<藤原氏>北家 道兼流

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大久保忠世 大久保忠隣

 忠世の家はその支流ながら手柄の大きさから大久保忠俊の本家をしのぐようになった。忠世も永禄6年(1563年)の三河一向一揆や元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いに参陣し、武功を挙げた。特に三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励ます目的で、天野康景とともに武田氏の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して大混乱に陥れ、敵の大将である武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛されたという(この逸話は『三河物語』によるもので、信憑性には疑問がある)。
 また、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいても弟の忠佐,与力の成瀬正一,日下部定好と共に大活躍して織田信長から「良き膏薬のごとし、敵について離れぬ膏薬侍なり」との賞賛を受け、家康からはほら貝を与えられた。同年12月、家康から二俣城の城主に命じられた。忠世は武田氏の来襲に備えて城の改修を行ったが、現在二俣城跡に残る天守台や、二俣城の向かいに築いた鳥羽山城の庭園などは忠世によるものと考えられている。また、天正10年(1582年)6月の本能寺の変後に家康が甲斐・信濃に勢力を広げると、忠世は信州惣奉行として小諸城に在番、依田康国の後見を務めている。天正13年(1585年)の上田合戦にも鳥居元忠,平岩親吉と共に参戦しているが、真田昌幸の前に敗れている。
 一方で政治的にも優れていたともいわれている。また一時期、家康に反抗して追放となった本多正信の帰参を助けたり、若くして重んじられた井伊直政をたしなめたりしている。
 天正18年(1590年)、家康が関東に移ると、豊臣秀吉の命もあって小田原城に4万5千石を与えられた。文禄3年(1594年)死去、享年63。
 1574年、遠江の犬居城を攻撃した時、敵兵の抵抗によって崖下に落とされてしまった。しかし忠世は這い上がって、待ち伏せしていた敵兵3人を一度に斬ったという。忠世は突然お金が必要になった時に備えて、一ヶ月の内の七日間、食事を一切摂らない日を設けるという大掛かりな倹約を行い、死ぬまでその習慣を続けたという。

