<藤原氏>北家 道隆流

F628:西郷信治  藤原冬嗣 ― 藤原師輔 ― 藤原道隆 ― 菊池則隆 ― 西郷政隆 ― 西郷信治 ― 西郷近房 F630:西郷近房

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西郷近光 西郷近思

 会津藩番頭・西郷近寧の子として生まれる。天明3年(1783年)藩主・松平容頌に初めて拝謁する。天明8年(1788年)に物頭となり、寛政10年(1798年)奉行,享和3年(1803年)若年寄と累進し、文化7年(1810年)には加増を受け、知行1000石となり家老職を拝命する。文化9年(1812年)には功績を賞されて300石の加増を受ける。文化10年(1813年)藩主・松平容衆の家督相続の御礼言上の際に、江戸城で将軍・徳川家斉に拝謁する。
 文政元年(1818年)会津藩大老職を拝命するも、翌文政2年(1819年)死去。家督は嫡男近思が相続した。

  会津藩若年寄・西郷近光の子として生まれる。文政2年(1819年)藩の大老職を務めていた父・近光が死去し、15歳で家督と知行1300石を相続。同年、藩主世子・松平容敬が、江戸城で将軍・徳川家斉に拝謁する際に、随従し拝謁する。文政7年(1824年)10月に若年寄、文政10年(1827年)9月には累進して家老職を拝命する。天保9年(1838年)3月、藩主・容敬より功労を賞されて刀を賜る。天保11年(1840年)3月には200石を加増された。安政4年(1857年)家老職を辞任して、家督を嫡男・近悳に譲り隠居する。この際に200石を加増され、知行は1700石となった。安政7年(1860年)3月10日、56歳で死去。
西郷近悳(保科近悳) 西郷四郎

 父の西郷頼母近思が江戸詰の大老職であり、少年期は会津藩家老の嫡子として、父と一緒に生活し、未曾有の難局に立ち向かう指導者として父の姿を見て育った。10歳で江戸邸の学校・会津藩中屋敷日新館に入学し書学を学ぶ。14歳の時、藩主・松平容敬に初見参し、側役として小姓頭を近習の司を拝命する。15歳で家督を継ぐ。藩校日新館の進級は完全実力主義。学問を通じて長州の吉田松陰とも交流があった。会津藩士・林三郎は下級藩士の次男で幕府麹町教授所塾頭から勝海舟補佐役・幕臣になった。頼母は林と親しい間柄になり、学問,天下の情勢に詳しいという自負があった。僅か23歳で家老に就き、以後36年間藩政に参与する。
 万延元年(1860年)、家督と家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。文久2年(1862年)、幕府から京都守護職就任を要請された容保に対し、政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言した。その後も禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いている。これにより、家老職まで解任された上に蟄居させられる。その後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはと話し合われてもいる。
 明治元年(1868年)、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。このとき、頼母を含む主な家老,若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側からの家老らに対する切腹要求に態度を一変。頼母は白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃したが、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受けて白河城を失陥(白河口の戦い)。その後2ヶ月以上にわたり白河口を死守したが、7月2日に棚倉城陥落の責任により総督を解任される。会津防衛に方針転換してからは進入路に当たる峠(背炙山)の1つを守っていたが、他方面の母成峠を板垣退助率いる土佐迅衝隊に突破されたために、新政府軍が城下を取り囲んだ。
 そこで若松城に帰参した頼母は、藩主・松平容保の切腹による会津藩の降伏を迫ったため、容保以下、会津藩士が激怒。身の危険を感じた頼母は、長子・吉十郎のみを伴い伝令を口実として城から逃げ出した。家老・梶原平馬が不審に思い、追手を差し向けたが、その任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を深追いせず、結果として追放措置となった。なお、母,妹2人,妻,5人の娘は慶応4年8月23日(1868年10月8日)、親戚12人と共に自邸で自害している。 そのため頼母は会津藩に最後まで忠誠を尽くした忠臣という評価と、家族は潔く自害したのに自身は逃亡し生き長らえたことから、卑怯者,臆病者とされる評価で二分されている。
 頼母は非戦派、京都守護職で藩財政は逼迫、領民の生活困窮を憂いた。戊辰戦争の武器・資金調達の責任者は家老・梶原平馬であったが、長岡藩・庄内藩と違って、資金がないため性能の劣る旧式武器しか買えない。白河口総督・頼母の作戦は採用されず、敗戦が続いた。親交のある勝海舟の補佐役・林三郎(元会津藩士)から、徳川宗家の静岡移転情報もあり、停戦降伏を主張したが受け入れられない。梶原平馬はプロイセンの武器商人スネル兄弟に新式兵器の購入を申し入れた。プロイセンは奥羽越列藩同盟が長期戦勝利すると見通したが、新政府に新潟港で武器を押さえられ、会津藩,奥羽越列藩同盟は短期敗戦に終結した。会津藩・庄内藩は警備した蝦夷の領地をプロイセンに租借契約(99年間貸付)を進め未遂におわった。もし、会津藩,奥羽越列藩同盟が勝利すれば、北海道は昭和40年代まで植民地になる可能性もあった。
 明治4年(1871年)、西郷頼母に刺客を放ったとされる梶原平馬は、林三郎を伴い静岡藩の勝海舟に斗南藩の経済援助要請を行った。当時、頼母は東京に住み林三郎と交流があり、梶原と再会した可能性がある。斗南藩が廃止されると、梶原は消息不明になった。
 会津から逃げ延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。明治3年(1870年)、西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科近悳となる。
 明治4年(1871年)、林三郎は、静岡県の要職に就き、親しい保科近悳,妹の美遠子、長男・吉十郎を静岡の自宅に移住させた。明治5年(1872年)、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となる。
 明治8年(1875年)には都都古別神社の宮司となるが、西南戦争が勃発すると、西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われ、宮司を解任される。実際、隆盛と頼母の手紙のやりとりはあったが、慶応年間からの知り合いと伝承では成り立っている。
 明治12年(1879年)、長男の吉十郎が病没したため、甥(志田貞二郎の3男)の志田四郎(のちの西郷四郎)を養子とし、彼に柔術を教えたといわれるが、志田家戸籍の養子は明治17年で、四郎に柔術を教えた説も信憑性が低い。
 明治13年(1880年)、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となると、頼母は禰宜となった。松平容保と頼母は和解した。明治20年(1887年)、後藤象二郎らの提唱する大同団結運動に共鳴し、会津と東京を拠点として政治活動に加わり、日光東照宮の禰宜を辞す。代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松に戻った。
 明治22年(1889年)から明治32年(1899年)まで、福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め、辞職後は再び若松に戻った。頼母が都都古別神社宮司,日光東照宮禰宜・宮司代理,霊山神社宮司に就任したのは、勝海舟と補佐役・林三郎の尽力によるといわれる。
 明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にある。
 西郷頼母が語った「中道を行く者の難しさは、右から見れば左に見え、左からみれば右に見られる」は 名言といわれる。

