<藤原氏>北家 長良流

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有馬直純 有馬康純

 天正14年(1586年)、有馬晴信の嫡男として肥前国日野江城に生まれる。父同様、キリシタンであり、洗礼名はミゲル。
 慶長5年(1600年)、15歳から親元を離れ、駿府城で徳川家康に側近として仕える。慶長15年(1610年)、キリシタンであった妻・マルタ(小西行長の姪)を離縁し、家康の養女・国姫(桑名藩藩主・本多忠政の娘)を正室として娶った。
 慶長17年(1612年)、父・晴信は岡本大八事件の責任を問われて(直純は早期の家督継承と、妻・国姫の意向を受けてキリシタンとの縁を切るべく、父を処断するように幕臣へ訴えたともされる)、改易のうえ死罪となったが、直純は家康との縁が深かったために連座を免れ、父の所領を受け継いで肥前日野江藩主となった。同年の江戸幕府による禁教令に従い改宗し、領内のキリシタンを迫害した。また、慶長18年(1613年)4月25日には、父とその後妻・ジュスタの間に生まれた8歳と6歳の異母弟(フランシスコ(富蘭)とマティアス(於松)という洗礼名のみ残る)を殺害している。
 しかし、これらのことから良心の呵責に耐えかねて嫌気がさし、幕府に転封を願い出て、慶長19年(1614年)7月に日向延岡に5万3千石の所領を与えられた。寛永14年(1637年)に旧領で起こった島原の乱においては、地理に明るいことから4,000名近い軍団を率いて征伐軍に加わり、乱を起こした自らの旧臣や元領民と対決した。なおこの時、豊前中津藩主・小笠原長次配下の軍監として参戦していた剣豪・宮本武蔵から書簡を受け取っている。
 寛永18年(1641年)、参勤交代の途中、大坂屋敷にて死去。享年56。一説には明石沖の船中にて死去ともいわれる。

 慶長18年(1613年)8月1日、有馬直純の嫡子として肥前日野江原城に生まれる。慶長19年(1614年)7月、父の転封にともない縣に移る。元和2年(1616年)、駿府で徳川家康に謁見、母の国姫が家康の曾孫だったことから寵愛され「康」の諱字を賜り、蔵人康純と称す。母とともに駿府ついで江戸屋敷に滞在。寛永3年(1626年)9月1日、元服して従五位下に叙せられる。
 寛永18年(1641年)に父の死去により家督を継ぎ、須志田村508石を除く諸縣郡の本庄村,森永村,竹田村,塚原村の併せて3,000石を、弟の八兵衛元純(有馬純政、後に本多姓を名乗る)に分知し、旗本とした。承応元年(1652年)から明暦元年(1655年)にかけて縣城(延岡城)を修築し、それに伴い近世城下町としての町割りが整われた。なお、現在の延岡市の名称の由来は、康純が明暦2年(1656年)に今山八幡宮に寄進した梵鐘(「城山の鐘」)の銘文からきているともいわれている。
 延宝7年(1679年)11月27日、家督を嫡子・清純に譲り、隠居。延宝9年(1681年)4月21日、新たに建てた門川の隠居宅に移る。天和2年(1682年)に剃髪して出家し、假宿と号す。貞享4年(1687年)に、ふたたび縣(延岡)の三瀬の隠居宅へ移る。
 元禄5年(1692年)4月8日、中風に倒れ、同12日の巳の刻に三瀬の隠居宅で死去。享年80。葬儀は14日に有馬家菩提寺の高岳寺にて執り行われた。4月16日、隠居宅のあった三ツ瀬に近い恒富村の簗場にて荼毘にふされた後、高岳寺に納骨される。

有馬清純 有馬一準

 延宝7年(1679年)11月27日、父の隠居により家督を継いだ。このとき、弟の純息と純富に合わせて2,800石を分与している。しかし藩政において悪政を敷いたことから、元禄3年(1690年)に領内で山陰・坪谷村一揆が起こり、その責任を問われて元禄5年(1692年)に無城大名に格下げの上で越後糸魚川に移封させられた。
 元禄8年(1695年)5月、越前丸岡へ移封となる。元禄15年(1702年)12月10日、59歳で死去し、後を嫡男の真純(一準)が継いだ。

 

 元禄10年(1697年)12月2日(異説として12月4日)、初代藩主・有馬清純の長男として丸岡城で生まれる。元禄15年(1702年)12月に父が死去したため、元禄16年(1703年)2月5日に家督を相続して藩主となる。正徳元年(1711年)に譜代大名に昇格し、同時に従五位下・左衛門佐に叙任する。しかし宝永3年(1706年),享保6年(1721年),享保8年(1723年)と連年のように洪水に悩まされて凶作となり、享保9年(1724年)にはそれが原因で一揆も起こるなど、藩政は多難を極めた。このため、財政難打開のために銀札の発行、家臣の知行借上げなどを行なったが、失敗した。
 享保18年(1733年)4月1日、家督を長男の孝純に譲って隠居する。寛延2年(1749年)に名を一準に改めた。宝暦7年(1757年)8月20日、孝純の後を追うように死去した。享年61。

有馬誉純 有馬純文

 明和6年(1769年)4月17日、第4代藩主・有馬允純の長男として生まれる。明和9年(1772年)の父の死去により家督を継いで藩主となる。安永7年(1778年)、財政難打開のために年貢増徴を行なったため、一揆が起こってしまった。このため、百姓側の要求を受け入れて年貢増徴を止めて大庄屋制度の廃止、「郷会所」設置による税制改革を行なった。また文治を奨励し、文化元年(1804年)には藩校・平章館を創設し、藩士子弟の教育に努めた。また諸礼式の確立にも務め、『国乗遺聞』や『藤原有馬世譜』など藩史・地誌の編纂に力を注いでいる。
 これら一連の藩政改革を成功させたことは幕府からも評価され、奏者番,寺社奉行を経て、文化9年(1812年)に江戸城西の丸若年寄に任じられた。
 文政13年(1830年)4月23日、養女で孫娘・冬姫の婿養子の徳純に家督を譲り、天保7年(1836年)10月27日に死去した。享年68。

 廃藩置県とともに家族と上京し学習院に入学。明治15年(1882年)、嘉納治五郎が講道館を開設すると3番目の入門者となる。農科大学を卒業。明治29年(1896年)近衛騎兵連隊に入隊、明治31年陸軍騎兵少尉となる。高等農学校講師,大日本農会農芸委員を歴任。明治33年(1900年)東宮侍従となり、明治41年(1908年)皇太子(のちの大正天皇)の韓国訪問に随行した。明治43年(1910年)東久邇宮附宮内事務官となる。