<藤原氏>北家 道兼流

F650:宇津忠茂  藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 宇津忠茂 ― 大久保忠員 F651:大久保忠員


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大久保忠員 大久保忠佐

 徳川家康の祖父・松平清康の頃から3代に渡って仕えた宿将。
 天文6年(1537年)、松平広忠が伊勢国に逃れた際には、兄・大久保忠俊と共に岡崎城に帰参させた。天文11年(1542年)、松平信孝の反抗において、弟・忠久が信孝側についた時、忠俊と共に忠久を説得して広忠側に帰順させた。
 弘治元年(1555年)の蟹江城攻めにおいて戦功をあげ、「蟹江七本槍」の一人に称された。永禄6年(1563年)の三河一向一揆では上和田城を守備して活躍した。 

 天文6年(1537年)、大久保忠員の次男として三河国上和田で生まれる。父や兄忠世とともに松平広忠,家康に仕えた。武勇に優れ、元亀3年(1572年)の一言坂の戦いでは本多忠勝と共に殿軍を務めている。天正3年(1575年)の長篠の戦い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにも参加して武功を挙げた。
 天正18年(1590年)に家康が関東に移ると、上総茂原において5,000石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従ったが、真田昌幸・信繁親子に足止めされている。慶長6年(1601年)、家康から駿河沼津2万石を与えられて大名となった。嫡男の忠兼は早世していたため、当時幕府旗本であった八弟の忠教を養子にして家を相続させようとしたが、忠教は「自分の勲功ではない」として固辞した。慶長18年(1613年)9月27日に忠佐が77歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となった。 

大久保忠教 大久保忠恒

 通称の彦左衛門で有名。『三河物語』の著者としても知られる。
 三河国上和田に生まれ、17歳のときに兄・忠世と供に遠江平定戦に参加。犬居城での合戦が初陣という。以後、忠世や忠佐らの旗下で各地を転戦し、高天神城攻めで岡部元信を討ち、天正13年(1585年)の第一次上田城の戦いでは全軍が真田昌幸の采配に翻弄される中、兄らと奮戦した。
 天正18年(1590年)、小田原征伐の後、主君・徳川家康が江戸に移封され、兄・忠世およびその子で甥の忠隣が相模国小田原城主に任じられると3000石を与えられる。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでも家康本陣で槍奉行を務め活躍した。この頃、次兄の忠佐は駿河国沼津城主となって2万石を領していたが忠佐の嫡子・忠兼が早世してしまったため、弟の忠教を養子として迎えてあとを継がせようとしていたが、忠教はこの申し出を「自分の勲功ではない」と固辞したため、忠佐の死後、沼津藩は無嗣改易とされた。
 続けて忠隣が大久保長安事件に連座して失脚・改易となると、それに連座して忠教も一時改易された。しかし、家康直臣の旗本として召し出され、三河国額田に1000石を拝領し復帰した。慶長19年(1614年)、大坂の陣にも槍奉行として従軍。家康死後も2代将軍・徳川秀忠の上洛に従い、3代将軍・徳川家光の代になって旗奉行となった。この頃には更に1000石を加増されている。
 寛永12年(1635年)頃から常陸国鹿嶋に300石ほどの地を移し、余生を送りながら『三河物語』の執筆に没頭したようである。寛永16年(1639年)に80歳で没した。死の間際に家光から5000石の加増を打診されたが、「余命幾ばくもない自分には有り難いが不要」と固辞したと伝えられている。
 墓所として、愛知県岡崎市竜泉寺町の海雲山弘誓院長福寺、京都市上京区上之辺町の光了山本禅寺および東京都港区白金の智光山立行寺(忠教によって建立されたため、通称を「大久保寺」という)がある。 

 大久保忠教(彦左衛門)の玄孫にあたる。通称は彦左衛門。
 延享元年11月2日(1744年12月5日)に跡を継ぎ、同年12月11日に徳川吉宗にお目見え。同月21日書院番士に就く。宝暦6年(1756年)7月末に番を辞し、寛政元年8月5日(1789年9月23日)に致仕した。しかし、忠恒は跡継ぎに恵まれず、本家筋の一門の忠順を婿養子として跡を継がせた。旗本でありながら余技で絵を良くし、南蘋派風の作品が幾つか知られている。