<藤原氏>北家 長良流

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大村忠澄 大村純前

 大村氏は、天道根命5世孫の大名草彦の子・若積命(【A217】参照)が景行天皇の西征に従い、肥前国津立、すなわち彼杵,高来,藤津地方の賊を平らげ、その功により国造に補せられたものという。したがって、大村直の後裔ということになる。しかし、後年、大村氏自身は紀姓を称し、また藤原純友の後裔とも称している。
 文治2年(1186年)、忠澄が源頼朝から彼杵,藤津二郡の地頭職に補せられたという。もっとも郡の地頭ということではなく、二郡内の各郷などの地頭に一族が補任されたということと思われる。その後、室町以前までの系図および事跡については不明なところが多い。

 兄に良純がいたが、病弱であったため、純前が当主となった。純前以前の大村氏の事跡は不確定な部分が多く、父の純伊にまつわる伝承は豊富であるが、その真偽ははっきりしない。その伝承によると、父の純伊は有馬貴純のために一時領国を追われたが、まもなく奪回し大村氏を中興したという。
 純前の時代の肥前は、有馬晴純の勢力がさかんであった。大村氏と有馬氏とは縁戚関係にあり、純前は男子がなかったために有馬氏より純忠を養子に迎えたが、その後側室との間に実子の又八郎が誕生した。純前は有馬氏を憚りこれを後藤氏へ養子に出すことになる。天文19年(1550年)、家督を純忠へ譲った。翌1551年死去。

大村純忠

 三城城主。日本初のキリシタン大名であり、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたる。有馬晴純の次男で1538年に大村純前の養嗣子となり、1550年に家督を継いだ。純前には実子・又八郎(庶子、後の後藤貴明)がおり、この養子縁組のために貴明は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出された。このような経緯から貴明は純忠に恨みを抱き、一方の純忠も「実子をおしのけて家督を継いだ」というプレッシャを一生感じ続けることになった。また当時の大村領は、肥前佐賀の龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり、打開策を模索していた。その中で彼が見出した答えがキリスト教であった。
 1561年、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始め、1562年、純忠は自領にある横瀬浦(長崎県西海市)の提供を申し出た。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会士に対して住居の提供など便宜をはかった。結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。
 1563年、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、領民にもキリスト教信仰を奨励した結果、大村領内では最盛期のキリスト者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされる。純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は妻以外の女性と関係を持たず、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していたことも事実である。また、横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行っている。しかし、純忠の信仰は過激なもので、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。また、領民にもキリスト教の信仰を強いて僧侶や神官を殺害、改宗しない 領民が殺害されたり土地を追われるなどの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招くことになる。
 純忠に恨みを持つ貴明は、純忠に不満を持つ大村家の家臣団と呼応し反乱を起こして横瀬浦を焼き払ったが、1570年に純忠はポルトガル人のために長崎を提供した。同地は当時寒村にすぎなかったが、以降良港として大発展していく。1572年には松浦氏らの援軍を得た貴明の軍勢1500に居城である三城を急襲され、城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んでいる。1578年に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退した。その後1580年に、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進した。
 巡察のため、日本を訪問したイエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、1582年に天正遣欧少年使節の派遣を決めている。純忠の名代は甥にあたる千々石ミゲルであった。
 純忠にはそれぞれ洗礼名を持つ4人の息子がいたが、1576~77年頃には龍造寺隆信の圧迫を受け、喜前を除く3人を人質に取られるなど、ほぼ従属状態にあり、1584年の沖田畷の戦いにも龍造寺方として従軍している。しかし、親族である有馬勢との戦いには消極的で空鉄砲を撃っていたといわれる。1585年、豊臣秀吉の九州征伐においては秀吉に従って本領を安堵された。
 1587年6月23日(天正15年5月18日)、坂口の居館において死去。死因は肺結核。バテレン追放令の出る前の死であった。