F412:大村忠澄 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原冬嗣 ― 藤原長良 ― 藤原遠経 ― 大村忠澄 ― 大村喜前 | F413:大村喜前 | ● |
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大村喜前 | 大村純頼 |
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豊臣秀吉の九州征伐で所領を安堵された。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵にも出陣している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に就いたために所領を安堵された。 |
文禄元年(1592年)、豊臣氏の家臣である大村喜前の長男として三城で生まれる。早くから父と共に共同政治を行なっており、慶長12年(1607年)には徳川家康の許しを得て、財源確保と藩主権力強化のために「御一門払い」と呼ばれる一門の領地没収を強制的に実行している。大坂の役では徳川方として参戦し、長崎の警備や豊臣氏残党の追捕を務めた。 |
大村純信 | 大村純長 |
元和4年(1618年)、肥前国大村藩2代藩主・大村純頼の長男(幼名:松千代)として大村に誕生した。母は松浦頼直(大村頼直)の養女(実父は家臣の楠本右衛門)。ところが父・純頼は、理由は定かではないが当初この子を誕生させずに堕胎するよう命じた。しかし家老の大村純勝はこれを密かに出産させ純頼を説得したが、江戸幕府へは出生について無届けであった。 |
先代・純信は慶安3年(1650年)に33歳で早世し、しかも子供がいなかったことから、大村藩は無嗣断絶の危機に立たされる。この時、大村藩家中は全く血縁関係にない勘定奉行・伊丹勝長の4男を末期養子とした(ただし、伊丹勝長は純信の正室の父にあたる)。慶安4年(1651年)に襲封したこの養子が純長である。この頃、末期養子は禁じられていたが、この養子縁組は幕府の斡旋によるものとされる。翌承応元年(1652年)、譜代出身であったことから、領内に徳川家歴代将軍を祀る「円徳寺」を建立する。しかし、明暦3年(1657年)、藩内から大勢の隠れキリシタンが検挙される事件(郡崩れ事件)が起こる。本来なら、キリシタンが領内にいたというだけでお取りつぶしの理由としては十分であったが、純長は実父・伊丹勝長を通して直ちに幕府に報告、この行為が殊勝とされて、大村藩は全くお咎めなしであった。 |
大村純尹 | 大村純庸 |
寛文4年(1664年)3月21日、第4代藩主・大村純長の次男として江戸藩邸で生まれる。兄・純真の廃嫡により、元禄2年(1689年)4月26日に世子に指名され、12月27日に従五位下・筑後守に叙位・任官される。宝永3年(1706年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の純庸に3000石を分与している。 |
寛文10年(1670年)1月13日、第4代藩主・大村純長の4男として玖島城で生まれる。宝永3年(1706年)に父が死去すると、家督は異母兄の純尹が継ぎ、純庸は3000石を分与された。 |
大村純富 | 大村純昌 |
宝永8年(1711年)4月5日、第6代藩主・大村純庸の次男として江戸藩邸で生まれた。享保12年(1727年)閏1月9日、父の隠居で家督を継いだ。 |
天明6年(1786年)1月25日、第9代藩主・大村純鎮の長男として玖島城で生まれた。享和3年(1803年)1月23日、父の隠居により家督を継いだ。 |
大村純熙 | |
文政13年(1830年)11月21日、第10代藩主・大村純昌の10男として玖島城で生まれる。弘化3年(1846年)に兄で第11代藩主である純顕の養子となり、12月18日に兄が病気で隠居すると、弘化4年(1847年)2月21日に家督を継いだ。 |