魏王朝(三国時代)

 魏王朝 CHN4:魏王朝


 

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曹 操 曹 丕

 後漢桓帝期の永寿元年(155年)に生まれる。本籍は沛国譙県(現在の安徽省亳州市)。その祖先は高祖劉邦に仕えた功臣・曹参であるとされるが、曹操の祖先はおそらく一介の農民であったと思われる。
 曹操は若くして機知と権謀に富んだが、放蕩を好み品性や素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。士大夫の中での評判が芳しくない中で、橋玄と何顒は曹操を高く評価した。ともに天下を安んずるは曹操であると言ったと伝わる。
 この評により郷里で名を知られるようになり、20歳のときに推挙されて郎(皇帝の身近に使える官)となり、洛陽北部尉(洛陽北部の警察担当)に任ぜられる。曹操は着任すると、違反者に対して厳しく取り締り、法の禁を犯す者は現れなくなった。
 光和7年(184年)、黄巾の乱が起こると騎都尉(皇帝の侍従武官)となり、皇甫嵩,朱儁の配下に入って潁川での討伐に向かった。ここで功績を挙げて済南の相に任命された。済南でも辣腕を発揮した。
 袁紹とはこの頃から親しい付き合いがあり、当時の政界に不満を持つ若手は袁紹を中心として一派閥を作り、曹操もまた袁紹派の一人となった。
 霊帝が崩御すると、霊帝の皇后である何皇后の子である弁と協皇子(陳留王、後の献帝)との間で後継争いが起きるが、弁側が勝利して皇帝となる。何皇后の兄である大将軍・何進は自らの専権を確立するために宦官勢力を撲滅する計画を立てていたが、先んじられて殺される。これに対して袁紹や袁術は宮中に乱入して宦官たちを殺害、混乱の中で皇帝・弁と協皇子は宮廷外に脱出した。曹操は計画を先に聞かされていたが、反対していた。宦官討伐の計画に先んじて、何進は各地の将軍に対して洛陽に集まるようにと檄文を下していたが、これに応えて西北から董卓がやってきて、弁と協皇子を確保した。董卓は弁を廃して協皇子を自らの傀儡として皇帝(献帝)に立てる。この状況に曹操や袁紹は洛陽から逃走して郷里で挙兵した。
 反董卓を掲げて挙兵したことを皮切りに活動を開始した曹操は初平3年(192年)に兗州牧となり、その地で青州から来た黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人を投降させて自分の配下に納め、その後、急激に勢力を拡大させた。
 建安5年(200年)には官渡の戦いで曹操に破れた劉備を受け入れた袁紹を破り、建安17年(212年)には袁氏に味方する騎馬遊牧民族の烏桓を撃ち破って中国北部を手中に収め(白狼山の戦い)、同年、後漢の丞相となる。
 建安13年(208年)、曹操は南方の孫権・劉備連合軍を攻めるが、周瑜らの火計により敗れ、飢餓と疫病も重なり非常に多くの兵士が亡くなる(赤壁の戦い)。同年、南郡を守備していた曹仁が周瑜に敗れ、孫権の支配下となった。また、劉備が荊州の南部4郡を制圧し、曹操,劉備,孫権の三者鼎立の様相を呈した。
 建安18年(213年)、曹操は十郡をもって魏公に封じられた。建安21年(216年)、さらに魏王に封じられた。
 建安24年(219年)、漢中を守備している夏侯淵が劉備に討ち取られ(定軍山の戦い)、曹操自ら漢中に援軍に出向いたが、苦戦し被害が大きくなったので撤退、漢中を劉備に奪われた。また、劉備の部将の関羽が北上して曹操の勢力下の樊城,襄陽を包囲し、曹操の部将の于禁が率いる七軍を壊滅させ、曹操の部将の于禁,龐徳を捕虜とした。曹操は司馬懿,蔣済の提案に従い、孫権と同盟を結び、徐晃らを派遣して関羽を破った(樊城の戦い)。
 建安25年(220年)、曹操は病のため死去。享年66。曹操は「天下は未だ収まっていないから古例に従うことはできない。埋葬が終わったならすぐに喪を明けよ。各地の軍隊は持ち場を離れてはいけない。官吏はその職務に努めよ。埋葬に当たっては平服を用い、金銀珍宝を副葬してはならない」と遺令した。
 後を子の曹丕が継ぎ、同年に献帝から禅譲を受けて魏を建て(後漢滅亡)、曹操は武帝の諡号と太祖の廟号を贈られた。

