F627:西郷政隆 | 藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原道隆 ― 菊池則隆 ― 西郷政隆 ― 西郷信治 | F628:西郷信治 |
リンク | F629・F630・G135 |
西郷信貞 | 西郷正員 |
---|---|
三河守護職となった仁木義長に従って九州より三河国へ移った西郷氏は仁木氏失脚後も三河に留まり、やがて松平氏と争うようになる。明大寺城主であった西郷稠頼,頼嗣父子は1455(康正元)年頃に松平信光の侵攻に備えて菅生川と矢作川の合流地点にある竜頭山に砦(龍燈山城)を築いた(岡崎城の前身)。 |
1509(永正6)年、嵩山西郷氏を背負って立つことになる弾正左衛門正員が誕生する。通常は正員をもって東三河(嵩山)西郷氏の初代としている。 |
西郷正勝 | 西郷義勝 |
三河国の支配力を強める今川氏に従っていたが、主家からの期待は少なくなかったと考えられる。娘を遠江国の戸塚忠春に嫁がせているのは、今川氏の下命があったものと考えられる。一方で嫡子・孫六郎には、今川義元の一字・元を許されている。 |
永禄5年(1562年)、祖父と父の戦死により西郷家は家運衰退の危機に陥った。主君である徳川家康は、義勝の叔父である西郷清員に西郷の家督を継がせようとしたが、これを清員は頑なに拒み、兄の子である幼い義勝への相続を懇請。家康が折れて、義勝が家督相続することとなった。義勝は、清員の後見を得ながら成長し、西郷氏は家康への忠節を尽くした。 |
西郷正友 | 西郷於愛(西郷局) |
元亀2年(1571年)春、武田氏配下・秋山虎繁(信友)による三河侵攻に対抗。懸命の迎撃戦により武田軍を一時的に退けることに成功したものの総領の兄・義勝は、この戦いで命を落とした。 |
徳川家康の側室として知られ、最愛の側室だったとも言われている。院号は竜泉院,宝台院。母は今川氏の命であろうか、遠江国の戸塚忠春に嫁している。 |