<藤原氏>北家 秀郷流

F971:近藤脩行  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 近藤脩行 ― 武藤頼平 F978:武藤頼平

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武藤頼平 武藤資頼

 父・武藤(嶋田)景頼と同じく武者所に出仕した。『武藤系図』によれば、頼平の姉妹が平知盛の室で平知章の母とある。平知盛の目代として武蔵国に在住したという。
 その後、治承4年(1180年)からの治承・寿永の乱で源頼朝に臣従し、鎌倉幕府御家人となる。墓所は武蔵久良岐郡師岡郷にあったという。
 子・氏平の子孫は大宝寺氏、猶子・資頼の子孫は少弐氏とそれぞれ名乗った。また、義兄・近藤能成の子には大友氏の祖である大友能直がいる。

 資頼は、初め平知盛の部将であったが、一ノ谷の戦いの折、知人の梶原景時を頼って投降し、三浦義澄に預けられ、後に赦されて源頼朝の家人となる。頼朝の嫡男・頼家の元服の式典において有職故実の指導をし、ついで奥州合戦に出陣し功を立て、出羽国大泉庄の地頭に任ぜられる。この在任期間中、修験道の本拠・羽黒山領を侵し、羽黒山衆徒と抗争する。
 建久2年(1191年)には頼朝の命を受けて、平盛時と共に役人を伊勢国・志摩国2国に派遣し平家没官領を巡検させている。同建久年間、九州に派遣されて、猶父・頼平の甥に当たる大友能直と共に鎮西奉行に就任。さらに、肥前国,筑前国,豊前国,壱岐国,対馬国の守護となった。平家没官領のうち、筑前・筑後一円の大蔵氏流原田種直の所領3700町歩は全て資頼の所領となった。
 嘉禄2年(1226年)には大宰少弐職に任ぜられた。一介の御家人の身分でありながら、本来公家の官職である大宰少弐に任ぜられたのは資頼が初めてであった。大宰少弐職は資頼の子の資能に継承され、以降世襲となる。資能は少弐姓を称し、その子孫は北九州の名族の少弐氏として発展した。
 なお、仁治3年(1242年)に、博多の承天寺は武藤資頼が円爾(弁円、聖一国師)を招聘して創建した。創建にあたっての土地は武藤資頼が喜捨して、博多綱首の謝国明ら宋商人が多く援助した。そのため、武藤資頼の位牌と塑像が承天寺開山堂に安置されている。太宰府市の観世音寺の北にある観世音寺四十九子院跡のひとつといわれる安養寺の跡地の一角には、武藤資頼の墓と伝えられる五輪塔と少弐資能の供養塔(宝篋印塔)が並んで建っている。 

武藤景頼 大宝寺淳氏

 始め左衛門尉を称し、建長8年/康元元年(1256年)太宰権少弐に任ぜられる。同じ武藤一族の少弐資能の家系が九州大宰府を拠点に活動したのに対し、景頼の家系は幕臣として栄えた。
 宝治3年/建長元年(1249年)に引付衆、正嘉2年(1258年)に評定衆に任命され、幕政の中枢で活躍。鎌倉将軍・九条頼経が宮騒動のために更迭された際、その供奉人を務め、京から宗尊親王を招請する際も二階堂行方と共に、様々な取次ぎを行って周旋に尽力、宝治合戦にも参戦し、北条時宗の元服にも北条一門や安達泰盛らと共に参列するなど、幕府内における地位は高かった。
 弘長3年(1263年)、北条時頼の死去に伴い出家して心蓮と号した。 

 大宝寺氏第10代当主。大宝寺氏は出羽国田川郡・櫛引郡にまたがる大泉荘の地頭出身の家柄で、その在地権力は強靭であった。寛正元年(1460年)に将軍・足利義政が古河公方足利成氏討伐のための出兵要請を奥羽の諸勢力に送っているが、伊達・天童・最上の各氏と並び大宝寺淳氏にもその令が下っている。また、寛正3年(1462年)には幕府より出羽守に任官され、寛正5年(1464年)に上洛し足利義政に謁見した。尚、この上洛に土佐林氏の一族が同行していることから、この時期には既に大宝寺氏は土佐林氏を翼下に組み込んでいたと思われる。大宝寺氏が戦国大名となる礎を築いた後、家督を子の健氏に譲って没したという。
大宝寺建氏 大宝寺政氏
 大宝寺氏第11代当主。父の築いた勢力基盤を元に 更なる勢力拡大を目指し、幕府に貢物を送って右京亮に任じられる。元服の際は斯波義健から偏諱を受けた。応仁の乱が応仁元年(1467年)に勃発すると建氏も兵を率いて上洛しようとするが、伊達氏や蘆名氏に阻まれて上洛できなかったという。ちなみに、このとき健氏は上杉姓を名乗っており、上杉氏との結びつきが強かったことをうかがわせる。死後、家督は子の政氏が継いだ。  