 

詳細は、Wikipedia(曹操)参照

 

 父の曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。政治家である一方、曹操、曹植と並んで三曹と称される優れた文学者であった。著書に『典論』がある。
 曹操と卞氏(武宣皇后)のあいだの長男として生まれ、8歳で巧みに文章を書き、騎射や剣術を得意とした。初めは庶子の一人として、わずか11歳で父の軍中に従軍していた。長兄,次兄が亡くなると、一介の側室でしかなかった生母の卞氏が曹操の正室として迎えられ、曹丕は曹操の嫡子として扱われるようになる。
 建安25年(220年)に父・曹操が逝去すると、魏王に即位し丞相職を受け継ぐ。魏王に即位した頃、臧覇の部下と30余万の青州兵は、天下が乱れると考え、皆で太鼓をたたいて勝手に去って行った。劉備は曹操が死んだことを聞くと弔問の使者韓冉を遣わしたという。曹丕は劉備が曹操の死を利用して好を通じようということを嫌い、その使者を殺すようにと荊州刺史に命じた。
 一方、私兵四千家あまりを統率して孟達が魏に帰伏したため、大いに喜び厚遇した。曹丕は、房陵,上庸,西城の三郡を合併して新城郡とし、孟達に新城太守を担当させた。
 そして、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即位した。ただし、表向きは家臣たちから禅譲するように上奏し、また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣たちに重ねて禅譲を促されるという形を取った。2回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、名実ともに三国時代に入ることになる。文帝は内政の諸制度を整え、父から受け継いだ国内を安定させた。特に陳羣の進言により制定された九品官人法は、後世に長く受け継がれた。
 曹丕は劉曄の進言を受け入れず、夷陵の戦い直後に介入して、魏の総力を結集して30余万の軍勢で三路から呉の背後を攻めた。曹丕も宛に進駐し、自ら親征軍の陣頭指揮を執り、曹休,曹真,曹仁らに加勢した。黄初3年(222~223年)に始まった三方面での戦いは、疫病が流行など被害が大きく失敗に終わった。
 なおも曹丕は賈詡,辛毗の進言に従わず、翌黄初5年(224年)の出兵では、曹丕は自ら10余万の親征軍を指揮して広陵へ出撃した。しかし呉将・徐盛が長江沿岸に築いた偽の城壁が数百里にわたって続き、曹丕は広陵に到ると偽城を望見して驚き、魏の人々もこれを恐れ、かつ長江の水量が増大して、魏軍の船団が大波によって覆され被害も広範囲にわたり魏軍は敗走した。
 さらに翌黄初6年(225年)にも、曹丕は蔣済,鮑勛の忠告を受け入れず、またも自ら10余万の親征軍を発して広陵へと進軍した。鮑勛が直諫したため、曹丕はさらに腹を立て鮑勛を左遷した。この年は寒さが厳しく長江が凍り、曹丕の龍舟(旗艦)を動かすことができなかったので撤退した。この退却を機と読んだ呉将・孫韶は決死隊500人で10余万の魏軍に夜襲をかけ、恐怖に陥った魏軍を寿春へ敗走させた。魏軍が孫韶に敗れると、追撃で曹丕の乗馬車・羽蓋と魏軍の輜重なども奪われた。
 黄初7年(226年)5月丙辰(16日)に病に倒れ、翌丁巳(17日)に嘉福殿にて崩御した。享年40。死ぬ間際、司馬懿,曹真,陳羣,曹休に皇太子の曹叡を託した。