 永禄6年(1563年)から徳川家康に仕え、永禄11年(1568年)に遠江堀川城攻めで初陣を飾り、敵将の首をあげる武功を立てた。これを皮切りに、家康の家臣として三河一向一揆,元亀元年(1570年)の姉川の戦い,元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い,天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い,天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍し活躍した。三方ヶ原の合戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走するなか、家康のそばを離れず浜松城まで随従したことから、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した。
 天正10年(1582年)の本能寺の変に際して家康の伊賀越えに同行、甲斐・信濃平定事業においても切り取った領国の経営に尽力した。このとき大久保長安も抜擢され、長安は忠隣のもとで辣腕を発揮し、忠隣から大久保の姓を与えられた。
 天正14年(1586年)の家康上洛のときに従五位下治部少輔に叙任され、豊臣姓を下賜された。
 家康の関東入国の折、武蔵国羽生2万石を拝領し、文禄2年(1593年)には家康の嫡男・徳川秀忠付の家老となる。文禄3年(1594年)に父・忠世が死去すると、家督を継ぐとともにその遺領を相続して相模国小田原6万5,000石の領主(のちに初代藩主)となる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い時には東軍の主力を率いた秀忠に従い中山道を進むが、途中の信濃国上田城に篭城する西軍の真田昌幸に対して、攻撃を主張して本多正信らと対立する(上田合戦)。
 慶長6年(1601年)、上野高崎藩13万石への加増を打診されるが固辞した。慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の政権有力者となる。
 しかし、慶長16年(1611年)10月10日に嫡男の大久保忠常を病で失うと、その権勢に陰りが見えはじめる。この際、幕府に無断で小田原まで弔問した者が閉門処分を受けている。嫡男の死に意気消沈した忠隣は、以後政務を欠席することがあり、家康の不興を買った。また、忠常死去後、秀忠が忠隣のために精進落としの宴を開こうとしたが、忠隣はこれを断り、他の老中の不興を買っている。
 慶長18年(1613年)1月8日には山口重政が幕府の許可なく忠隣の養女を子の重信に娶らせたとして改易になっている。この件は忠隣の発言として、以前に養女の実祖父・石川家成が婚姻の件を伝え許可を得たため、改めて自身が許可を得る必要はないとして、秀忠の許可を得ようとしなかったとある。幕府の決定を受けた忠隣は同月15日に甚だしく腹を立てたとあり、翌日に子とともに江戸城へ出仕している。また、同年4月には与力の大久保長安の死後、その不正蓄財が露見したことに関連して、長安の子が切腹させられる事件が発生している(大久保長安事件)。
 このような状況下で、12月に江戸から駿府へ帰国する家康が、6日に到着した相模国中原に数日逗留後、13日に突如江戸へ引き返している。この理由として、『駿府記』には翌年に東金で鷹狩を行うためとある一方、『当代記』には前日に江戸から土井利勝が秀忠の使者として来たことと、旧穴山衆の浪人・馬場八左衛門が忠隣が謀反を企んでいると訴え出たことを理由としている。使者については、『石川正西聞見集』に秀忠より何度も使者が来たのが江戸引き返しの理由とあり、『駿府記』にも7日に板倉重宗が使者として来たとある。
 その後、12月19日に忠隣は幕府からキリシタン追放の命を受け京へ上り、翌慶長19年(1614年)1月18日より伴天連寺の破却、信徒の改宗強制、改宗拒否者の追放を行っている。しかし、翌日に突如改易を申し渡された。居城の小田原城は本丸を除き破却され、2月2日には前年に無嗣断絶した大久保忠佐の居城・三枚橋城も破却された。その後、忠隣は近江国に配流され、井伊直孝に御預けの身となった。このとき、栗太郡中村郷に5,000石の知行地を与えられている。3月1日には忠隣は天海を通じて弁明書を家康に提出し、家康はこれを見るも特に反応は返していない。3月15日には堀利重が連座して改易になっている。その後、出家して渓庵道白と号し、寛永5年(1628年)6月27日に死去した。享年75。将軍家の許しが下ることはついになかった。
 改易の理由について、『駿府記』では先述の無断婚姻を挙げている。また、『駿府記』には、2月1日に土井利勝が家康と面会した際に、忠隣と親しい者が多くいることに秀忠が腹を立てていると報告している。これに応じて2月14日に江戸の幕閣が提出を求められた起請文には、忠隣とその子との音信を禁じる項がある。なお、本多正信・正純父子が、政敵である忠隣を追い落とすための策謀をめぐらせたとする見解が江戸時代からある。『徳川実紀』も本多父子による陰謀説を支持しているが、当時の史料でこの点に触れたものはなく、ただ細川忠興が書状で忠隣改易により、正信の権勢は以前の10倍になったと評している。正信は、配流後の忠隣へ小田原にいる忠隣の母と夫人の無事を伝える書状送っており、正信が忠隣に恩があることから、大久保忠教は両者のいさかいは作りごとと断じている。また、豊臣政権を一掃しようと考えていた家康が、西国大名と親しく、和平論を唱える可能性のあった忠隣を遠ざけたとする説もある。
 改易を言い渡されたのは慶長19年(1614年)1月19日で、忠隣はこのとき京都の藤堂高虎の屋敷で将棋を指していた。そこに前触れもなく、家康の上使として京都所司代・板倉勝重が現れたのを聞いて全てを悟り、「流人の身になっては将棋も楽しめぬ。この一局が終わるまでお待ちいただきたい」と告げると、勝重はそれを承知したという。また、井伊直孝が、家康の死後に大久保忠隣の冤罪を将軍・秀忠に嘆願しようと図ったところ、忠隣は家康に対する不忠になるとして、これを断ったとされる。

大久保忠常 大久保忠職

 幼少時から智勇に優れた人物で、家康・秀忠父子からも気に入られており、三河譜代の子弟達と共に秀忠の御前で執り行われた元服時には、秀忠から「忠」の偏諱を賜っている。武蔵騎西に2万石を与えられた上、将来の老中職も約束されていた。忠常は慈悲深く温厚篤実な人物で、余人からの人望も厚く、父も忠常の将来を期待していたと言われている。しかし、慶長16年(1611年)、父に先立って32歳の若さで死去してしまった。
 『徳川実紀』では、忠常の死は病死とされているが、それに関して疑わしい記述もある。「忠常若年ながら其権威すこぶる佐渡守(本多正信)が右に出たり。正信常にこれを嫉妬せしかば、その死に望みかれに親しき徒までも悪し様にはからひしと言ふ」とあるように、当時、父の忠隣と権勢を競っていた本多正信・正純父子の手によって暗殺されたのではないかという疑いもある。忠隣は愛する嫡男の急死に意気消沈して屋敷に引き籠もりがちになり、やがてそれが慶長19年(1614年)の改易につながったのであった。ただし、弟の石川忠総と子の忠職はやがて許され、大名に復帰した。 

