権中納言・藤原長良の次男。官位は従四位上・右大弁。陽成天皇の外伯父にあたる。清和朝にて右衛門大尉を経て、貞観8年(866年)従五位下に叙爵。まもなく、太皇太后大進/亮として叔母の太皇太后・藤原順子に仕える。貞観13年(871年)に藤原順子が崩御すると、翌貞観14年(872年)右衛門権佐に任ぜられた。 貞観18年(876年)に甥の陽成天皇が践祚すると、右少弁・近衛少将と文武の要職を務める一方、中宮亮を兼ねて妹の皇太夫人・藤原高子にも仕える。元慶6年(882年)には従四位下・蔵人頭兼権左中弁に叙任された。 元慶8年(884年)に陽成天皇に替わって光孝天皇が即位するも引き続き蔵人頭を務め、仁和2年(886年)6月には右大弁を兼ねるが、公卿昇進はならずに同年8月蔵人頭を辞任した。その後、従四位上に昇進するが、仁和4年(888年)10月26日卒去。享年54。
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大叔父には藤原基経がいるが、早くに父を失い、都での出世は望めず地方官となる。当初は父の従兄弟である伊予守・藤原元名に従って伊予掾として、瀬戸内に跋扈する海賊を鎮圧する側にあった。しかしながら、元名帰任後も帰京せず伊予国に土着し、承平6年(936年)頃までには海賊の頭領となり、伊予の日振島を根城として千艘以上の船を操って周辺の海域を荒らし、やがて瀬戸内海全域に勢力をのばした。 関東で平将門が乱を起こした頃とほぼ時を同じくして瀬戸内の海賊を率いて乱を起こし、藤原純友の勢力は畿内に進出、天慶2年(939年)には純友は部下の藤原文元に摂津国須岐駅にて備前・播磨国の介(備前介:藤原子高,播磨介:島田惟幹)を襲撃させ、これを捕らえた。翌天慶3年(940年)には、2月に淡路国、8月には讃岐国の国府、さらに10月にはついに大宰府を襲撃し略奪を行った。 朝廷は純友追討のために追捕使長官・小野好古,次官・源経基,主典・藤原慶幸,大蔵春実による兵を差し向け、博多湾の戦いで、純友の船団は追捕使の軍により壊滅させられた。その後のことは純友に関する資料が乏しく現在まで詳細は不明な点が多い。同天慶4年6月に今日の宇和島で殺されたとも、捕らえられて獄中で病死したとも、あるいはそれらは国府の役人の捏造で真実は海賊の大船団を率いて南海の彼方へ消えていったとも言われている。 将門の乱がわずか2か月で平定されたのに対し、純友の乱は2年に及んだ。また、純友の合戦の様子は『純友追討記』として、追補使により政府への報告がなされたとされ、一部が『扶桑略記』に引用されている。 藤原純友を祀った神社として、岡山県松島の純友神社,愛媛県新居浜市の中野神社がある。 純友の血統として、伊予の豪族越智氏の一族で今治の高橋郷の高橋友久の子であったが、良範が伊予の国司として赴任したおりに養子になり、藤原姓を名乗ったというものがあるが、これは歴史的にはあり得ないとして否定されている。 後世、有馬氏・大村氏らは藤原純友の孫・藤原直澄の子孫と称したものの、藤原直澄とは、本来は肥前国藤津荘の庄司で平正盛に討たれた平清澄の子・平直澄であり、先祖の汚名を雪ぐために藤原純友の末裔であると僭称したとされる。筑後国の蒲池氏もまた藤原純友の後裔とする伝承があるが、繋がりがあるのは橘公頼とされる。
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