<藤原氏>北家 道兼流

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大久保忠為 大久保忠高

 徳川家康に父や兄弟達とともに仕え、慶長14年(1609年)に縁戚の石川忠総(大久保忠隣次男)が大垣藩主になるとこれを補佐した。大坂の役にも従軍した。元和2年(1616年)8月9日、63歳で死去した。
 次男の忠知は、旗本として書院番頭となる。その子・大久保忠高は1万石を領するまでに栄進し、大久保常春は大名となり、下野国烏山藩となった。

 1500石を領した旗本・大久保忠知の長男として生まれる。正保元年(1644年)、父の死去により遺領を相続する。500石を弟の忠信に分与して1500石を領した。小姓組番頭,新番頭を経て寛文2年(1662年)1,000俵加増。延宝4年(1676年)に留守居となり、延宝7年には(1679年)2000俵、天和2年に(1682年)2000石をそれぞれ加増された。さらに側衆に進み、貞享元年(1684年)に2000石加増され、貞享3年(1686年)に1500石を加えて近江国6郡に計1万石を領する大名となった。
 元禄2年(1689年)に側衆を罷免され、元禄12年(1699年)に家督を次男の常春に譲って隠居した。 

大久保忠保 大久保忠舊

 下野烏山藩の第6代藩主。危機的な藩財政を引き継ぎ、天保の大飢饉の中で菅谷八郎右衛門を家老として抜擢、菅谷の推挙で二宮尊徳に財政再建を委ねたことで知られる。
 文政10年(1827年)、父の隠居に伴い家督を相続した。忠保が藩主となった時点で、烏山藩野州領(下野国内の知行地)の税収は、享保11年(1726年)の税収のおよそ半分まで落ち込んでいた。藩財政は江戸勝手(江戸藩邸での会計)が大きな比重を占めるとともに、借入金に大きく依存する体制になっており、収支均衡は破綻をきたしていた。
 天保の大飢饉が始まる状況下、天保4年(1833年)11月17日より烏山城下で穀物商や酒屋に対する打ちこわしが発生した。藩の収奪政策への不満があったとされる。藩は、酒造停止令に違反したとして酒屋を処罰するとともに、打ちこわしの頭取(中心人物)とされた4人を所払いとして事態収拾を図った。
 この打ちこわしの経験から、米の増産・確保を重視して、新田開発による国元復興を目指す政策を採用した。天保5年(1834年)5月、「新開帰発掛」(のち「新田役所」)を新設、7月に菅谷八郎右衛門を家老に登用し、また天性寺の円応和尚に荒地開発・新百姓取立を委ねた。天保7年(1836年)は再び凶年となり、菅谷と円応の開発計画も頓挫した。この「天保凶荒」の中で菅谷の推挙を受けて二宮尊徳が雇用されることになる。烏山で尊徳がまず着手したのは、飢饉の中で緊急に必要であった窮民の救済であった。これら初期の緊急救済策により烏山藩では餓死者や難民流出を出さず、300両の資金が投じられた荒地開拓についても24町歩が開発される実績が上がった。
 天保8年(1837年)1月、菅谷は代官らと各村を回り、荒地開発や水利施設の普請などを呼びかけ、藩財政の再建を目指した本格的な「仕法」を開始する(烏山藩では「烏山仕法」と呼ばれる)。尊徳の仕法は、本来領主が行うべき「御救普請」を尊徳の資金や人材で代行するものであり、藩領を越えた民衆運動という側面を持つと評価されている。尊徳の登用以来天保10年(1839年)頃までに開墾された荒地は116町歩という。
 しかし、やがて資金の配分をめぐり、藩内では対立も生じ始めていた。そんな折、円応和尚が疫病で死去する。江戸家老で藩の勝手方にも発言力があった大石総兵衛は、これ以上返済を滞らせることで資金調達が不可能になることを恐れ、借金返済を優先するよう主張した。その観点では、収納米を開発事業に投入する仕法は障害であった。天保9年(1838年)頃には大石は藩内での発言力を強めるようになり、菅谷は激しく非難された上に隠居を命じられた。尊徳は藩執行部を批判するとともに、1村ずつでも仕法を実施したいとの提案するも家老らの寄合で尊徳への「御手切」が議論された。家老の大久保次郎左衛門や郡奉行,代官には「御手切」に強い反対を見せる者もあったが、大石の意見が通り、天保10年(1839年)12月11日、大石らは仕法中止を村役人たちに通達。12月26日には尊徳に「御手切」を言い渡した。
 仕法中止は、代官や村役人らの強い反発を招いた。まもなく藩士への扶持米に支障が出るなど破綻をきたし、村々も藩への上納金を拒む姿勢を見せた。天保12年(1841年)に入ると、惣郷惣代は藩財政への協力と引き換えに仕法の再開「趣法再興」を求めて藩政にゆさぶりをかけ、藩内の空気も仕法再開に傾き始めた。9月に藩の重役の評議で仕法再開が決定、12月に大石は尊徳に面談を申し込むが拒絶され、「趣法掛」を辞任した。大石の失墜に代わって大久保次郎左衛門が藩政を主導し、12月25日には尊徳の意向もあり菅谷が200石で家老職に復帰した。天保13年(1842年)1月、藩主・忠保は仕法を全廃したことを後悔している直書と、大石ら藩重役の詫び状が尊徳に提出され、烏山仕法が再開されるが、再開された仕法では大きな成果が得られなかった。尊徳が幕府に登用され、烏山と疎遠になったことも一因とされる。
 弘化2年(1845年)3月、仕法推進派であった菅谷と大久保次郎左衛門の両家老は隠居・御暇となり、仕法は事実上廃止された。大久保次郎左衛門は弘化4年(1847年)に死去、菅谷は自責の念から神経症気味になったと言われ、嘉永5年(1852年)に死去した。
 藩主・忠保は嘉永元年(1848年)、父に先立ち58歳で没した。没日については、9月5日,10月7日,10月18日と諸説が伝わる。長男の忠寿は廃嫡されており、3男の忠美が跡を継いだ。

 大坂の役で石川忠総隊に父とともに属し、戦功を挙げる。その後、紀州徳川家の徳川頼宣の家臣となる。男子なく、紀州藩士・加納平右衛門久利の子の娘婿である大久保忠直が家督を継ぐ。
須磨の方 大久保往忠
 吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。正徳3年(1713年)にも懐妊したが、同年10月24日、赤坂屋敷において難産のため母子ともに死去した。享年26。墓所は池上本門寺。宝暦13年(1763年)4月16日、従二位が追贈された。 

 紀州藩に仕え、享保元年(1716年)に徳川吉宗が第8代将軍に就任するとその小姓となり300俵を給う。
 享保2年(1717年)10月2日に兄・忠寛が没すると、12月21日に遺領の下野国都賀郡、河内郡700石を相続する。享保9年(1724年)12月15日、都賀郡内で1,300石加増され2,000石となり、従五位下伊勢守に叙任される。翌享保10年(1725年)11月28日、徳川吉宗の側に仕え、河内郡内において3,000石を加増され、計5,000石となる。元文4年(1739年)5月25日、公務を許され、菊間広縁詰めとなり、時服5領を賜る。
 宝暦9年(1759年)8月5日隠居し、卜玄と号する。家督は養子の忠翰(鳥居忠瞭次男)が継いだ。宝暦13年(1763年)5月24日、死去。享年64。