| F647:武茂泰宗 | 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 宇津忠茂 | F650:宇津忠茂 |


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| 宇津忠茂 | 大久保忠俊 |
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| 大久保氏の祖。大永6年(1526年)、主君・松平清康が一族の松平昌安の岡崎城を急襲して攻め取ろうとした時、これを諌めてまず支城の山中城を攻略してから降伏を促すように進言した。結果その策が成功したため、清康から武功抜群として望みのままの恩賞を約束されるが、これを固辞してただ領内に市場を開くことを許された。忠茂はこの市場で貧民に温情をかけて租税を軽くしたため、人々は清康の徳を称し、清康は忠茂の忠義を賞した。 |
蟹江七本槍の一人。名は新八郎、五郎右衛門とも。三河領主松平清康に仕える。 |
| 大久保忠勝 | 大久保忠尚 |
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天文11年(1542年)の三河国安城城攻めの際、清縄において衆に先立って戦功をあげる。天文17年(1548年)に三河国山中城を攻めた際には、敵から矢を受けながらも深手を負わず、敵を敗走させた。弘治元年(1555年)の蟹江城攻めではその働きから蟹江七本槍の一人として数えられる(ただし、忠勝ではなく父の忠俊をその一人とする説もある)。 |
三河譜代・大久保氏の一族で、徳川家康に仕えた大久保忠益の長男。兄の忠辰・忠政と同じく幼少時より家康の嫡男・徳川秀忠に仕える。慶長19年(1614年)、再従兄弟にあたる幕府重鎮・大久保忠隣の失脚に連座し、2人の兄ともども閉門となる。同年、大坂冬の陣では兄弟揃って密かに秀忠勢に列し、翌年の夏の陣では道明寺の戦いと天王寺の戦いでそれぞれ首級を挙げ、閉門を許されて旗本に復帰した。寛永元年(1624年)、秀忠の次男で駿府藩主となった徳川忠長附きとなり、徒頭や進物番頭を歴任した。寛永9年(1632年)に忠長が改易となると忠尚も閉門処分となり、身柄は笠間藩預かりとなった。後年、子の源五兵衛が赦免を受けて御家人として復帰を果たしている。 |
| 大久保忠直 | 大久保忠次 |
| 元亀元年(1570年)、初陣となった姉川の戦いでは敵の槍を奪って返り討ちにする武功を立て、その武功を称されて「荒之助」の名乗りと金の団扇を与えられた。その団扇は以降、忠直の指物となり、槍は家宝として伝わった。元亀3年(1572年)、一言坂の戦いでは大久保忠佐・忠正らとともに殿軍を務め、直後の三方ヶ原の戦いにも参戦した。天正3年(1575年)、長篠の戦いでは敗走する敵兵1人を討つ。天正8年(1578年)、朝比奈信置の軍勢と戦った際には敵1人を討ち取ったが自らも負傷した。戦後に家康より薬を賜り、これも家宝となった。同年の色尾の合戦や、天正9年(1581年)の高天神城の戦いにも従軍。天正10年(1582年)、天正壬午の乱では北条軍の武将1騎を討ち取る。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは石川数正の与力となって小牧山城にあり、長久手の合戦では森長可と池田恒興の側近の兵をそれぞれ討った。天正18年(1590年)小田原征伐に従軍。慶長5年(1600年)、会津征伐には槍奉行として徳川秀忠の軍に配属され、第二次上田合戦にも従った。戦後は鉄砲同心30人を預けられる。慶長7年(1602年)、常陸における車斯忠らの一揆の事後処理を担当。大坂の陣にはいずれも従軍した。元和5年(1619年)に田中城番となり、加増を受けて石高は2000石に達した。 | 天文6年(1537年)に松平広忠が伊勢へと追われた時、兄・忠俊らと共に広忠の岡崎城帰還に尽力した。天文9年(1540年)渡の合戦、天文11年(1542年)小豆坂の戦いで活躍。天文18年(1549年)、第三次安城合戦では捕虜とした織田信広を尾張へと送還する役目を忠俊と共に担った。永禄3年(1560年)刈谷城の合戦で戦功。永禄6年(1563年)三河一向一揆鎮圧にも一族とともに活躍した。 |
| 大久保忠重 | 大久保忠行 |
| 三河国の松平広忠・徳川家康の2代に仕え、三河国内を転戦する。永禄6年(1563年)、三河一向一揆では伯父忠俊ら一門とともに上和田砦に籠もって戦う。元亀3年(1572年)、三方ヶ原の戦いに従軍。天正4年(1576年)、犬居城の戦いでは庶家の大久保忠世の配下として先陣を切った。以後は忠世の麾下として遠江平定に功があった。 |
徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)に三河国宝飯郡赤坂郷で領地300石を与えられる。永禄6年(1563年)、三河一向一揆に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。 |