 大宝寺氏第12代当主。勢力拡大途上にあった政氏は被官化していた土佐林氏より羽黒山の別当職を譲り受け、羽黒山の宗教勢力を駆りながら徐々にその影響力を強めていくことに成功する。また、飽海郡代の砂越氏と徐々に対立を深め、砂越氏当主・砂越氏雄が幕府より信濃守に任官されると、それに対抗して従五位下・右京太夫を拝命するなど、政氏は大宝寺氏を戦国の奥羽でも名の通る勢力に築き上げた。
 政氏はまた羽黒山別当職としても辣腕を振い、南北朝時代の建徳3年/文中元年/応安5年(1372年)に羽黒山五重塔を再建するなど信仰の面でも積極的なアプローチを行った。死後、家督は子の澄氏が継いだ。 

大宝寺澄氏 大宝寺義増

 大宝寺氏第13代当主。澄氏の代になると出羽飽海郡代であった砂越氏との様相が険悪となり、永正9年(1513年)には砂越氏雄が大宝寺領である田川郡に攻め込み、双方で1000人以上の損害を出す大戦となり、敗北を喫している。しかし、翌年の永正10年(1513年)に再び砂越氏が攻めてくると、これを打ち破り、氏雄親子を討ち取るなどの戦功を上げた。
 澄氏には継子がいなかったために死後家督は弟の氏説が継いだ。 

 義増の周辺の系図には諸説あり、義増は大宝寺九郎の子で前当主の大宝寺晴時の従兄弟に当たる(祖父は大宝寺政氏)。ちなみに義増の別名として「晴親」が伝わっているが、これは晴時と同じく将軍・足利義晴から1字を与えられたものとみられる。義増の「義」の字も時期的にみて義晴またはその子・義輝から賜ったものであろう。
 晴時の死後、土佐林禅棟の援助により後を継いだが統率力が無く、領内では内紛が絶えなかった。そのため、元々結びつきのあった越後国の本庄繁長や仙北の小野寺景道の援助を得ることで命脈を保ったと言われている。
 一時、最上氏の家臣の清水氏と抗争し、永禄8年(1565年)には清水義高を合戦で討ち取り一時は村山郡に進出を果たしたものの、直ぐに上杉軍によって撤退を余儀なくされている。また、永禄11年(1568年)本庄繁長の謀反に荷担したが、上杉氏に本庄氏よりも先に軍を差し向けられるとすぐ降伏し、息子の義氏を人質として謙信に差し出し陳謝し、翌年に上杉氏によって義氏に強制的に家督を継がされると隠居(死去とも)した。天正9年(1581年)8月1日死去。
 また、惣領が殺され一時期庄内に逃亡してきた小野寺景道を匿った縁で小野寺氏との交流が生まれることになった。永禄6年(1563年)には佐々木貞綱を打ち破り、当時幼少だった鮭延秀綱を捕虜として庄内に連行している。 

