<藤原氏>北家 長良流

F412:大村忠澄  藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原冬嗣 ― 藤原長良 ― 藤原遠経 ― 大村忠澄 ― 大村喜前 F413:大村喜前

リンク
大村喜前 大村純頼

 豊臣秀吉の九州征伐で所領を安堵された。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵にも出陣している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に就いたために所領を安堵された。
 ドン・サンチョという洗礼名を持つキリシタンであったが、慶長7年(1602年)、熱狂的な日蓮宗徒であった加藤清正の薦めもあってキリスト教を捨てて日蓮宗に改宗し、領内におけるキリシタンを弾圧した。このため元和2年(1616年)、それを恨んだキリスト教徒によって毒殺されたという。なお、天正少年使節の副使・千々石ミゲルは従兄弟にあたるが、彼が棄教したのちも迫害を加えたという話がある。

 文禄元年(1592年)、豊臣氏の家臣である大村喜前の長男として三城で生まれる。早くから父と共に共同政治を行なっており、慶長12年(1607年)には徳川家康の許しを得て、財源確保と藩主権力強化のために「御一門払い」と呼ばれる一門の領地没収を強制的に実行している。大坂の役では徳川方として参戦し、長崎の警備や豊臣氏残党の追捕を務めた。
 元和2年(1616年)、父が急死したため家督を継いだ。父と同じようにキリシタンを弾圧したりしている。元和5年(1619年)11月13日、玖島城で急死した。享年28。跡を長男・純信が継いだ。その突然の死は、父と同じようにキリシタン弾圧を恨んだ宣教師による毒殺ともいわれる。 

大村純信 大村純長

 元和4年(1618年)、肥前国大村藩2代藩主・大村純頼の長男(幼名:松千代)として大村に誕生した。母は松浦頼直(大村頼直)の養女(実父は家臣の楠本右衛門)。ところが父・純頼は、理由は定かではないが当初この子を誕生させずに堕胎するよう命じた。しかし家老の大村純勝はこれを密かに出産させ純頼を説得したが、江戸幕府へは出生について無届けであった。
 元和5年(1619年)11月に父の純頼が28歳で早世し、公式には嗣子が無かった大村藩は改易の危機となった。そこで藩内では、遺児・松千代を純頼が末期養子に迎えたように装い、近隣大名や幕閣を説得にかかった。家臣の純勝と富永忠清は、わずか2歳の松千代を擁して同年12月10日に大村を発ち、翌元和6年(1620年)正月21日に江戸に到着、幕府に松千代による相続を訴えた。この時、純勝は老中から幕臣に取り立てる話を受けたがこれを断り、執拗にあくまで主家の存続を訴えた。同年5月15日、松千代の家督相続は認められ、大村藩3代藩主となった。この功により純勝とその子孫には、主家と同じ家紋の使用許可と大年寄の地位が代々与えられた。母の養父・松浦頼直も大村姓を与えられ、以降両家は江戸時代を通して、藩主家の分家という扱いを受けた。
 同年、藩は先代の純頼の時に命じられていた大坂城の石垣修築普請を行う。寛永5年(1628年)、タイオワン事件のオランダ人捕虜を幕命で預かることになり、牢の管理を行った。
 寛永8年(1631年)の領内検地では表高2万7900石余に対し実高4万2730石を打ち出し、藩の直轄領もその過半を越している。しかし、長崎御用役や江戸での出費により藩財政は苦しく、親類大名からの借金や家臣からの上米をおこなって凌いでいる。
 寛永14年(1637年12月11日)10月末に起こった島原の乱には病のため参加できず、純勝が兵を率いて長崎を警固した。
 慶安3年(1650年)5月に嗣子のないまま33歳で死去。大村藩は再び改易の危機に瀕することとなった。家中で議論は割れたが、正室であった松の兄弟である大村純長(伊丹勝長の4男)が末期養子となることで、その危機を脱した。 

 先代・純信は慶安3年(1650年)に33歳で早世し、しかも子供がいなかったことから、大村藩は無嗣断絶の危機に立たされる。この時、大村藩家中は全く血縁関係にない勘定奉行・伊丹勝長の4男を末期養子とした(ただし、伊丹勝長は純信の正室の父にあたる)。慶安4年(1651年)に襲封したこの養子が純長である。この頃、末期養子は禁じられていたが、この養子縁組は幕府の斡旋によるものとされる。翌承応元年(1652年)、譜代出身であったことから、領内に徳川家歴代将軍を祀る「円徳寺」を建立する。しかし、明暦3年(1657年)、藩内から大勢の隠れキリシタンが検挙される事件(郡崩れ事件)が起こる。本来なら、キリシタンが領内にいたというだけでお取りつぶしの理由としては十分であったが、純長は実父・伊丹勝長を通して直ちに幕府に報告、この行為が殊勝とされて、大村藩は全くお咎めなしであった。
 その後は更にキリシタン処罰、及び領民に対する仏教改宗政策を強化した。一方、藩校「集義館」を開校、門戸を藩士の子弟ばかりでなく一般庶民にも開放し、硬軟両様の施策を採る。ちなみに「集義館」は最も早く開設された藩校の一つで、後の長崎県立大村高等学校の母体となる。
 宝永3年(1706年)に71歳で死去し、跡は次男・純尹が襲封した。 

