<藤原氏>北家 道隆流

F628:西郷信治  藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原道隆 ― 菊池則隆 ― 西郷政隆 ― 西郷信治 ― 西郷家員 F629:西郷家員

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西郷忠員 西郷正員
 文禄4年(1595年)、徳川秀忠の御前において大久保忠常たちと一緒に元服。秀忠から一字拝領の上、左文字の脇差を賜った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは武者奉行を拝命している。決戦の後、近江佐和山城の城地受け取りを内藤信正,石川康通らと務めている。翌慶長6年(1601年)5月27日に佐和山城内で死去。実子が無く、弟の康員を跡目とした。

  文禄2年(1593年)、西郷家員の4男として下総国生実に生まれる。慶長18年(1613年)、三兄・康員の死去によって家督を継承する。慶長20年(1615年)正月、松平定綱,牧野忠成,本多忠朝らとともに大久保忠隣の小田原城を、9月には松平康長らとともに、忠隣の改易に連座した里見忠義の館山城を収公した。元和5年(1619年)5月、福島正則の改易不服の場合に備えて遠江国久野城の城番役を務めた。
 翌6年(1620年)9月、安房国内2郡へ加封となって東条藩を創設した。藩領は朝夷郡19ヶ村6894石、長狭郡4ヶ村3106石の計1万石である。同年閏12月28日(1621年2月19日)、若狭守に叙任された。
 寛永9年11月16日(1632年12月27日)、徳川忠長遺臣の山県権右衛門の身柄を預かる。寛永15年(1638年)に死去、享年46。跡を長男の延員が継いだ。
 また、日照山法光寺の開基檀越でもある。同寺に西郷家代々の墓所が残っているが、子孫からの連絡は一切ないという。

西郷茂員 西郷寿員

  東条藩嫡子であった従兄弟の西郷氏員の早世によって、実子の居なくなった伯父・延員の養嗣子に迎えられた。
 天和2年2月21日(1682年3月29日)には、東条藩の跡目として将軍・徳川綱吉に拝謁、のちに御小姓として取り立てられている。しかし、貞享元年11月25日(1684年12月31日)に粗相があったのか、御小姓を廃されている。理由は不明である。そして同5年2月11日(1688年3月12日)には生家に送り返された。これで完全に東条藩の跡目から除外された。
代わって大村純長の5男・万之丞(寿員)が延員の婿養嗣子となった。

  延宝元年(1673年)、肥前大村藩主・大村純長の5男として生まれる。
 貞享5年(1688年)7月29日、安房東条藩第2代藩主・西郷延員の婿養子となる。徳川綱吉の寵愛を受けて、元禄2年(1689年)5月18日に御小姓となる。12月7日に従五位下・越中守に叙任する。元禄3年(1690年)12月25日、養父の隠居により家督を継いで藩主となる。元禄5年(1692年)2月7日、下野上田藩に移封されるが、元禄6年(1693年)、先年に処罰された延員と同じく不行状、勤務怠慢などの罪を咎められて所領の半分を没収され、上田藩は廃藩となった。その後、西郷氏は5000石の交代寄合となった。
 寛保元年(1741年)に死去、享年69。跡を大田原清勝の子の忠英が養子となって継いだ。