大宝寺義氏 大宝寺義興

 永禄11年(1568年)、本庄繁長が甲斐国の武田信玄の誘いによって上杉氏に叛いた際、父・義増も盟友として本庄氏に加担する。しかし、上杉氏に軍を差し向けられ降伏・臣従し、和睦の条件として義氏は春日山城に人質として送られた。永禄12年(1569年)、父の隠居により藤島城主・土佐林禅棟の後見を受け、尾浦に帰参し家督を相続する。
 土佐林氏は、出羽国南部日本海沿岸地域を中心に親上杉派を統率し、家中での主権を握っていた。元亀元年(1570年)、土佐林氏と関係の深い越後国の国人・大川長秀が尾浦城に攻め込むと、義氏と禅棟は対立。義氏は本庄繁長を通じて上杉謙信に調停を依頼し事態を収拾させた。するとその翌年の元亀2年(1571年)に、今度は禅棟配下の国人・竹井時友が反乱を起こし谷地館に篭城する。義氏はこれを機とし挙兵。土佐林氏・反大宝寺勢力を徹底的に討伐し、弱った家中を軍政の面で縛り上げ、出羽国のうち田川郡・櫛引郡・遊佐郡の3郡を手中に収めるなど大宝寺氏往来の勢力を復権させることに成功した。義氏20歳での成業である。
 なお、大宝寺氏は大泉荘の地頭出身であり、かつ田川郡・櫛引郡南部がこの大泉荘に含まれたため、領国を荘内と呼んでいた。そして義氏の蹟により遊佐郡までを治めたため、現在の山形県日本海沿岸から出羽山地に至るまでの地域を庄内地方と呼ぶに至った。
 義氏の次なる目標は鳥海山を越えた向こうの由利郡であった。義氏は由利十二頭の諸将と関係を結び、仙北の小野寺氏と綿密に連携を図りながら、由利郡に介入してゆく。また、最上郡では最上氏の内乱である天正最上の乱が勃発。義氏も縁戚関係のある大江氏庶家・白岩氏との関係で最上義守派として介入を試み、天正2年(1574年)に親義守派が属する伊達氏と盟約を結ぼうとしたが拒否され実現には至らなかった。
 積極的な外交政策を展開し庄内地方に権威を振るった義氏であったが、圧倒的な軍事力、そして上杉謙信との関係が背景にあることによるものであった。しかし天正6年(1578年)、頼みとした上杉謙信が急死すると、家臣の国人衆である来次氏秀が突如謀反を起こした。この謀反は鎮圧されたものの、隣国の最上氏が勢力を拡大させていたこともあり、義氏は氏秀に対し知行を加増して手懐けさせざるを得なかった。また、謙信の死後に御館の乱が発生し、義氏は伊達氏・蘆名氏との協調を重視し景虎を支持したが、本庄繁長は景勝を支持する。ここにおいて両者は敵となり、義氏は上杉氏への繋がりを失ってしまう。
 この事態を挽回すべく義氏は、天正7年(1579年)に天下人であった織田信長に馬や鷹を献上して誼を通じることで、最上氏をはじめとした諸勢力と対抗しようとした。その見返りとして信長から屋形号を許されるほどの栄誉を受け、上杉氏の内乱により外圧が減少したこともあり、義氏の威光はさらに大きなものとなる。
 しかし、一荘園領主出身の義氏にとっては屋形号以外に確固とした権力基盤がなかった。また屋形号を称するために、それまで戴いていた羽黒山別当の座を弟の義興に譲ったことで羽黒山信徒から反発を招き(不敬の精神の持ち主と酷評された)、かねてより続いていた北伐によって酒田湊や領民に対しても課税や兵役が増えることになり、義氏への疑念が増してゆく。これらの不平不満や反感を抱く者達から次第に悪屋形と渾名されるに至った。
 天正9年(1581年)、最上氏は領内で馬揃えを行い、敵味方の区別を明確にさせると共に敵対勢力への脅しとした。鵜沼城(新庄城)城主の日野左京亮が降伏すると、村山郡内の諸将も続々と恭順。飽海郡と接する地にある真室城主・鮭延秀綱も抵抗の交戦の末に降伏し、遂に大宝寺領と最上領とが隣接するに至る。
 天正10年(1582年)、豊島氏の挙兵に支援して以来、対立姿勢にあった檜山郡の安東氏に対抗するため、義氏は陸奥国の大浦為信と同盟を結び、安東氏の注意を北に引きつけた。そして3月に義氏は村山郡と由利郡の二手に向けて出陣する。由利郡では方々の戦で快勝を収めつつ北進し、小介川氏を残し由利衆はほぼ大宝寺氏に降っていた。しかし、大浦氏と対峙していた安東愛季が小介川氏への救援のため軍を率いて南下する。新沢城を本丸を残してことごとく焼き払った大宝寺軍だが、援軍の到来によって両者痛み分けとなる。また、村山郡でも清水城を攻め立てるも、清水氏,鮭延氏,最上勢の奮戦により阻まれた。結果、双方の戦いにおいてめぼしい戦果をあげることができずに退却を余儀なくされた。この総動員にも外征の失敗で将兵達の士気や義氏への忠誠は低下してゆくこととなる。
 同年6月、今度は本能寺の変にて織田信長が横死し、これにより信長に授かった屋形号の権威は失墜した。また大宝寺氏と敵対する最上氏・安東氏が同盟を結んだことで情勢の悪化に拍車がかかる。この状況に庶流の砂越氏や川北の来次氏も次第に義氏から離れていった。また8月には同盟を組む小野寺氏と由利衆の間に戦いが勃発。由利衆が小野寺氏の排除を目的とした戦であり、由利郡における小野寺氏の権勢は失墜し、由利郡南域を傘下に含む義氏自身が攻勢に出ざるを得ない状況となる。
 天正11年(1583年)1月、焦った義氏は、出羽山地の雪が解け、最上氏が領する村山郡と荘内が繋がる前に先手を打つために大軍を率いて由利郡へ侵攻した。しかし、勢力基盤を磐石とした安東氏,最上氏との内通により日和見の立場をとり出陣しなかった砂越・来次の両氏、寒雪吹き付ける冬の戦と、どれをとっても不利な状況の戦であった。疲弊した小野寺軍から援軍を得られるわけもなく、安東軍に大敗を喫して荘内へと退却する。義氏は直ぐに砂越・来次懲罰軍を編成し、側近の酒田代官・前森蔵人に指揮を預けたが、前森は一旦は出陣したものの、取って引き返し逆に尾浦城を包囲。この状況を見た義氏は潔く観念し、城外の高館山にて自害した。享年33。義氏の最期については、暴政が多かったゆえ見限られたという憶測があるが、『庄内年代記』『湊、檜山合戦覚書』などの史料は、前森が謀反を起こし、義氏は討ち取られたと淡白に記述するのみであり、その最期や謀反の理由については明白になっていない。
 義氏の死後、家督は藤島城主で弟の義興が継ぎ、また前森蔵人は東禅寺城に入り東禅寺義長(後に氏永に改名)と称し酒田を領した。結局、荘内の地は最上氏の下、東禅寺,来次,大宝寺,砂越の四氏がそれぞれ治めるかたちとなった。 