大村純尹 大村純庸

 寛文4年(1664年)3月21日、第4代藩主・大村純長の次男として江戸藩邸で生まれる。兄・純真の廃嫡により、元禄2年(1689年)4月26日に世子に指名され、12月27日に従五位下・筑後守に叙位・任官される。宝永3年(1706年)、父の死去により家督を継いだ。このとき、弟の純庸に3000石を分与している。
 藩財政窮乏のため、家臣団のリストラを行なった。しかし幕府の手伝い普請,軍役,参勤交代による出費で財政的にはさらに苦しんだ。このため新田開発や年貢増徴を行うなどしたが、凶作や捕鯨業の不振などもあって、借金を何度も行なっている。しかし、あまりに借金を何度も行なったため、遂には商人から拒絶されたこともあるといわれる。
 正徳2年(1712年)10月14日に死去した。享年49。実子は全て早世したため、異母弟で養子の純庸が跡を継いだ。

 寛文10年(1670年)1月13日、第4代藩主・大村純長の4男として玖島城で生まれる。宝永3年(1706年)に父が死去すると、家督は異母兄の純尹が継ぎ、純庸は3000石を分与された。
 やがて純尹の実子が全て早世したため養子となり、正徳2年(1712年)に純尹が死去すると家督を継いだ。享保4年(1719年)5月3日から行き詰まった藩政を立て直すため、地方知行制を蔵米知行制に変更し、年貢増徴を行なっている。
 享保12年(1727年)閏1月9日、家督を次男・純富に譲って隠居する。以後は蘭台と号して、俳諧の世界で余生を過ごした。元文3年(1738年)5月13日に大村の向屋敷で死去した。享年69。 

大村純富 大村純昌

 宝永8年(1711年)4月5日、第6代藩主・大村純庸の次男として江戸藩邸で生まれた。享保12年(1727年)閏1月9日、父の隠居で家督を継いだ。
 父の政策を推進するが、享保17年(1732年)5月に享保の大飢饉が起こり、水害や虫害などで凶作となった。そもそも平野が少なく稲作に向いていない土地であった藩は救荒食物として甘藷栽培を奨励し、江戸幕府から3,000両を借用したり、樹木の自由伐採を許可したりして領民救済の対処をしている。甘藷の栽培は薩摩藩と同時期であり、江戸幕府が奨励するより早い。そもそも平戸にてサツマイモが栽培されていたとされる史料がある。ともあれ、大村藩ではこの飢餓による餓死者を一人も出すことがなく、翌年に江戸幕府将軍の徳川吉宗から感状を下されている。
 寛延元年(1748年)11月16日に大村にて死去した。享年38。跡を長男の純保が継いだ。

 天明6年(1786年)1月25日、第9代藩主・大村純鎮の長男として玖島城で生まれた。享和3年(1803年)1月23日、父の隠居により家督を継いだ。
 財政再建を目指して藩政改革を行うが失敗し、かえって財政窮乏を促進した上、家臣団の反発も招いた。このため、倹約や定免制の採用、他国製品の排除と自国製品の保護、生産化奨励などを行っていくらか成功させている。
 文化5年8月(1808年10月)、長崎にてフェートン号事件が勃発した際は、急を知らせる命を受け、幕府の長崎奉行・松平康英と共にイギリス軍艦フェートン号に対して焼き討ちを行うため、藩兵を率いて長崎に急行したが、フェートン号が出航してしまい未遂に終わった。
 文政11年(1828年)8月上旬と下旬の二度の嵐により、領内で家屋の倒壊や火災が発生し、溺死傷者も発生した。さらに田畑や山林が甚大な被害を受けた。
 天保7年(1836年)11月23日、家督を4男の純顕に譲って隠居した。天保9年(1838年)10月5日に大村で死去した。享年53。

大村純熙

 文政13年(1830年)11月21日、第10代藩主・大村純昌の10男として玖島城で生まれる。弘化3年(1846年)に兄で第11代藩主である純顕の養子となり、12月18日に兄が病気で隠居すると、弘化4年(1847年)2月21日に家督を継いだ。
 蘭学に通じ、文武や学問を奨励した。文久2年(1862年)には平戸藩と同盟を結んでいる。幕末期は藩内で佐幕派と尊王派が対立し、文久3年(1863年)に純熈が長崎総奉行に任じられると佐幕派が台頭した。しかし尊王派はこれに対して改革派同盟を結成し、元治元年(1864年)、純熈の長崎総奉行辞任により逆に尊王派が台頭した。
 慶応3年(1867年)、改革派同盟の盟主である針尾九左衛門,松林飯山らが暗殺されると、逆にこの「小路騒動」と呼ばれた闘争を契機に純熈は佐幕派を処罰し、藩論が一気に尊王倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成された。
 以後、薩摩藩・長州藩などと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍し、戊辰戦争では東北地方にまで出兵した。この功績により、明治2年(1869年)6月には賞典禄3万石を与えられ、版籍奉還により大村藩知事に任じられた。
 明治4年(1871年)7月、廃藩置県で藩知事を辞職する。明治15年(1882年)1月、従三位に昇叙されたが、1月13日に死去した。享年53。明治36年(1903年)に従二位を追贈された。