<藤原氏>北家 道兼流

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宇津忠茂 大久保忠俊
 大久保氏の祖。大永6年(1526年)、主君・松平清康が一族の松平昌安の岡崎城を急襲して攻め取ろうとした時、これを諌めてまず支城の山中城を攻略してから降伏を促すように進言した。結果その策が成功したため、清康から武功抜群として望みのままの恩賞を約束されるが、これを固辞してただ領内に市場を開くことを許された。忠茂はこの市場で貧民に温情をかけて租税を軽くしたため、人々は清康の徳を称し、清康は忠茂の忠義を賞した。

 蟹江七本槍の一人。名は新八郎、五郎右衛門とも。三河領主松平清康に仕える。
 後年に大久保彦左衛門が著した『三河物語』によると、越前の大窪藤五郎という武芸者が三河に修業に来て、自分の名字を残すのは忠俊しかいないと要望したので、主君・清康に伺いを立てると、大窪は剛勇の士であるからその望みを認めようと言ったため、当初の姓は「宇津」であったが、兄弟全員と共に「大窪」姓に改姓し、大窪藤五郎の戦死後に忠俊が頻繁に悪夢に悩まされたことから「大久保」姓と改めたとされる。
 享禄2年(1529年)、牧野伝蔵・伝次を攻めた際に、序盤崩れたが、力戦して押し返し、清康が出馬し、松平信定も加勢して敵を敗走させ、ついに吉田城を落とした。
 天文4年(1535年)、尾張国守山において清康が陣中にて急死する森山崩れの後、三河勢は岡崎城に潰走したが、信定に城を占領された結果、阿部定吉らは広忠をつれて更に伊勢国神戸に潰走した。家臣団は信定派と広忠派に分裂したが、忠俊は密かに広忠派に内通し帰城を謀った。天文5年(1536年)、広忠は今川義元の後援を受けて三河牟呂城に入った。信定は国内で広忠を支持するものが増えていると聞いて、諸士を伊賀八幡宮に集めて起請文を書かせた。『三河物語』によると、大窪家の忠俊には7枚の起請文を三度にわたって書かされたが、忠俊は引き続き弟・忠員,忠久,林藤助,八国甚六郎,成瀬正頼,大原左近衛門らと密議を重ねた。天文6年(1537年)5月1日、ついに広忠を岡崎城に迎え入れたが、この功で15貫文の采地、連名の判物を賜り、中野の代官職を与えられ、同地で百貫の采地を与えられた。
 天文9年(1540年)、広忠は渡の戦いで敗れたが、忠俊は堤の柳の陰に伏兵を置いて追撃する敵を防ぎ、植村新六の加勢をえて、敵を逆に敗走させた。この年の安城の戦いの前に、忠俊は大窪家の家督を相続した。大窪藤五郎はその戦いで討ち死にした。
 天文14年(1545年)、織田信秀が安祥城を攻略して三河に侵攻した。広忠は千騎を率いて奇襲でこれを撃破したが、忠俊も戦功があった。
 天文17年(1548年)4月、追放されていた松平信孝が500騎余りを率いて明大寺辺りに進出し、岡崎城を窺った。忠俊と石川清兼は広忠に味方は多勢であるが、同じ三河勢のため敗り難い相手であると忠告すると、広忠は両人に謀略を任せた。命を受けて忠俊は、射手70名を伏兵として隠し、耳取縄手の戦いで菅原河原を通った信孝を射殺して暗殺した。また同年、織田信秀は荒川新八郎に三河を侵攻させたが、忠俊が兵を出して撃退した。
 天文18年(1549年)、駿河の戦国大名・今川義元は、三河勢に先導させて織田信広の籠もる安城城を攻めたが、忠俊らが先鋒となった。忠俊らは信広を生け捕ることに成功して、尾張勢と講和し、人質として捕らわれていた広忠の子・竹千代との捕虜交換を実現させた。
 蟹江城攻め,桶狭間の戦いなどにも参戦。その後、剃髪して常源と号し、永禄6年(1563年)の三河一向一揆では岡崎城の防備に務めた。また、家康が一向宗の寺院破却を言い出した際、忠俊の懸命の功労により一向宗の門徒は全員無罪とし、浄珠院で面倒を見ることを認めさせた。天正9年(1581年)9月26日、死去。享年83。 

大久保忠勝 大久保忠尚

 天文11年(1542年)の三河国安城城攻めの際、清縄において衆に先立って戦功をあげる。天文17年(1548年)に三河国山中城を攻めた際には、敵から矢を受けながらも深手を負わず、敵を敗走させた。弘治元年(1555年)の蟹江城攻めではその働きから蟹江七本槍の一人として数えられる(ただし、忠勝ではなく父の忠俊をその一人とする説もある)。
 弘治2年(1556年)、松平元信(徳川家康)が元服後、三河衆の今川家への忠勤に対し岡崎への帰城を許した。お迎えとして、岡崎から一族衆として形原の松平又七郎家広,深溝の松平又八郎好景が、譜代衆として大久保七郎左衛門忠勝,榊原七郎左衛門長政、旗本は蜂屋半之亟,中川理兵衛,渡辺源蔵,黒田半平,植邨郷左衛門,久米新四郎,太田弥大夫,柴田七九郎,青山喜太夫,安藤九助,筒井與右衛門,筧圖書,遠山平太夫,香邨半七,小栗又六,小栗大六,小栗仁右衛門,成瀬藤蔵,加藤九郎,加藤源四郎,伊奈市左衛門など25人、雑兵約280人が駿府まで向かったとされる。
 同年、三河国福谷城を織田信長が攻めた際、今川方として柴田勝家と直接戦った。永禄7年(1564年)の三河一向一揆の際に眼を射られ、以降は家康の御伽衆を務め、鷹狩の鳥を賜った。慶長6年(1601年)、78歳で死去。墓所は小田原の大久寺。 

