F409:藤原遠経 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原冬嗣 ― 藤原長良 ― 藤原遠経 ― 大村忠澄 | F412:大村忠澄 |
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大村忠澄 | 大村純前 |
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大村氏は、天道根命5世孫の大名草彦の子・若積命(【A217】参照)が景行天皇の西征に従い、肥前国津立、すなわち彼杵,高来,藤津地方の賊を平らげ、その功により国造に補せられたものという。したがって、大村直の後裔ということになる。しかし、後年、大村氏自身は紀姓を称し、また藤原純友の後裔とも称している。 |
兄に良純がいたが、病弱であったため、純前が当主となった。純前以前の大村氏の事跡は不確定な部分が多く、父の純伊にまつわる伝承は豊富であるが、その真偽ははっきりしない。その伝承によると、父の純伊は有馬貴純のために一時領国を追われたが、まもなく奪回し大村氏を中興したという。 |
大村純忠 | |
三城城主。日本初のキリシタン大名であり、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたる。有馬晴純の次男で1538年に大村純前の養嗣子となり、1550年に家督を継いだ。純前には実子・又八郎(庶子、後の後藤貴明)がおり、この養子縁組のために貴明は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出された。このような経緯から貴明は純忠に恨みを抱き、一方の純忠も「実子をおしのけて家督を継いだ」というプレッシャを一生感じ続けることになった。また当時の大村領は、肥前佐賀の龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり、打開策を模索していた。その中で彼が見出した答えがキリスト教であった。 |