豊前大友氏の祖となっている。