F409:藤原遠経 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原冬嗣 ― 藤原長良 ― 藤原遠経 ― 有馬経澄 | F410:有馬経澄 |
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有馬経澄 | 有馬貴純 |
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家伝によれば伊予の藤原純友の子孫と伝わるが、実際には肥前国藤津荘の荘司である平清澄,直澄の子孫とみられる。 |
戦国時代前期の当主で、有馬氏の戦国大名化に尽力している。日野江城を本拠として高来郡を制圧し、さらに藤津,杵島の両郡を併合する。そして原城を築城し、龍造寺氏台頭前の肥前に最大版図を築き上げた。1494年には領地から追われた少弐政資を助けている。没年は分かっていないが、12月3日に64歳で死去という。一部の事跡については子の尚鑑の代の事件とされることもある。 |
有馬晴純 | 有馬義貞 |
祖父の有馬貴純の代に成長した勢力をさらに拡大させ、高来郡を中心に島原半島一帯を支配下に治め、貿易を独占して肥前有馬氏の最盛期を創出した。その実力は室町幕府将軍・足利義晴にも認められ、天文8年(1539年)、義晴から「晴」の字を賜るとともに、修理大夫に任じられている。このとき、返礼として刀や馬,黄金などを献上している。 |
天文21年(1552年)、父・晴純から肥前有馬氏の家督を譲られると同時に室町幕府の相伴衆ともなった。しかし、キリスト教に対する姿勢の違いから来る父との確執や、隣国の大友宗麟や龍造寺隆信の圧迫、父の時代には服従していた西郷氏の西郷純堯(義貞の義兄)などの台頭を受けて次第に勢力を失い、高来郡一郡を支配する小勢力にまで転落した。
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有馬義純 | 有馬晴信 |
天文19年(1550年)、肥前島原半島を治めた大名・有馬義貞の嫡男として誕生。母は肥前有馬氏の家臣・安富越中守の娘。『藤原有馬世譜』『寛政重修諸家譜』等は、室を安富越中守の娘としているが、キリスト教の宣教師が残した史料には、義純の室は西郷純久の娘と記載されている。 |
元亀2年(1571年)、兄の義純が早世したため家督を継承した。この頃の有馬氏は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯,深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなったが、天正12年(1584年)に島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした。しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。 |