| F651:大久保忠員 | 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 宇津忠茂 ― 大久保忠員 ― 大久保忠為 | F655:大久保忠為 | ● |


| リンク | F653 |
| 大久保忠為 | 大久保忠高 |
|---|---|
|
徳川家康に父や兄弟達とともに仕え、慶長14年(1609年)に縁戚の石川忠総(大久保忠隣次男)が大垣藩主になるとこれを補佐した。大坂の役にも従軍した。元和2年(1616年)8月9日、63歳で死去した。 |
1500石を領した旗本・大久保忠知の長男として生まれる。正保元年(1644年)、父の死去により遺領を相続する。500石を弟の忠信に分与して1500石を領した。小姓組番頭,新番頭を経て寛文2年(1662年)1,000俵加増。延宝4年(1676年)に留守居となり、延宝7年には(1679年)2000俵、天和2年に(1682年)2000石をそれぞれ加増された。さらに側衆に進み、貞享元年(1684年)に2000石加増され、貞享3年(1686年)に1500石を加えて近江国6郡に計1万石を領する大名となった。 |
| 大久保忠保 | 大久保忠舊 |
|
下野烏山藩の第6代藩主。危機的な藩財政を引き継ぎ、天保の大飢饉の中で菅谷八郎右衛門を家老として抜擢、菅谷の推挙で二宮尊徳に財政再建を委ねたことで知られる。 |
大坂の役で石川忠総隊に父とともに属し、戦功を挙げる。その後、紀州徳川家の徳川頼宣の家臣となる。男子なく、紀州藩士・加納平右衛門久利の子の娘婿である大久保忠直が家督を継ぐ。 |
| 須磨の方 | 大久保往忠 |
| 吉宗の側室となり、正徳元年(1711年)12月21日に家重を生んだ。正徳3年(1713年)にも懐妊したが、同年10月24日、赤坂屋敷において難産のため母子ともに死去した。享年26。墓所は池上本門寺。宝暦13年(1763年)4月16日、従二位が追贈された。 |
紀州藩に仕え、享保元年(1716年)に徳川吉宗が第8代将軍に就任するとその小姓となり300俵を給う。 |