春秋時代の武将・軍事思想家。「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義など、兵法書『孫子』の作者とされる。斉国出身。「孫子」は尊称である。 孫武に関する資料としては正史『史記』の他、呉越の興亡について記した『呉越春秋』、孫子の先祖や子孫について述べた唐の正史『新唐書』が主要な資料となるが、史実性に関しては論争の対象である。 孫武は若年から兵書に親しみ、黄帝と四帝の戦いや古代の伊尹,姜尚,管仲らの用兵策略を研究したという。紀元前517年頃、一族内で内紛があり、孫武は一家を連れて江南の呉国へと逃れ、呉の宰相・伍子胥の知遇を得る。孫武はその後、呉の王都・姑蘇郊外の山間に蟄居して『孫子』十三篇を著作した。 前515年、呉の王に闔閭が即位すると、伍子胥は闔閭に「孫子兵法」を献上し、7回にわたり登用を説いたため、闔閭は孫武を宮中に呼び出して兵法を問うた。この時のエピソードが『史記』の「孫子勒姫兵」(孫子勒兵とも)である。 闔閭は宮中の婦人で、少し軍の指揮を見せてほしいと要望し、孫武はこれを了承して、宮中の美女180人を集合させて二つの部隊とし武器を持たせて整列させ、王の寵姫2人を各隊の隊長に任命した。しかし、宮女たちは隊長(王の寵姫)の命令に従わず、どっと笑う。孫武は「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪なり」、さらに「命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官の罪なり」と言って、隊長の2人を斬首した。そして新たな隊長を選び号令を行うと、今度は女性部隊は命令どおり進退し、粛然声を出すものもなかった。一見すると残虐に見える孫武の行為は、部隊を全滅させないために犠牲を最小限に留めた一手であり、強いては自国の損害を最小限にする判断となり「完全な状態に保つ上策」を目指したものであった。闔閭は孫武の軍事の才を認めて将軍に任じた。 前512年、将軍に任じられた孫武は、楚国の衛星国であった鍾吾国と徐国を攻略した。闔閭は勝利に乗じて楚国に進攻しようとしたが、孫武は自軍が疲弊しているため、今、楚を攻めるのは上策ではないと進言した。闔閭はこの意見に従い、また伍子胥の献策により、小部隊で楚の国境を絶えず挑発し、楚の大軍を国境に貼りつかせ、楚の国力を消耗させる作戦をとった。 6年後の前506年、楚は呉の保護下にあった地方領主・唐の成公と蔡の昭侯を攻め、2人は呉に救援を求めた。機が熟したと考えた闔閭は、孫武と伍子胥を左右の将として軍を発し、呉と楚の両軍は漢水の河畔・柏挙で会戦する(柏挙の戦い)。孫武の陽動作戦によって楚軍主力は別の地域におびき出され、呉軍本隊が現れ首都に向かうとの情報で急遽転進してきたため、戦場に到着したときには強行軍の連続で既に疲弊しきっていた。3万の呉軍は20万の楚軍を大いに破り、さらに進撃して5戦5勝し、10日のうちに楚の王都・郢城を陥落させて楚の昭王を逃亡させる。強国・楚の大軍を寡兵で破ったこの戦いにより孫武の名は中原に轟いた。 その後、楚の臣の申包胥が秦に逃亡し、彼の策によって秦が呉国を攻めたため、呉軍はやむなく楚から撤退した。 以後、呉は北方の斉,晋を威圧して諸侯の間にその名を知らしめたが、それらの功績は孫武の働きによるところが大きかった。 前496年、闔閭は孫武の意見を容れず、越を攻めたが苦戦に陥り、闔閭は敵の矢による負傷が悪化して死亡した。孫武は伍子胥とともに太子の夫差を補佐して国力を養い、のちに呉は夫椒で越を大敗させ雪辱を果たした。 孫武の後半生については記録が残っていない。『呉越春秋』によれば、孫武は讒言する者があって辞職を願い出たといい、以後の呉国に関する史書からは、孫武に関する記述が途絶える。その後、夫差は次第に慢心するようになり、讒言によって孫武の莫逆の友であった伍子胥に、剣を賜り自決させる。孫武もまた誅殺されたとも、隠棲して実戦経験をもとに『孫子兵法』の改良に取り組んだとも言うが、何れも伝承の域をでない。 孫武の墓もはっきりしていない。蘇州の北にある陵墓が孫武のものであるという説もあるが確定していない。
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中国後漢末期の武将。廟号は始祖、諡号は武烈皇帝。 熹平元年(172年)、孫堅が17歳の時、立ち寄った銭唐県において海賊が略奪を行なっている状況に遭遇したため、それを見た孫堅は一計を案じた。見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍の指揮を執って海賊を包囲殲滅するかのような身振りをしたのである。それを見た海賊たちは大軍が攻めてくるものと勘違いし、我先にと逃げ出してしまった。この件で孫堅は有名となり役所に召されて仮の尉(警察・軍事担当)となった。172年から174年にかけて会稽郡で起こった許昌の乱を鎮圧した後、孫堅はその功績により揚州刺史の臧旻によって上奏され、塩瀆県丞に任命される。数年後、盱眙県丞や後の下邳県丞に転任した。 光和7年(184年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、家族を九江の郡治寿春県に残した。