 慶長9年(1604年)、大久保忠隣の嫡男・忠常の長男として生まれる。慶長16年(1611年)、父の早世により家督を継ぐものの、大久保氏の政務はまだ健在であった祖父・忠隣が行った。しかし、慶長19年(1614年)、大久保長安事件の余波を受けて忠隣が改易され、近江栗太郡中村に流罪となった他、大久保氏の多くも処罰された。しかし、祖父・忠隣の功績が大きいこと、加えて外祖母が徳川家康の長女・亀姫であったことを考慮した幕府から特別に、嫡孫の当人だけは2万石の騎西藩主として騎西城での蟄居処分として罰を軽減され、大久保氏の存続を許されている。
 寛永2年(1625年)、忠職は罪を赦され、寛永3年(1626年)12月5日には加賀守に叙位・任官される。寛永9年(1632年)1月11日、3万石加増の5万石で美濃加納藩へ加増移封となる。この要地・加納への入封とは前任者である母方の従弟・奥平忠隆の死去に伴うもので、亡き外祖母・盛徳院供養の意味合いもあったとみられる。
 寛永16年(1639年)3月3日には2万石加増の7万石で播磨明石藩へ移封される。慶安2年(1649年)7月4日には1万3000石加増の8万3000石で肥前唐津藩へ加増移封された。
 忠職は前藩主・寺沢氏による悪政を糺すため、唐津藩の藩政においては地方知行制の廃止と蔵米知行制の導入、代官制度による統治と農民登用による民政の安定など、藩政の基礎固めに努めた。寛文10年(1670年)4月19日に死去。享年67。
 3人の息子が早世して嗣子がなく、従弟の忠朝(叔父の旗本・大久保教隆の次男)を後継とした。墓所は京都市上京区寺町通りの本禅寺。墓碑が佐賀県唐津市和多田の丸宗公園にある。 

大久保教隆 大久保教勝

 少年の頃から徳川秀忠に仕え、慶長5年(1600年)の会津征伐の際は宇都宮まで同行。その後、関西で石田三成が挙兵したため、中山道を通り信濃国耳取まで秀忠に同行するが、年が若かったためそこで江戸に帰された。そのため、上田城攻めや関ヶ原の戦い本戦には参戦していない。
 慶長10年(1605年)、従五位下右京亮に叙任。慶長11年(1606年)、領地3000石を与えられ、御小姓組の番頭に任ぜられた。同時期の小姓組番頭は他に5名おり、それぞれ、水野忠元,井上正就,板倉重宗,日下部正冬,成瀬正武。 しかし、慶長19年(1614年)、父・忠隣が改易に処された際、教隆も連座して天海に預けられ、その後、川越藩の酒井忠利の元で蟄居処分となり、元和3年(1617年)には盛岡藩の南部利直の元に移された。
 寛永5年(1628年)、赦免されて旧知を取り戻す。寛永9年(1632年)、御書院の番頭に任ぜられた。寛永10年(1633年)には3000石を加増されて、合計6000石を領する旗本寄合となった。寛永12年(1635年)、大番頭に任ぜられた。寛永20年(1643年)、58歳で没した。なお、次男の忠朝は本家の大久保忠職の養子となり、老中になった上、忠隣の改易で失った旧領小田原への復帰を果たした。 

 江戸時代の旗本。寛永20年(1643年)12月7日、父の遺領6000石を継ぎ、翌年の正保元年(1644年)12月29日に父と同じ従五位下右京亮に叙される。慶安元年(1648年)3月28日に御小姓組の番頭、慶応3年(1650年)9月3日に西城御書院番頭、明暦2年(1656年)1月15日に大番頭となる。寛文10年(1670年)9月11日、大番頭から江戸城留守居に昇進、天和元年(1681年)8月21日に職を辞して寄合となり、翌天和2年(1682年)7月12日に没した。 
大久保忠成 大久保忠重

