F007:藤原為憲 | 藤原鎌足 ― 藤原武智麻呂 ― 藤原乙麻呂 ― 藤原為憲 ― 工藤家次 | F044:工藤家次 |
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工藤家次 | 河津祐親 |
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伊豆国久須美荘(久須見荘,葛見荘:伊東荘,宇佐美荘,大見荘,河津荘などから成る)の開発領主。伊東氏の祖であり、狩野氏,河津氏などを派生した。工藤祐隆,伊東家次とも。 |
伊東荘を領する工藤祐隆の嫡男であった父・祐家が早世すると、祖父・祐隆は後妻の連れ子である工藤祐継を嫡子として本領の伊東荘を与え、嫡孫の祐親には河津荘を与えた。総領の地位を奪われたことに不満を持つ祐親は、祐継の死後にその子・工藤祐経が上京している間に伊東荘を奪った上、祐経に嫁がせた自身の娘・万劫御前とも離縁させてしまった。これを恨んだ祐経は安元2年(1176年)10月、郎党に命じて狩りの場にいた祐親を襲撃させる。刺客の放った矢は祐親を外れ、共にいた嫡男・河津祐泰が射殺された。これがのちに祐親の孫達が起こす曾我兄弟の仇討ちの原因となる。 |
河津祐泰 | 八重姫 |
工藤氏の流れをくむ伊東祐親(河津祐親)の長男であり、曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成・時致の父。祐通とも。 |
伊豆国伊東庄の豪族であり、頼朝の監視役であった伊東祐親の3女。源頼朝の最初の妻とされる。頼朝の初子・千鶴御前(千鶴丸)の母。 |
万劫御前 | 鮫島宗家 |
『曽我物語』では、河津祐親は兄の伊東祐継が死去する際、遺児の祐経の後事を託され、自身の娘の万劫と娶わせる約束をした。祐親は遺言通り祐経と万劫を結婚させて祐経を後見したが、やがて祐親は祐経を脅威に思い、祐経が在京中にその所領を押領してさらに満功を連れ戻し、土肥遠平へと再嫁させてしまったとする。 |
駿河国鮫島郷(現在の静岡県富士市鮫島)を本貫としていた。石橋山の戦いの直前、源頼朝が伊豆国から相模国土肥郷へ赴く際に従った武士の一人として『吾妻鏡』治承4年(1180年)8月20日条に登場するのが初見である。駿河国の武士ではただ一人、挙兵以来頼朝に臣従している。同年10月20日の富士川の戦いは鮫島郷の直近で行われたものであり、『吾妻鏡』当日条に宗家の姿はないが何らかの動きをした可能性がある。 |
鮫島員規 | 鮫島員重 |
海軍軍人。階級は海軍大将。薩摩藩士・鮫島新左衛門の長男として鹿児島で生まれる。戊辰戦争に従軍し、明治4年(1871年)、海軍に入り少尉補任官、「龍驤」乗組。佐賀の乱、西南戦争に従軍。その後、参謀本部海軍部第2局長、装甲艦「金剛」艦長、装甲艦「扶桑」艦長を歴任。明治24年(1891年)、フランスに発注した軍艦「松島」の回航委員長、初代艦長となる。 |
岩倉具経の四男として生まれ、海軍大将鮫島員規の養嗣子となる。太平洋戦争において司令長官職を歴任。ラバウルでともに終戦まで戦い抜いた同期生の草鹿任一,南東方面艦隊司令長官や、陸軍第8方面軍司令官の今村均と同様に人格者として知られていた。戦後の戦犯問題では部下の責任を引き受ける態度を示し、豪軍に感銘を与えたという。 |
鮫島重雄 | |
陸軍軍人。陸軍大将正三位勲一等功二級男爵。薩摩藩士鮫島藤兵衛の次男として生まれる。 |