 

曹 叡 曹 芳

 魏の第2代皇帝。日本においては卑弥呼の使者に拝謁した皇帝(明帝)として知られる。
 延康元年(220年)、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、黄初3年(222年)には平原王に封ぜられた。16歳の時、母の甄氏は父の文帝に誅殺された。当初、文帝は曹叡を好まず、他の夫人(徐姫)の子供である京兆王・曹礼を後継ぎにしたいという思っていた。そのため曹叡は長期間、太子になれなかった。黄初7年(226年)に文帝が病床で重体に陥ってから、皇太子に立てられた。5月、文帝が崩御すると皇帝に即位した。
 同年、呉の孫権が江夏を攻撃した。群臣は兵を出して救援しようと意見したが、明帝は戦線は既に膠着状態に陥っており、長く留まりはしないだろうと推測した。明帝に派遣された治書侍御史荀禹が前線を慰労し、山に登って火を挙げると、孫権は撤退した。
 227年、麹英が西平で反乱を起こすと、郝昭と魏平らを派遣し鎮圧した。12月には新城太守の孟達が蜀漢の諸葛亮と内通して反乱。司馬懿が鎮圧に当たり翌月には早くも孟達を斬った。228年、正月には諸葛亮が祁山に進出すると曹真、張郃を派遣して当たらせ、街亭の戦いにおいて打ち破り、諸葛亮の北伐は全て敗北した。その後の2月には論功行賞のため長安へ行幸した。
 同年、孫権の謀略によって偽りの内通をした呉の周魴の誘いに乗った曹叡は曹休に10万の兵を与えて呉を攻撃させたが敗北した。その直後、諸葛亮は曹休の大敗や関西の手薄に乗じて二度目の北伐を行い、率いる数万人が陳倉城を攻囲した。曹真が侵攻路を想定して陳倉城の強化を行わせており、守備を任されていた郝昭は曹真の命を厳格に守ったため、一千人程度のわずかな軍隊で諸葛亮の軍勢を寄せ付けず頑健に防衛した。孫権,諸葛亮によって、以後数度にわたる侵攻が開始されると、皇族の曹真や司馬懿・張郃など祖父の曹操以来の宿老達を用いて、これらを防がせた。また第一次北伐時には親征して長安方面の動揺を鎮めている。
 その後も毎年のように戦いが続いた。
 景初元年(237年)には七廟の制を整備するとともに、祖父の武帝曹操,文帝に対して太祖,高祖の廟号を定めるとともに、自身の廟号を烈祖と定めた。同年、呉の孫権が朱然率いる2万の兵を派遣して江夏に侵攻して来るが、荊州刺史の胡質はこれを攻撃し、朱然を撤退させるが、殿軍に打撃を受ける。
 景初2年(238年)、遼東の公孫淵が燕王を自称して魏に対する謀反を起こすと、明帝は群臣の反対を押し切って征討を決行した。
 遼東制圧が完了した前後、首都洛陽にあった曹叡は病によって重篤に陥り、登女という巫女の言う神を信じて神水を求めたりするなど失態が目立った。神水を飲んでもよくならなかったので、登女も処刑された。死期を悟った曹叡は曹宇を大将軍とし、夏侯献,曹爽,曹肇,秦朗と共に曹芳を補佐させようとした。しかし孫資,劉放らの讒言で曹宇らは解任され、最終的に司馬懿,曹爽らが後見人に改めて立てられた。曹叡は景初3年(239年)1月に崩御し、高平陵に葬られた。享年35歳(または33歳)。 