 日本の柔道家、弓道・泳法指導者。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデルとされる。
 会津藩士・志田貞二郎の3男として若松に生まれた。16歳の時、元会津藩家老・西郷頼母の養子となり、福島県伊達郡石田村の霊山神社に宮司として奉職する頼母に育てられた。
 1882年(明治15年)に上京し、当時は陸軍士官学校の予備校であった成城学校に入学した。天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいる間に、同流出身の柔道家・嘉納治五郎に素質を見いだされて、同年8月20日、講道館へ移籍する。1883年(明治16年)に初段を取得した。
 1886年(明治19年)の警視庁武術大会で講道館柔道が柔術諸派に勝利したことにより、講道館柔道が警視庁の正課科目として採用され、現在の柔道の発展の起点となった。四郎はこの試合で戸塚派揚心流の好地圓太郎(同流の照島太郎とする文献もあり)を特技「山嵐」で破り、柔道界の奇傑として有名になった。山嵐は大東流の技法が活用されていたとする説も一部にあるが、四郎が大東流を学んだ形跡はなく、講道館に伝えられている山嵐の技法を見る限りでは、大東流の影響は余り感じられない。
 1889年(明治22年)、嘉納治五郎が海外視察に行く際に後事を託され、講道館の師範代となったが、治五郎が洋行中の1890年(明治23年)、『支那渡航意見書』を残し講道館を出奔。四郎は「一介の柔道家で終わりたくない」と語っていた。大陸運動家で四郎に鈴木天眼を紹介した甥の井深彦三郎、養父・保科近悳の影響で大陸飛翔の夢を抱く。以前から交流のあった宮崎滔天とともに大陸運動に身を投じる。
 1902年(明治35年)、鈴木天眼が長崎で『東洋日の出新聞』を創刊すると、同新聞の編集長を務める傍ら、長崎で柔道,弓道を指導した。また、長崎游泳協会の創設に鈴木天眼とともに関わり、同協会の監督として日本泳法を指導している。
 1920年(大正9年)から、病気療養のため広島県尾道に移り、尾道久保町浄土寺脇の吉祥坊に起居。1922年(大正11年)12月22日、尾道で死去。死去の報に接した治五郎は"その得意の技においては幾方の門下未だその右に出たる者なし"と哀悼、講道館から六段を追贈され、その功を表した。墓は長崎市鍛冶屋町の大光寺にあり、同市上西山町にある諏訪体育館の前に「西郷四郎先生顕彰之碑」が建てられている。
 戦時中の1943年(昭和18年)、黒澤明監督によって藤田進が演じた『姿三四郎』によって藤田進という特異な俳優が生まれ、"世界のクロサワ"が誕生した。この映画に刺激され戦後幾度の柔道映画が製作されたが、これを超える映画は現れることはなかった。小柄で強い柔道家を「○○の三四郎」と呼称するのは、四郎がモデルとなった『姿三四郎』の影響によるものである。四郎自身の体格は、身長が五尺一寸(約153cm)、体重は十四貫(約53kg)だったと伝わる。