 三河譜代・大久保氏の一族で、徳川家康に仕えた大久保忠益の長男。兄の忠辰・忠政と同じく幼少時より家康の嫡男・徳川秀忠に仕える。慶長19年(1614年)、再従兄弟にあたる幕府重鎮・大久保忠隣の失脚に連座し、2人の兄ともども閉門となる。同年、大坂冬の陣では兄弟揃って密かに秀忠勢に列し、翌年の夏の陣では道明寺の戦いと天王寺の戦いでそれぞれ首級を挙げ、閉門を許されて旗本に復帰した。寛永元年(1624年)、秀忠の次男で駿府藩主となった徳川忠長附きとなり、徒頭や進物番頭を歴任した。寛永9年(1632年)に忠長が改易となると忠尚も閉門処分となり、身柄は笠間藩預かりとなった。後年、子の源五兵衛が赦免を受けて御家人として復帰を果たしている。 
大久保忠直 大久保忠次
 元亀元年(1570年)、初陣となった姉川の戦いでは敵の槍を奪って返り討ちにする武功を立て、その武功を称されて「荒之助」の名乗りと金の団扇を与えられた。その団扇は以降、忠直の指物となり、槍は家宝として伝わった。元亀3年(1572年)、一言坂の戦いでは大久保忠佐・忠正らとともに殿軍を務め、直後の三方ヶ原の戦いにも参戦した。天正3年(1575年)、長篠の戦いでは敗走する敵兵1人を討つ。天正8年(1578年)、朝比奈信置の軍勢と戦った際には敵1人を討ち取ったが自らも負傷した。戦後に家康より薬を賜り、これも家宝となった。同年の色尾の合戦や、天正9年(1581年)の高天神城の戦いにも従軍。天正10年(1582年)、天正壬午の乱では北条軍の武将1騎を討ち取る。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いでは石川数正の与力となって小牧山城にあり、長久手の合戦では森長可と池田恒興の側近の兵をそれぞれ討った。天正18年(1590年)小田原征伐に従軍。慶長5年(1600年)、会津征伐には槍奉行として徳川秀忠の軍に配属され、第二次上田合戦にも従った。戦後は鉄砲同心30人を預けられる。慶長7年(1602年)、常陸における車斯忠らの一揆の事後処理を担当。大坂の陣にはいずれも従軍した。元和5年(1619年)に田中城番となり、加増を受けて石高は2000石に達した。   天文6年(1537年)に松平広忠が伊勢へと追われた時、兄・忠俊らと共に広忠の岡崎城帰還に尽力した。天文9年(1540年)渡の合戦、天文11年(1542年)小豆坂の戦いで活躍。天文18年(1549年)、第三次安城合戦では捕虜とした織田信広を尾張へと送還する役目を忠俊と共に担った。永禄3年(1560年)刈谷城の合戦で戦功。永禄6年(1563年)三河一向一揆鎮圧にも一族とともに活躍した。 
大久保忠重 大久保忠行
 三河国の松平広忠・徳川家康の2代に仕え、三河国内を転戦する。永禄6年(1563年)、三河一向一揆では伯父忠俊ら一門とともに上和田砦に籠もって戦う。元亀3年(1572年)、三方ヶ原の戦いに従軍。天正4年(1576年)、犬居城の戦いでは庶家の大久保忠世の配下として先陣を切った。以後は忠世の麾下として遠江平定に功があった。 

 徳川家康に仕え、永禄3年(1560年)に三河国宝飯郡赤坂郷で領地300石を与えられる。永禄6年(1563年)、三河一向一揆に三河大久保党三十六騎の一人として出陣するが、鉄砲の弾が腰に当たって落馬・負傷し、以後歩行が不自由となる。
 これにより実質、侍としてのいわゆる槍働きができなくなり、戦役を免除され三河国上和田に住んだ。何処で覚えたのか定かではないが、忠行は菓子類の作製ができ、この技術により家康の陣営に茶菓(餅)を献上する役目、いわゆる菓子司となった。忠行の作った餅は駿河餅、ないしは三河餅と呼ばれ、この餅を含めた各種の菓子は家康の嗜好に合ったらしく、たびたび忠行にこれを求めていた。また、家康は毒殺を恐れて普段から献上される餅を食べなかったが、忠行から献上された際には彼を信頼して食べていたという。三方ヶ原の戦いの際には従軍する代わりに、出陣に際し6種の菓子を家康に献じ、その後それが家例となった。
 主君・家康が関東への移封にあたり、天正18年(1590年)7月12日に江戸城下の上水工事の命を受ける。その後、約3ヶ月で小石川目白台下の河流を神田方面に通し、これは後の神田上水の元となったとされている。また、この功績により家康から「主水」の名を与えられたが、水が濁ることを嫌って「もんど」ではなく「もんと」と発音するように命じられた。
 元和3年(1617年)7月6日、死去。墓所は東京都台東区谷中の瑞輪寺。実子は無く、甥の忠元(兄の忠員の子)を養子とした。
 主水の子孫は代々「大久保主水」を名乗り、江戸幕府御用達の菓子司となった。江戸城内での行事に使用する菓子類の制作時には、歴代の大久保主水が責任者となり采配した。幕末の大久保主水は徳川宗家の静岡移動にも従い、娘を旧幕臣の重鎮で同族の大久保一翁の子息の嫁としている。