 先代の曹叡の子が相次いで夭折したために、親族の秦王・曹詢と曹芳の兄弟を養子に迎えて、皇太子候補として養育していた。
 青龍3年(235年)、斉王に封ぜられた。景初2年(238年)に邪馬台国女王・卑弥呼の使者が明帝への拝謁を求めて洛陽に到着したとあるが、この遣使の年は景初3年であるという異説もあり、その場合には邪馬台国の使者が拝謁したのは曹芳だということになる。
 景初3年(239年)正月朔(1日)、危篤となった曹叡は曹芳を皇太子に立て、曹芳が幼少(8歳)のため補佐役を選定した。曹叡は、曹宇を大将軍に任じ後事を託そうと考えていたが、劉放と孫資らの反対を受け、曹爽と司馬懿を後見人とした。
 まもなく曹叡は崩御し遺体は高平陵に葬られ、曹芳が皇帝に即位した。政務に関しては曹爽と司馬懿が取り仕切り、剣履上殿,入朝不趨,謁賛不名という特権を与えられた。司馬懿は対蜀漢の前線を任されていたため、曹爽が内政を執り行い、司馬懿が軍事を管轄した。この時点では、表面上は曹爽が年輩の司馬懿を敬っていたため、両者の間に大きな軋轢は見られなかった。
 正始2年(241年)、呉の朱然らが樊城を包囲すると、司馬懿は自ら進み出て軽騎兵を指揮して救援におもむき、朱然を退けた(芍陂の役)。
 正始4年(243年)正月、元服した。この年に倭国女王が朝貢している。
 正始5年(244年)、曹爽は大功を立てるため蜀漢への侵攻を企てる。司馬懿は失敗を予期して強く反対したが、曹爽は蜀漢出兵を強権的に行い(興勢の役)、結果的に大失敗に終わり多くの損害を出した。そのため、これ以降両者の対立が表面化することとなった。
 正始8年(247年)5月、曹爽が政治権力の集約を図る中、身の危険を感じた司馬懿は政務に関与せず自邸に引きこもった。それを聞いた曹爽と何晏はさらに専横を強め、国家転覆をも企てんとしていた。そんな中、李勝は曹爽の命で司馬懿邸を訪れると、司馬懿は病が重いふりをする。それにより曹爽らは司馬懿に対する警戒を解いた。
 嘉平元年(249年)1月6日、曹芳が明帝の陵墓に参拝するために高平陵に向かった隙を突き、司馬懿が洛陽を制圧し曹爽は降伏する(高平陵の変)その後、曹爽一族,一党を追放・誅殺したため、これ以降の魏は事実上司馬氏の支配するところとなった。
 嘉平3年(251年)、王淩が曹彪を擁してクーデターを図るが露顕し、王淩は自殺、曹彪も死罪となる(王淩の乱)。この頃、司馬懿が死去し、司馬師が実権を握った。
 嘉平6年(254年)、李豊,夏侯玄,張緝(張皇后の父)らが司馬師を追放しようと計画するが失敗し、関係者は全て誅殺された。張皇后を廃し、新たに王皇后を立てた。この事件により司馬師は皇帝の廃位を計画し、既に成人しているのに政務を看ずに色欲に耽っているという理由で曹芳は廃位され、斉王に引き戻された。時に23歳であった。廃位後、洛陽を去る時、数十名の朝臣のみが見送った。その後、曹髦が皇帝に即位する。
 泰始元年(265年)、晋が成立すると、邵陵公に降格された。泰始10年(274年)に43歳で死去した。 