 初めは櫛引郡の丸岡城を居城としていた。 天正7年(1579年)、兄であり大宝寺氏当主である義氏が織田信長と誼を通じ屋形号の称号を得ると、義興は義氏より羽黒山別当の座を譲り受ける。その後は僧として、また兄の補佐として羽黒山と大宝寺家双方を盛りたてていたが、天正11年(1583年)、義氏が家臣の東禅寺義長の謀反により自害したため、尾浦に入りその跡を継いだ。 義興には男児が居なかったため、また越後との関係を重視するために本庄繁長の2男・千勝丸(後の義勝)を養子に迎え、本庄繁長の支援を受ける。最上氏への被官の道よりも自家の独立・存続を願い、万が一の時は本庄氏,上杉氏を頼みとした、積極、且つ苦渋なる外交選択であった。 天正13年(1585年)、義興が最上方の清水城を攻めると、荘内の最上方の国人が一斉に蜂起する。これを好機と捉えた最上義光は軍を率いて六十里越街道を踏破し荘内に侵攻してきた。 頼みとする本庄繁長は新発田攻めで動けず、伊達政宗を頼り和議を結ぶがすぐに破れ、東禅寺義長とその弟・東禅寺勝正が決起する。義興は東禅寺城を囲み追いつめたが、最上義光の援軍が到着し、形勢は一気に逆転する 。一年の籠城による奮戦の末、居城の尾浦城は陥落し、義興は自害する(一説には助命されて山形へ連行されたとも)。 しかし、養子の義勝は辛くも実父・本庄繁長の下に逃げ帰り、大宝寺氏としての命脈、願いはかろうじて繋がれた。 
本庄充長

 義勝は上杉氏の重臣・本庄繁長の次男である。上杉景勝は肥沃な庄内平野の利権を得るために大宝寺義氏と手を結んで最上義光と敵対していたが、その義氏は天正11年(1583年)に家臣によって殺され、跡を継いだ上杉派の大宝寺義興も義光に殺されたため、庄内地方は最上氏に牛耳られそうになっていた。景勝はこれに対抗するため、義勝を義興の養子として送り込み、その跡を継がせたのである。そして天正16年(1588年)、義勝は実父の繁長と共に十五里ヶ原の戦いで最上軍を破り、庄内地方を取り戻している。
 その後、義勝は景勝を通じて豊臣秀吉に臣従し、天正17年(1589年)、豊臣姓を下賜されたが、天正19年(1591年)に一揆扇動の咎を受けて改易された上、大和に流された。文禄の役に参陣したことにより罪は許され、以後は父と共に上杉氏に仕えた。
 慶長19(1614年)、父の死後に本庄氏に復姓し、充長と改名して家督を相続している。後に末弟の重長を養子として跡を継がせた。