魏の第2代皇帝。日本においては卑弥呼の使者に拝謁した皇帝(明帝)として知られる。 延康元年(220年)、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、黄初3年(222年)には平原王に封ぜられた。16歳の時、母の甄氏は父の文帝に誅殺された。当初、文帝は曹叡を好まず、他の夫人(徐姫)の子供である京兆王・曹礼を後継ぎにしたいという思っていた。そのため曹叡は長期間、太子になれなかった。黄初7年(226年)に文帝が病床で重体に陥ってから、皇太子に立てられた。5月、文帝が崩御すると皇帝に即位した。 同年、呉の孫権が江夏を攻撃した。群臣は兵を出して救援しようと意見したが、明帝は戦線は既に膠着状態に陥っており、長く留まりはしないだろうと推測した。明帝に派遣された治書侍御史荀禹が前線を慰労し、山に登って火を挙げると、孫権は撤退した。 227年、麹英が西平で反乱を起こすと、郝昭と魏平らを派遣し鎮圧した。12月には新城太守の孟達が蜀漢の諸葛亮と内通して反乱。司馬懿が鎮圧に当たり翌月には早くも孟達を斬った。228年、正月には諸葛亮が祁山に進出すると曹真、張郃を派遣して当たらせ、街亭の戦いにおいて打ち破り、諸葛亮の北伐は全て敗北した。その後の2月には論功行賞のため長安へ行幸した。 同年、孫権の謀略によって偽りの内通をした呉の周魴の誘いに乗った曹叡は曹休に10万の兵を与えて呉を攻撃させたが敗北した。その直後、諸葛亮は曹休の大敗や関西の手薄に乗じて二度目の北伐を行い、率いる数万人が陳倉城を攻囲した。曹真が侵攻路を想定して陳倉城の強化を行わせており、守備を任されていた郝昭は曹真の命を厳格に守ったため、一千人程度のわずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず頑健に防衛した。孫権,諸葛亮によって、以後数度にわたる侵攻が開始されると、皇族の曹真や司馬懿・張郃など祖父の曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。また第一次北伐時には親征して長安方面の動揺を鎮めている。 その後も毎年のように戦いが続いた。 景初元年(237年)には七廟の制を整備するとともに、祖父の武帝曹操,文帝に対して太祖,高祖の廟号を定めるとともに、自身の廟号を烈祖と定めた。同年、呉の孫権が朱然率いる2万の兵を派遣して江夏に侵攻して来るが、荊州刺史の胡質はこれを攻撃し、朱然を撤退させるが、殿軍に打撃を受ける。 景初2年(238年)、遼東の公孫淵が燕王を自称して魏に対する謀反を起こすと、明帝は群臣の反対を押し切って征討を決行した。 遼東制圧が完了した前後、首都洛陽にあった曹叡は病によって重篤に陥り、登女という巫女の言う神を信じて神水を求めたりするなど失態が目立った。神水を飲んでもよくならなかったので、登女も処刑された。死期を悟った曹叡は曹宇を大将軍とし、夏侯献,曹爽,曹肇,秦朗と共に曹芳を補佐させようとした。しかし孫資,劉放らの讒言で曹宇らは解任され、最終的に司馬懿,曹爽らが後見人に改めて立てられた。曹叡は景初3年(239年)1月に崩御し、高平陵に葬られた。享年35歳(または33歳)。
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先代の曹叡の子が相次いで夭折したために、親族の秦王・曹詢と曹芳の兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していた。 青龍3年(235年)、斉王に封ぜられた。景初2年(238年)に邪馬台国女王・卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあるが、この遣使の年は景初3年であるという異説もあり、その場合には邪馬台国の使者が拝謁したのは曹芳だということになる。 景初3年(239年)正月朔(1日)、危篤となった曹叡は曹芳を皇太子に立て、曹芳が幼少(8歳)のため補佐役を選定した。曹叡は、曹宇を大将軍に任じ後事を託そうと考えていたが、劉放と孫資らの反対を受け、曹爽と司馬懿を後見人とした。 まもなく曹叡は崩御し遺体は高平陵に葬られ、曹芳が皇帝に即位した。政務に関しては曹爽と司馬懿が取り仕切り、剣履上殿,入朝不趨,謁賛不名という特権を与えられた。司馬懿は対蜀漢の前線を任されていたため、曹爽が内政を執り行い、司馬懿が軍事を管轄した。この時点では、表面上は曹爽が年輩の司馬懿を敬っていたため、両者の間に大きな軋轢は見られなかった。 正始2年(241年)、呉の朱然らが樊城を包囲すると、司馬懿は自ら進み出て軽騎兵を指揮して救援におもむき、朱然を退けた(芍陂の役)。 正始4年(243年)正月、元服した。この年に倭国女王が朝貢している。 正始5年(244年)、曹爽は大功を立てるため蜀漢への侵攻を企てる。司馬懿は失敗を予期して強く反対したが、曹爽は蜀漢出兵を強権的に行い(興勢の役)、結果的に大失敗に終わり多くの損害を出した。そのため、これ以降両者の対立が表面化することとなった。 正始8年(247年)5月、曹爽が政治権力の集約を図る中、身の危険を感じた司馬懿は政務に関与せず自邸に引きこもった。それを聞いた曹爽と何晏はさらに専横を強め、国家転覆をも企てんとしていた。そんな中、李勝は曹爽の命で司馬懿邸を訪れると、司馬懿は病が重いふりをする。それにより曹爽らは司馬懿に対する警戒を解いた。 嘉平元年(249年)1月6日、曹芳が明帝の陵墓に参拝するために高平陵に向かった隙を突き、司馬懿が洛陽を制圧し曹爽は降伏する(高平陵の変)。その後、曹爽一族,一党を追放・誅殺したため、これ以降の魏は事実上司馬氏の支配するところとなった。 嘉平3年(251年)、王淩が曹彪を擁してクーデターを図るが露顕し、王淩は自殺、曹彪も死罪となる(王淩の乱)。この頃、司馬懿が死去し、司馬師が実権を握った。 嘉平6年(254年)、李豊,夏侯玄,張緝(張皇后の父)らが司馬師を追放しようと計画するが失敗し、関係者は全て誅殺された。張皇后を廃し、新たに王皇后を立てた。この事件により司馬師は皇帝の廃位を計画し、既に成人しているのに政務を看ずに色欲に耽っているという理由で曹芳は廃位され、斉王に引き戻された。時に23歳であった。廃位後、洛陽を去る時、数十名の朝臣のみが見送った。その後、曹髦が皇帝に即位する。 泰始元年(265年)、晋が成立すると、邵陵公に降格された。泰始10年(274年)に43歳で死去した。
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