F410:有馬経澄 | 藤原鎌足 ― 藤原房前 ― 藤原真楯 ― 藤原冬嗣 ― 藤原長良 ― 藤原遠経 ― 有馬経澄 ― 有馬直純 | F411:有馬直純 | ● |
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有馬直純 | 有馬康純 |
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天正14年(1586年)、有馬晴信の嫡男として肥前国日野江城に生まれる。父同様、キリシタンであり、洗礼名はミゲル。 |
慶長18年(1613年)8月1日、有馬直純の嫡子として肥前日野江原城に生まれる。慶長19年(1614年)7月、父の転封にともない縣に移る。元和2年(1616年)、駿府で徳川家康に謁見、母の国姫が家康の曾孫だったことから寵愛され「康」の諱字を賜り、蔵人康純と称す。母とともに駿府ついで江戸屋敷に滞在。寛永3年(1626年)9月1日、元服して従五位下に叙せられる。 |
有馬清純 | 有馬一準 |
延宝7年(1679年)11月27日、父の隠居により家督を継いだ。このとき、弟の純息と純富に合わせて2,800石を分与している。しかし藩政において悪政を敷いたことから、元禄3年(1690年)に領内で山陰・坪谷村一揆が起こり、その責任を問われて元禄5年(1692年)に無城大名に格下げの上で越後糸魚川に移封させられた。
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元禄10年(1697年)12月2日(異説として12月4日)、初代藩主・有馬清純の長男として丸岡城で生まれる。元禄15年(1702年)12月に父が死去したため、元禄16年(1703年)2月5日に家督を相続して藩主となる。正徳元年(1711年)に譜代大名に昇格し、同時に従五位下・左衛門佐に叙任する。しかし宝永3年(1706年),享保6年(1721年),享保8年(1723年)と連年のように洪水に悩まされて凶作となり、享保9年(1724年)にはそれが原因で一揆も起こるなど、藩政は多難を極めた。このため、財政難打開のために銀札の発行、家臣の知行借上げなどを行なったが、失敗した。 |
有馬誉純 | 有馬純文 |
明和6年(1769年)4月17日、第4代藩主・有馬允純の長男として生まれる。明和9年(1772年)の父の死去により家督を継いで藩主となる。安永7年(1778年)、財政難打開のために年貢増徴を行なったため、一揆が起こってしまった。このため、百姓側の要求を受け入れて年貢増徴を止めて大庄屋制度の廃止、「郷会所」設置による税制改革を行なった。また文治を奨励し、文化元年(1804年)には藩校・平章館を創設し、藩士子弟の教育に努めた。また諸礼式の確立にも務め、『国乗遺聞』や『藤原有馬世譜』など藩史・地誌の編纂に力を注いでいる。 |
廃藩置県とともに家族と上京し学習院に入学。明治15年(1882年)、嘉納治五郎が講道館を開設すると3番目の入門者となる。農科大学を卒業。明治29年(1896年)近衛騎兵連隊に入隊、明治31年陸軍騎兵少尉となる。高等農学校講師,大日本農会農芸委員を歴任。明治33年(1900年)東宮侍従となり、明治41年(1908年)皇太子(のちの大正天皇)の韓国訪問に随行した。明治43年(1910年)東久邇宮附宮内事務官となる。 |