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。朱儁が汝南・潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげていった。宛城の攻略においては、孫堅自ら先頭に立って城壁を登り、西南方面の官軍の指揮を執り大勝利を収めている。この功績により、別部司馬となった。 中平3年(186年)、涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧に向かう。当初、反乱鎮圧には中郎将の董卓があたっていたが、情勢は芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空の張温が指揮を執り、孫堅はその参軍として従軍した。董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州での行動に際して董卓の力が必要と判断した張温はそれを退けるが、後日、董卓はこの事を漏れ聞き、張温と孫堅を深く憎むようになった。 孫堅は荊州南部で起こった区星の反乱鎮圧の命を受け、長沙に太守として赴任して、様々な計略を用いて、この反乱を鎮圧した。区星の反乱を援助していた零陵や桂陽の二郡にも進出して、反乱を鎮圧した。このように、各地で人材を手に入れ、転戦して実戦経験も十分に積んだ孫堅の軍団は、やがて軍閥化した。 この頃、洛陽では董卓が実権を握った。永漢元年(189年)、董卓は少帝を廃位し、献帝を擁立、張温を占いの結果の吉凶にかこつけて殺害するなどの横暴を行った董卓に対し、初平元年(190年)、袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。孫堅もこれに応じて挙兵した。孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過した。この時、董卓への反意を表明していたものの、自らに対して日頃から侮辱的な扱いをしてきた上司・荊州刺史王叡を殺害した。次に前進して南陽太守の張咨の元を訪れ、これも自分にとって禍になるとみて殺害した。さらに前進して魯陽の袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行,豫州刺史を領させた。 この後、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅が指揮を執る軍団は董卓軍とぶつかりあっていた。曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れ、孫堅軍もやはり徐栄に敗れたが、曹操が兵を補充し戦線を離れたのに対して、孫堅は袁術の支援もあって即座に再起し董卓軍に挑み続け、初平2年(191年)の陽人の戦いで孫堅は敗残兵を集めて、梁県の陽人に駐屯した。董卓は大督護の胡軫・騎督の呂布を派遣して、陽人の孫堅を攻撃させた。しかし呂布と胡軫は仲が悪く、二人配下の兵士は慌てて逃げたが、孫堅は部隊を指揮して追撃し、呂布と胡軫を敗走させた。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李傕を使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅はこれを断った。孫堅は出撃して大いに董卓を破り、董卓軍の都尉華雄を討ち取った。董卓は遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って長安へ逃れた。孫堅は洛陽に入った。宝物を奪い取っていたが、孫堅は董卓によって荒らされた陵墓を修復し、再び魯陽の袁術のもとに帰還した。 孫堅は豫州刺史であったが、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したため、孫堅と袁術は周喁,周昂,周昕と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹の対立は決定的となり、反董卓連合軍は事実上瓦解し、諸群雄は袁紹と袁術の争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。孫堅と袁術は周喁,周昕を敗走させた。 初平2年(191年)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた。孫堅は劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいるときに、黄祖の部下に射殺されてしまう(襄陽の戦い)。享年37。 桓階が孫堅の遺体を劉表から取り戻した。孫堅軍は瓦解し、兄の子の孫賁はその軍勢を引き継ぎ、孫堅の棺を曲阿に送り届けた。後に寿春に移った袁術の傘下となった。 黄龍元年(229年)、皇帝となった次男・孫権は、後に父・孫堅の廟を長沙に、長兄・孫策の廟を建業に建てた。
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