<藤原氏>北家 道兼流

F652:大久保忠世  宇都宮宗円 ― 宇都宮泰綱 ― 武茂泰宗 ― 宇津忠茂 ― 大久保忠員 ― 大久保忠世 ― 大久保忠朝 F653:大久保忠朝


リンク F654
大久保忠朝 大久保忠増

 江戸時代初期に本多正信・正純父子との抗争に敗れて失脚した大久保忠隣の孫にあたる。従兄の大久保忠職の養子となる。家督を相続する前より小姓,小姓組番頭を勤め、寛文10年(1670年)、肥前唐津藩9万3000石を相続し、延宝5年(1677年)に老中となる。貞享3年(1686年)には祖父・忠隣の領地であった小田原への復帰を果たす。漸次加増を受け、最終的に11万3000石となる。
 『土芥寇讎記』における人物評価、特に「謳歌評説」などでは忠朝を、戸田忠昌,阿部正武ら同僚と並べて「善人の良将」と評している。徳川吉宗が世に出るきっかけを作った人物でもある。なお、現在の旧芝離宮恩賜庭園は延宝6年(1678年)に忠朝が4代将軍・徳川家綱から拝領した庭園が原型となっている。 

 宝永4年(1707年)11月の富士山噴火は、約2ヶ月前の宝永南関東地震を契機に発生したといわれているが、小田原藩領のうち、足柄上郡と駿東郡が大打撃を受けた。忠増は、家臣・柳田久左衛門に命じて被害状況を調べさせたが、忠増は老中として江戸にあり、直接指揮がままならなかったこと、小田原藩は4年前の元禄大地震の余波から立ち直れず、復興資金繰りに難渋したこともあり、藩の救済は捗らず、このため、被害の大きかった足柄上郡104ヶ村と駿東郡59ヶ村の住民は幕府に直訴に及ぶ構えをみせ、ここに至り忠増は藩単独での復興をあきらめ、幕府に救済を願い出た。
 翌宝永5年(1708年)1月3日、幕府は被害の大きかった足柄地方と御厨地方(現御殿場市)の6万石を天領とし、藩には代わりに伊豆,美濃,播磨のうちに代替地が与える処分が出され、早くも1月7日には関東郡代・伊奈忠順を復興総奉行に任命し、その資金は全国から100石につき金2両という割合で高役金(臨時課税)を課して集めた48万両余を当てる一方、被災地の土地改良・河川改修の手伝普請に備前岡山藩など5つの諸大名に分担させた。
 正徳3年(1713年)7月25日に死去した。享年58。足柄・御厨地域6万石が小田原藩に還付となったのは35年後の延享4年(1747年)で、火山灰が降り積もったため領内の酒匂川はしばしば土砂氾濫・洪水を繰り返し、最終的に足柄平野の復興したのは、噴火発生から76年後の天明3年(1783年)である。 

大久保忠顕 大久保忠真
 忠顕が藩主の頃、小田原では天明の大飢饉や地震による小田原城や城下町の倒壊など、その治世は天災により多難を極めた。おまけに城下町が東海道一の宿場町であったことから、商品経済の渦に巻き込まれ、財政が窮乏する。このため、忠顕は質素倹約や華美の禁止などによる財政改革を行なったが、かえって物価高騰を招いた。おまけに幕府から海防を命じられ、さらに財政は逼迫した。このため、藩の改革は長男・忠真と二宮尊徳によって受け継がれることとなる。 

 江戸時代後期になると、小田原藩でも財政窮乏により藩政改革の必要性に迫られていた。そのため、忠真は二宮尊徳を登用して改革を行うこととした。尊徳は藩重臣・服部家の財政を再建した実績をすでに持っていた。忠真もその話を聞き、小田原藩の再建を依頼しようとしたのである。しかし、尊徳の登用はすぐには実現しなかった。身分秩序を重んじる藩の重役が反対したのである。そこでまず、忠真は文政5年(1822年)、尊徳に下野国桜町(分家・宇津家の知行地)の復興を依頼した。桜町は3000石の表高にもかかわらず、荒廃が進んで収穫が800石にまで落ち込み、それまでにも小田原藩から担当者が派遣されていたが、その都度失敗していたのである。
 尊徳が桜町復興に成功すると、忠真は重臣たちを説き伏せ、尊徳に小田原本藩の復興を依頼し、金1000両や多数の蔵米を支給して改革を側面から支援した。尊徳登用を思い立ってから15年が経っていた天保8年(1837年)のことである。尊徳の農村復興は九分九厘成功したが、天保8年、忠真が57歳で突如として急死してしまい、跡を嫡孫の忠愨が継ぐと、尊徳は後ろ盾を無くしたために改革は保守派の反対によって、あと一歩というところで挫折してしまう。
 また、文政5年(1822年)には藩校集成館を興した。この藩校は維新後、幾度かの変遷を経て六郡共立小田原中学校となり、1886年(明治19年)、同中学校が大住郡金目村に移転され三郡共立学校となることで、神奈川県立秦野高等学校,神奈川県立平塚農業高等学校の前身となった。
 一方、幕政においては松平定信の推挙で老中となり、20年以上在職する。政治手腕等においては、同役の水野忠邦に比較すると影は薄いが、反面で矢部定謙,川路聖謨,間宮林蔵など下級幕吏を登用・保護している。 

大久保忠礼 大久保忠良

 天保12年(1841年)12月2日、讃岐高松藩主・松平頼恕の5男として生まれる。安政6年(1859年)、第8代小田原藩主・大久保忠愨の死去により、その養子として家督を継ぐ。
 文久3年(1863年)11月、奏者番に任じられる。元治元年(1864年)の第14代将軍・徳川家茂の上洛にも従った。慶応3年(1867年)9月から慶応4年(1868年)までは甲府城代を務めた。
 慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では、官軍に恭順して箱根の関所を明け渡したが、5月に林忠崇や伊庭八郎ら旧幕府軍の攻撃により官軍側が一時的に不利になると、旧幕府方に協力した。しかし、江戸に在府していた藩士・中垣斎宮の説得を受けて、自ら本源寺に謹慎して再び官軍に恭順した。戦後に裏切ったことを問題視され、明治元年(1868年)9月、蟄居の上、家督を養子の忠良に譲ることを余儀なくされた。
 のちに罪を許され、明治8年(1875年)7月、忠良から家督を返上されて再び当主となった。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。明治30年(1897年)8月10日に死去。享年57。 

 安政4年(1857年)5月5日、小田原藩の支藩である相模荻野山中藩主・大久保教義の長男として江戸で生まれる。明治元年(1868年)、第9代藩主・大久保忠礼が林忠崇や伊庭八郎らと協力して新政府に反逆した責任を問われて強制的に隠居させられたため、忠礼の養子となって家督を継いだ。ただし、石高を11万3000石から7万5000石に削減された上で相続している。
 明治2年(1869年)の版籍奉還で小田原藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免職された。同年の9月に新銭座慶應義塾に入学する。明治8年(1875年)7月、病気を理由に大久保家の家督を忠礼に返している。
 明治10年(1877年)、西南戦争に参加し、3月29日に熊本県山本郡において戦死した。享年21。 

宇津教信
 大久保氏が宇都宮氏として元々名乗っていた宇津氏を称した。元禄11年(1698年)、小田原藩の飛地のうち下野国芳賀郡3ヶ村(物井・横田・東沼村)4000石の分知をうけ、翌12年(1699年)物井村桜町に桜町陣屋を構えた。教信は、江戸定府で、陣屋には役人を派遣していた。