<藤原氏>北家 長良流

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有馬経澄 有馬貴純

 家伝によれば伊予の藤原純友の子孫と伝わるが、実際には肥前国藤津荘の荘司である平清澄,直澄の子孫とみられる。
 建保年間(1213~19年)中に経澄が肥前国高来郡有馬庄の地頭職を与えられたことから有馬と称するようになった。

 戦国時代前期の当主で、有馬氏の戦国大名化に尽力している。日野江城を本拠として高来郡を制圧し、さらに藤津,杵島の両郡を併合する。そして原城を築城し、龍造寺氏台頭前の肥前に最大版図を築き上げた。1494年には領地から追われた少弐政資を助けている。没年は分かっていないが、12月3日に64歳で死去という。一部の事跡については子の尚鑑の代の事件とされることもある。
 大村氏の大村純前の外祖父に当り、その縁もあって、曾孫の純忠が後に大村氏当主となっている。

有馬晴純 有馬義貞

 祖父の有馬貴純の代に成長した勢力をさらに拡大させ、高来郡を中心に島原半島一帯を支配下に治め、貿易を独占して肥前有馬氏の最盛期を創出した。その実力は室町幕府将軍・足利義晴にも認められ、天文8年(1539年)、義晴から「晴」の字を賜るとともに、修理大夫に任じられている。このとき、返礼として刀や馬,黄金などを献上している。
 天文15年(1546年)、龍造寺家兼の居城・水ケ江城を攻め落とすが、2ヶ月後に家兼の逆襲を受けて奪還されている。その後、晴純は次男・純忠を大村氏へ養子に出したのをはじめ、千々石氏や松浦氏などにも3男・直員,4男・盛を養子として送り、肥前支配の強化を図る。
 天文19年(1550年)にポルトガル船が支配地に入港するようになると、これによる南蛮貿易の利益で有馬氏はさらに発展したが、同時にキリスト教も広まるようになり、キリスト教を嫌った晴純は激しく弾圧したという。
 天文21年(1552年)、嫡男の有馬義貞に家督を譲って、隠居して悠々自適の生活を送った。しかし、この頃から大友宗麟や龍造寺隆信らによる肥前侵攻が激化するようになり、晴純が死去した頃には有馬氏の勢力は大きく縮小することになった。永禄9年(1566年)死去。享年84。

 天文21年(1552年)、父・晴純から肥前有馬氏の家督を譲られると同時に室町幕府の相伴衆ともなった。しかし、キリスト教に対する姿勢の違いから来る父との確執や、隣国の大友宗麟や龍造寺隆信の圧迫、父の時代には服従していた西郷氏の西郷純堯(義貞の義兄)などの台頭を受けて次第に勢力を失い、高来郡一郡を支配する小勢力にまで転落した。
 一方で南蛮貿易で大きな利益を築き上げ、ドン・アンデレという洗礼名を持つキリシタン大名ともなった(入信は天正3年(1576年))。家臣団の中にも義貞の影響を受けてキリシタンになった者が多かったといわれている。ルイス・フロイスは「詩歌に造詣深く、書道に巧みで、為政者としては老練慎重かつ賢明である」と『フロイス日本史』に記している。
 元亀元年(1570年)に嫡男の義純に家督を譲ったが、翌元2年(1571年)に義純が急死したため、次男の鎮純(晴信)を当主とした。
天正4年(1577年)、死去。

 

有馬義純 有馬晴信

 天文19年(1550年)、肥前島原半島を治めた大名・有馬義貞の嫡男として誕生。母は肥前有馬氏の家臣・安富越中守の娘。『藤原有馬世譜』『寛政重修諸家譜』等は、室を安富越中守の娘としているが、キリスト教の宣教師が残した史料には、義純の室は西郷純久の娘と記載されている。
 父が室町幕府12代将軍・足利義晴から受けた「義」の一字をとって、「義純」と名乗る。家督を継ぐ前には、足利義昭の相伴衆となっている。しかし永禄7年(1564年)に祖父・晴純が父・義貞を領外に追放し家督も剥奪してしまう。
 元亀元年(1570年)、父・義貞の隠居に伴って家督を継ぐ。次第に龍造寺隆信の圧迫を受けて領土を奪われ、有馬氏は衰退していった。元亀2年(1571年)6月14日、嗣子の無いまま死去。墓所は有馬の台雲寺。
 弟・鎮純(後の晴信)が義純の養嗣子となることで家督を継いだ。

 元亀2年(1571年)、兄の義純が早世したため家督を継承した。この頃の有馬氏は、龍造寺隆信やその支援を受けた西郷純堯,深堀純賢兄弟の圧迫を受けて、晴信も隆信の攻勢の前に臣従せざるを得なくなったが、天正12年(1584年)に島津義久と通じて沖田畷の戦いで隆信を滅ぼした。しかし、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐においては、島津氏と縁を切り、豊臣勢に加わっている。
 家督を継いだ当初はキリシタンを迫害していたが、後にアレッサンドロ・ヴァリニャーノによる鉛,硝石などの軍事物資の提供によって敵軍を斥けたことに感謝して天正8年(1580年)に洗礼を受けてドン・プロタジオの洗礼名を持ち、以後は熱心なキリシタンとなった。天正10年(1582年)には大友宗麟や叔父の大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣している。天正15年(1587年)に秀吉が禁教令が出すまで、数万を超えるキリシタンを保護していたという。その後も個人的にはキリスト教信仰を守り続けていた。
 文禄・慶長の役では、同じキリシタン大名の小西行長の軍に属して従軍、渡海し、26歳から32歳までの7年間を朝鮮で過ごしている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦では当初、在国のまま西軍に属したものの、西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り、小西行長の居城であった宇土城を攻撃、その功績により旧領を安堵された。
 慶長14年(1609年)2月、幕府の許可を受けて台湾へ出兵するが、明との貿易拠点を築くことはできなかった。ところが運命を暗転させる事件が起きる。慶長14年(1609年)、マカオで晴信の朱印船の乗組員がマカオ市民と争いになり、乗組員と家臣あわせて48人が殺されるという事件が起きた。これに怒った晴信は徳川家康に仇討ちの許可を求めた。そこへマカオにおけるポルトガル側の責任者アンドレ・ペソア がノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号(マードレ・デ・デウス号)に乗って長崎に入港したため、晴信は船長を捕らえるべく、多数の軍船でポルトガル船を包囲した。ところが船長は船員を逃がして船を爆沈した(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件‎)。この事件の後、本多正純の家臣であった岡本大八が晴信に近づき、黒船を沈めた恩賞として家康が有馬の旧領を戻してくれるだろうと持ちかけた。が、これは偽りであり、岡本大八は晴信をだまして口利き料として多額の金子を受け取っていた。これが発覚し、家康は激怒。大八は火あぶりになり、晴信もまた贈賄の罪をとわれて甲斐国初鹿野に追放された後で、死罪となった(岡本大八事件)。
 キリシタンであった晴信は自害を選ばず、妻たちの見守る中で家臣に首を切り落とさせた(この最後の記述はキリスト教徒側の記録から。日本側の記録では切腹して果てたとされている)。