<藤原氏>北家 秀郷流

F978:武藤頼平  藤原房前 ― 藤原魚名 ― 藤原秀郷 ― 藤原千常 ― 近藤脩行 ― 武藤頼平 ― 少弐資能 F979:少弐資能


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少弐資能 少弐経資

 当時、武藤氏は大宰府の責任者として大宰少弐の地位にあったため、資能の代から少弐姓を名乗るようになったという。
 資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の鎮西奉行として、文永5年(1268年)、蒙古の使者の対応にも当たっている。文永の役直前に出家して覚恵と号し家督を長男の経資に譲ったが、老齢の身でありながら自身も対元の総司令官として参戦し、元軍の侵攻を阻止し撃退することに成功する。
 弘安の役にも老齢の身を押して出陣した。壱岐島の戦いでは元軍を相手に奮戦し、壱岐島から元軍を駆逐した。しかし、この時の負傷がもとでまもなく死去したという。享年84。 

 父の存命中から共に北九州の統治に当たり、元寇に際しては異国警固体制を整え、元の使者への対応や九州御家人たちの指揮、石築地の築造工事の統括、蒙古合戦の勲功配分とその調査などを行った。
 文永11年(1274年)の文永の役では、経資の弟・少弐景資が日の大将として日本軍を指揮していたが、この時の経資の動向に関する史料は無く、詳細は不明。文永12年(1275年)、父から家督と所領を譲り受ける。 弘安4年(1281年)の弘安の役における壱岐島の戦いでは、負傷しながらも元軍を相手に奮戦して勝利し、壱岐島から蒙古軍を駆逐した。しかしこの戦いで、子の少弐資時を失う。その後も大友頼康と共に鎮西奉行の一人として、九州の軍政にあたった。
 弘安7年(1284年)、執権・北条時宗が死去したのを契機に出家し、浄恵と号した。翌年の霜月騒動では平頼綱側に与して、安達泰盛側に与した弟の景資と泰盛の子・安達盛宗を討ち取った(岩門合戦)。この戦いの結果、北条得宗家の鎮西支配が強化されて、少弐氏の勢力は削られ、筑後・豊前・肥前・肥後の守護を失った。正応5年(1292年)に死去。生年には1226年,1229年など諸説ある。 

少弐景資 少弐貞経

 元寇に際し、大将軍として九州御家人達の指揮にあたり、父の資能や兄の経資と共に蒙古軍と戦った。『八幡愚童訓』によると、文永11年(1274年)の文永の役で、景資は10月20日での博多湾沿岸での戦闘において「日の大将軍」であったと言い、景資ないし彼の郎党が蒙古軍の副司令官のひとり(征東左副都元帥)であった劉復亨と思しい人物(流将公)を矢で射止める大功を挙げたと言われている。弘安4年(1281年)の弘安の役にも参陣して奮戦した。
 父・資能の死後、兄・経資との間で家督をめぐる争いが起り、弘安8年(1285年)、鎌倉で有力御家人の安達泰盛と内管領の平頼綱とが対立した霜月騒動が起きると、景資は泰盛側に与して泰盛の子で肥後の守護代であった安達盛宗と共に筑前で挙兵したが、頼綱側に与した兄・経資の追討を受け、居城である岩門城で敗死した(岩門合戦)。享年40。
 竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』には、小勢で出陣する季長を大将として見送る景資の姿も描かれている。 

 鎌倉幕府の執権・北条貞時より偏諱を受けて貞経と名乗る。元弘3年/正慶2年(1333年)3月13日、菊池武時が挙兵した際、同調を求められるが、貞経は拒否し鎮西探題・北条英時や大友貞宗らと共に武時を敗死させた。5月、六波羅探題が足利高氏に攻略されたことを知り、反幕府勢力優勢を見るや高氏に呼応して、貞宗や島津貞久と共に幕府から離反し探題を攻撃、英時を自刃させる。その功績を賞されて建武の新政下では筑前・豊前・筑後の守護に任じられた。
 建武2年(1335年)、中先代の乱を契機として尊氏が後醍醐天皇に反逆するとこれに応じる。翌建武3年/延元元年(1336年)2月、頼尚を援軍として派遣した際、主力軍が遠征した隙を突かれ、菊池武敏や阿蘇惟直ら南朝方の勢力に攻め込まれ、2月29日、有智山城で自害した。享年65。 

少弐資時

 文永11年(1274年)の文永の役で、叔父の少弐景資に従って12歳で初陣した。弘安4年(1281年)の弘安の役では、祖父の少弐資能や父の少弐経資らとともに日本軍を率いて壱岐島を占領する東路軍に対する攻撃で戦死する。享年19。祖父の少弐資能や父の少弐経資もこの戦闘で負傷した。この壱岐島の戦いで敗退した東路軍は壱岐を放棄して、平戸島に移動した。後に叔父の少弐景資は、鷹島で蒙古軍を殲滅した。
 壱岐神社・壱岐護國神社の祭神として祀られており、また、隣接する少弐公園には、少弐資時の石積みの墓がある。1997年、彫刻家の小金丸幾久が制作した馬に乗る「少弐資時公像」が、元寇720年を記念して芦辺港フェリーターミナルに建立された。