曹 髦 曹 奐

 魏の第4代皇帝。少帝髦,廃帝髦,高貴郷公髦とも称される。『三国志』によると、曹髦の才能は幼い頃から抜きん出ていたという。次第に衰運が明らかとなる魏朝を再興させる望みを託されて即位した。群臣と論議することを好み、彼がまだ16歳の時に過去の帝王,皇帝の優劣について荀顗らと論じたという記録が残っている。奇しくも曹髦が評価したのは、滅亡寸前の夏王朝を建て直した少康であった。
 曹髦はよく王沈,裴秀,司馬望,鍾会らと東御殿で気楽な討論会を行い、文学論を書いた。
 曹芳以来、魏は司馬師,司馬昭が専権するところとなっており、皇帝は傀儡であった。甘露5年(260年)5月7日、曹髦は側近の王業,王沈,王経に、朕はこのまま廃位の恥辱を受けることはできない、今日こそ卿らと共に打って出ようと打ち明けた。王経は、その無謀さを諫めたが、曹髦は自ら剣を手に、李昭,焦伯ら数百人の召使いを率いて挙兵した。しかし、王業,王沈が密告したため、既に司馬昭の懐刀である賈充が、軍勢と共に待ち受けていた。しかし、誰も天子を畏れて斬りかかろうとしなかった。賈充は部下たちを叱咤し、罪に問わないと約束した上で曹髦を殺害させた(甘露の変)。齢20歳。
 結局、司馬昭は実行犯の成済に全責任を押しつけ、一族諸共処刑してしまった。成済は処刑直前、門の屋根に登り司馬昭や賈充を罵ったという話も伝わる。また、ただ一人密告しなかった王経も老母共々処刑された。一方、賈充は全く罪に問われなかった。
 公式発表では曹髦が皇太后の殺害を企て、その宮殿に乗り込まんとして、逆に衛兵に殺害されたとされ、葬儀は当初は庶民として扱う旨の命令が出されたが、司馬孚は自ら皇太后に談判し、王の格式で葬儀を行うことになった。

 魏の第5代皇帝。曹操の孫にあたる。甘露2年(257年)、常道郷公に封じられた。
 先代皇帝の曹髦が司馬昭の専横に憤り、甘露5年(260年)5月、司馬昭を取り除こうとしたが、逆に殺害された。同年6月、曹奐が後継として即位したが、実態は司馬昭の傀儡に過ぎなかった。
 景元元年(260年)、司馬昭を相国、晋公にした。実父の曹宇が「臣」と称して上表したので、曹奐は直ちに詔勅を下し先例を調査した上で特別待遇を認めた。
 景元4年(263年)8月、鄧艾,鍾会らが蜀を攻め、同年11月、これを滅ぼした(蜀漢の滅亡)。
 咸熙元年(264年)3月、司馬昭を晋王とした。咸熙2年(265年)8月、司馬昭が死去し司馬炎が跡を継ぎ、同年12月、曹奐は司馬炎に禅譲し、魏は5代45年で滅亡して晋に替わった。司馬懿の弟の司馬孚は退位した曹奐の手を取り、涙を流しつつ、今後も魏の臣下であると述べた。退位後は陳留王に封じられ、鄴に移り住んだ。
 八王の乱の最中の太安元年(302年)に57歳で死去した。恵帝より元皇帝と諡された。
 曹奐の没後も晋朝および南朝宋冊封下の諸侯王として存続していた様子がある。子孫は魏の滅亡から200年以上、二王朝の下で陳留王を相続した。太寧3年(325年)、曹操の玄孫である曹勱が東晋によって陳留王に封じられた。升平2年(358年)に死去し、興寧元年(363年)に子の曹恢が跡を継いだ。曹恢は太元3年(378年)に死去し、太元8年(383年)に子の曹霊誕が跡を継いだ。曹霊誕は義熙4年(408年)に死去した。
 元熙2年(420年)、劉裕が東晋から禅譲を受けて南朝宋を建国したが、劉裕に禅譲を勧める上奏に、陳留王・曹虔嗣が名を連ねている。曹虔嗣は同年に死去し、弟の曹虔秀が跡を継いだ。曹虔秀は大明6年(462年)に死去し、子の曹銑が跡を継いだ。曹銑は元徽元年(473年)に死去した。昇明3年(479年)、蕭道成が南朝宋から禅譲を受け南朝斉となったが、蕭道成に禅譲を勧める上奏に、陳留王曹粲が名を連ねている。同年8月、曹粲は王位を除かれた。 

