| F651:大久保忠員 | 藤原道兼 ― 宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 宇津忠茂 ― 大久保忠員 ― 大久保忠世 | F652:大久保忠世 |


| リンク | F653 |
| 大久保忠世 | 大久保忠隣 |
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忠世の家はその支流ながら手柄の大きさから大久保忠俊の本家をしのぐようになった。忠世も永禄6年(1563年)の三河一向一揆や元亀3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いに参陣し、武功を挙げた。特に三方ヶ原の戦いでは、敗戦後に意気消沈する味方を励ます目的で、天野康景とともに武田氏の陣のあった犀ケ崖を闇夜の中銃撃して大混乱に陥れ、敵の大将である武田信玄に「さてさて、勝ちてもおそろしき敵かな」と賞賛されたという(この逸話は『三河物語』によるもので、信憑性には疑問がある)。 |
永禄6年(1563年)から徳川家康に仕え、永禄11年(1568年)に遠江堀川城攻めで初陣を飾り、敵将の首をあげる武功を立てた。これを皮切りに、家康の家臣として三河一向一揆,元亀元年(1570年)の姉川の戦い,元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦い,天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い,天正18年(1590年)の小田原征伐などに従軍し活躍した。三方ヶ原の合戦の折には、徳川軍が算を乱して潰走するなか、家康のそばを離れず浜松城まで随従したことから、その忠節を家康に評価され、奉行職に列した。 |
| 大久保忠常 | 大久保忠職 |
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幼少時から智勇に優れた人物で、家康・秀忠父子からも気に入られており、三河譜代の子弟達と共に秀忠の御前で執り行われた元服時には、秀忠から「忠」の偏諱を賜っている。武蔵騎西に2万石を与えられた上、将来の老中職も約束されていた。忠常は慈悲深く温厚篤実な人物で、余人からの人望も厚く、父も忠常の将来を期待していたと言われている。しかし、慶長16年(1611年)、父に先立って32歳の若さで死去してしまった。 |
慶長9年(1604年)、大久保忠隣の嫡男・忠常の長男として生まれる。慶長16年(1611年)、父の早世により家督を継ぐものの、大久保氏の政務はまだ健在であった祖父・忠隣が行った。しかし、慶長19年(1614年)、大久保長安事件の余波を受けて忠隣が改易され、近江栗太郡中村に流罪となった他、大久保氏の多くも処罰された。しかし、祖父・忠隣の功績が大きいこと、加えて外祖母が徳川家康の長女・亀姫であったことを考慮した幕府から特別に、嫡孫の当人だけは2万石の騎西藩主として騎西城での蟄居処分として罰を軽減され、大久保氏の存続を許されている。 |
| 大久保教隆 | 大久保教勝 |
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少年の頃から徳川秀忠に仕え、慶長5年(1600年)の会津征伐の際は宇都宮まで同行。その後、関西で石田三成が挙兵したため、中山道を通り信濃国耳取まで秀忠に同行するが、年が若かったためそこで江戸に帰された。そのため、上田城攻めや関ヶ原の戦い本戦には参戦していない。 |
江戸時代の旗本。寛永20年(1643年)12月7日、父の遺領6000石を継ぎ、翌年の正保元年(1644年)12月29日に父と同じ従五位下右京亮に叙される。慶安元年(1648年)3月28日に御小姓組の番頭、慶応3年(1650年)9月3日に西城御書院番頭、明暦2年(1656年)1月15日に大番頭となる。寛文10年(1670年)9月11日、大番頭から江戸城留守居に昇進、天和元年(1681年)8月21日に職を辞して寄合となり、翌天和2年(1682年)7月12日に没した。 |
| 大久保忠成 | 大久保忠重 |
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最初の駿府城代であり、駿河国庵原郡・益津郡の中で5000石を知行した旗本。大久保玄蕃知行所は明治まで大久保家の領地として9代続いた。歴代大久保家当主を大久保玄蕃(頭)と記載する資料も多い。 |
大久保玄蕃知行所の2代目領主、上級旗本。通称は四郎左衛門。父・忠成から5000石を相続し、天和2年(1682年)に79歳で亡くなる。寛文10年(1670年)に家を継いだ時は67歳で、元和8年(1622年)から寛文元年(1661年)までの40年間は空白期間となっている。歴代大久保玄蕃家では珍しく、官位を持ったとの記録は無い。 |
| 大久保忠兼 | 大久保忠宣 |
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大久保玄蕃知行所の3代目当主、上級旗本。5000石を相続し、出世を重ね1700石加増され、知行地は6700石となった。従五位下・玄蕃頭も叙任し、大久保玄蕃頭忠兼と呼ばれる。 |
大久保玄蕃知行所の9代目にして最後の領主、上級旗本。6000石を知行し幕府大監察を勤める。通称は四郎左衛門、紀伊守。 |