<藤原氏>北家 道兼流

F653:大久保忠朝  宇都宮宗円 ― 武茂泰宗 ― 宇津忠茂 ― 大久保忠員 ― 大久保忠世 ― 大久保忠朝 ― 大久保教寛 F654:大久保教寛

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大久保教寛 大久保教趐

 明暦3年(1657年)、相模小田原藩主・大久保忠朝の次男として生まれる。元禄5年(1692年)4月14日、小姓組番頭に任じられて2000俵取りとなる。同年12月18日、従五位下・長門守に叙任される。元禄10年(1697年)に安房長狭郡に所領を与えられた。元禄11年(1698年)に兄の大久保忠増が本家小田原藩の家督を継ぐと、兄から駿河・相模国内で6000石を与えられた。元禄12年(1699年)1月11日に書院番頭に任じられ、閏9月28日には側用人に任じられる。宝永3年(1706年)10月15日には西の丸若年寄に任じられ、駿河富士郡などに5000石加増の1万1000石を領したため、大名・駿河松長藩主となった。
 宝永6年(1709年)1月10日、若年寄に任じられる。享保3年(1718年)3月3日、さらに相模大住郡などにおいて5000石を加増され、1万6000石を領する大名となった。享保15年(1730年)11月27日、家督を長男・教端に譲って隠居する。元文2年(1737年)12月17日に死去した。享年81。 

 明和2年(1765年)、初代松長藩主・大久保教寛の4男・大久保教平の子で3000石を領した旗本・大久保教近の長男として生まれる。安永2年(1773年)に本家筋にあたる第4代松長藩主・教倫が嗣子無くして死去したため、その養子として家督を継いだ。天明2年(1782年)12月、従五位下・中務少輔に叙任される。天明3年(1783年)10月6日、陣屋を松長から荻野山中に移す(荻野山中陣屋)。荻野山中藩の初代藩主となり、同時に参勤交代義務化の大名となった。
 荻野山中に移った後、苦しい藩財政を再建するため、倹約や知行借上げなどを積極的に行うが、効果はなかった。ほかにも学問・武芸を奨励している。
 寛政8年(1796年)7月9日に死去した。享年32。跡を長男・教孝が継いだ。 

大久保教孝 大久保教義

 寛政8年(1796年)に父が死去したため、家督を継ぐ。文化7年(1810年)7月1日に大番頭に任じられ、文政4年(1821年)12月12日には大坂定番、天保7年(1836年)11月20日には奏者番に任じられるなど、要職を歴任した。このため、出費増大で藩財政が悪化し、弘化2年(1845年)2月には「養蚕要略」を公布して養蚕業の奨励・発展に努め、さらに年貢増徴,倹約,上米などを行ったが、効果は望めなかった。
 弘化2年(1845年)12月7日、病気を理由に家督を3男・教義に譲って隠居した。安政7年(1860年)1月24日に死去。享年74。 

 文政8年(1825年)4月7日、第2代藩主・教孝の3男として生まれる。兄の教業が早世したため嫡子となり、弘化2年(1845年)12月7日、父の隠居により家督を継いだ。同年のうちに従五位下・長門守に叙任された。
 文久元年(1861年)に大番頭に任じられ、元治元年(1864年)に出雲守に転任する。藩政においては藩財政難で5500両の借金に苦しみ、その対応に追われた。幕末期の慶応3年(1867年)12月、幕末三大焼き討ちといわれる江戸薩摩藩邸に集まった鯉渕四郎ら倒幕派浪士隊が、教義が甲府城の勤番のために留守であった山中陣屋を襲撃したため、山中陣屋は焼失した。慶応4年(1868年)には中務少輔に転任する。
 以後は新政府に恭順したため、明治2年(1869年)6月の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免官された。明治18年(1885年)5月26日に死去。享年61。教義の長男・忠良は本家小田原藩の家督を継いで最後の藩主となった。