公孫淵

 父の公孫康が死去した時はまだ幼少であったため、叔父の公孫恭が遼東太守となった。やがて公孫淵が成人すると、公孫恭を太和2年(228年)に脅迫して、遼東太守の座を奪った。この時、魏の明帝から揚烈将軍の官位を与えられている。
 その後、公孫淵は魏,呉と通じるなど、巧みな外交を見せている。この経緯から嘉禾2年(233年)、呉から九錫を受け燕王に封じられた。しかし、後に心変わりして呉の使者として来訪した張弥,許晏,賀達らを殺害し、その首を魏に差し出した。この功績により、大司馬・楽浪公に任じられている。
 しかし、こうした公孫淵の二枚舌外交は、魏の強硬政策を招いた。 景初元年(237年)、毌丘倹は明帝の名で公孫淵に出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わずに迎撃の構えを見せ、毌丘倹と一戦に及びこれを撃退した。この結果、公孫淵はついに自立を宣言し、燕王を称した。文武百官を置き、年号を紹漢とした。領土は帯方郡と楽浪郡であった。
 翌紹漢2年(238年)、魏軍が向かってくると、公孫淵は呉に援軍を求めたが間に合わず、止むを得ず単独で戦うも魏軍に大敗、籠城するも食料が尽き遂に降伏した。この時、公孫淵は降伏ではなく和議の形での終結を図ろうと試みたが失敗。同年8月23日、公孫淵と子の公孫脩をはじめとする廷臣はみな斬首され、さらに遼東の成年男子7000人も虐殺された。その首は高く積まれ京観(高楼)と呼ばれたという。また公孫淵の首は都の洛陽に送られた。このことで、洛陽に留まっていた兄の公孫晃の一族も死を賜ることになり、遼東公孫氏は滅亡することになった。なお、叔父の公孫恭は反乱の際に疑われ城内に幽閉されていたが、司馬懿から忠士であると評価され、反乱鎮圧後に釈放されたという。
 遼東公孫氏の滅亡が、倭国女王・卑弥呼が、魏の配下となった帯方郡に遣使することにつながった、との見方が有力である。これは当時の公孫氏政権が、韓国をはじめとする東夷諸国の使者を遼東で遮り自らへの朝貢としていたため、その滅亡により経路が通じるようになったという見解に基づくものである。
 卑弥呼遣使の帯方郡到着は景初2年6月と『魏志倭人伝』に明記されているが、公孫氏滅亡前と思われ帯方郡への遣使は困難ではないかとの見解から、翌景初3年ではないかとする異議が提示されている(「二」と「三」の誤記)。また、倭国遣使が大夫2人で朝貢物の生口10人布2匹2丈は、かつての後漢安帝の倭国王帥升等の貢物生口160人と比べて粗末なものと見えるのにかかわらず、景初3年元日に崩御した魏明帝が、生前に倭国を厚遇したのは、公孫氏からいち早く魏に乗り換えたことの功績を認めたからだという説が有力である。
 日本の『新撰姓氏録』では、帰化人系の氏族の一つである常世氏(もと赤染氏)は、公孫淵の子孫と称している。
 公孫淵,公孫脩の父子が司馬懿によって討ち取られる前、淵の家にはたびたび異変が起こった。朱色の冠をかぶり赤い着物を着た犬が屋根に上ったかと思うと米を蒸す土鍋の中で子供が蒸し殺されていたりした。また淵の領地である襄平の北の市街に肉が現れた。長さも周囲もそれぞれ数尺、頭,目,口,唇がついていて手も足もないのに揺れ動く。そこで易者に占ってもらったところ「形はあるが完全ではない。体はあるが声はしない。これは国家滅亡の前兆ですぞ。」とのことであった。倫直が、公孫淵が燕王を自称する際に、 この怪奇現象を例に挙げて諫めたが、聞き入れられず処刑されている。