 最初の駿府城代であり、駿河国庵原郡・益津郡の中で5000石を知行した旗本。大久保玄蕃知行所は明治まで大久保家の領地として9代続いた。歴代大久保家当主を大久保玄蕃(頭)と記載する資料も多い。
 天正年中、12歳で徳川家康に拝謁。その後、徳川家康に近侍し、九戸政実の乱や文禄・慶長の役における名護屋城駐屯、関ヶ原の戦いでの上田城攻めに供奉した。書院番士となった後、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では青山忠俊の配下で活躍する。その軍功により領地を1000石加増され、常陸国行方郡・上総国武射郡に3000石を知行する。
 元和2年(1616年)に書院番組頭となる。寛永3年(1626年)8月19日、従五位下・玄蕃頭に叙任。寛永10年(1633年)2月26日、駿府城代になる。最初の府中御城代(駿府城代)であり、その時、御役地2000石を給わり、大手御門小屋敷(駿府城代が居住する屋敷)を拝領した。領地を改めて駿河国庵原郡・益津郡に5000石を領する。
 明暦2年(1656年)6月5日、24年間勤めた駿府城代を辞す。寛文10年(1670年)10月23日に致仕し、長男・忠重がその跡を継ぐ。寛文12年(1672年)1月18日亡くなる。墓地は伊皿子の長慶寺。没年齢については通常95歳とされるが、『寛永諸家系図伝』では天正4年(1576年)に12歳とされているため、それに基づくと108歳となる。どちらかが誤りとみられるが、明確でないため『寛政重修諸家譜』では保留としている。錦屏山長福寺過去帳によると忠成は元和2年(1616年)9月26日に亡くなったとされ、寛文12年(1672年)1月18日に亡くなったのは、忠重との記載がある。 

 大久保玄蕃知行所の2代目領主、上級旗本。通称は四郎左衛門。父・忠成から5000石を相続し、天和2年(1682年)に79歳で亡くなる。寛文10年(1670年)に家を継いだ時は67歳で、元和8年(1622年)から寛文元年(1661年)までの40年間は空白期間となっている。歴代大久保玄蕃家では珍しく、官位を持ったとの記録は無い。
 寛文10年(1670年)、駿河国益津郡内の大久保玄蕃頭領(方之上村,中里村,中村,小浜村,花沢村,馬場村,坂本村)と長崎弥左衛門領の農民が、東海道の丸子宿への助馬(助郷)の役が遠くて難儀との願書を奉行に対して出している。丸子まで4里ほど離れていて、間に日本坂という山の難所があり、それを越えて前日から丸子で待機し、当日役を勤めたら、その夜も丸子に泊まり、合計3日かかるという。 

大久保忠兼 大久保忠宣

 大久保玄蕃知行所の3代目当主、上級旗本。5000石を相続し、出世を重ね1700石加増され、知行地は6700石となった。従五位下・玄蕃頭も叙任し、大久保玄蕃頭忠兼と呼ばれる。
 領土の瀬名に貯水池の弁天池を造営した。忠兼の妻(牧野信成の娘)が夢のお告げで弁天様に、上野の不忍池に倣って造れと言われたという伝説がある。

 大久保玄蕃知行所の9代目にして最後の領主、上級旗本。6000石を知行し幕府大監察を勤める。通称は四郎左衛門、紀伊守。
 慶応4年(1868年)2月20日、駿府町奉行を旧幕府より罷免された後、彰義隊に加わる。江戸の警備を担っていたものの賊軍とされ、上野の寛永寺に立てこもり官軍と戦う。上野戦争の終盤、根本中堂前の最後の決戦時に、忠宣は残り100名の彰義隊を引き連れ、東照宮の旗を持ち官軍に立ちはだかるも、忠宣は額に砲弾を受け倒れる。これを見て残った彰義隊は3人(天野八郎,新井鐐太郎,紀伊守家来の常助)だったという。享年50ほど。