呉王朝(三国時代)

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孫 武(孫子) 孫 堅

 春秋時代の武将・軍事思想家。「戦わずして勝つ」という戦略思想、戦闘の防勢主義と短期決戦主義など、兵法書『孫子』の作者とされる。斉国出身。「孫子」は尊称である。
孫武に関する資料としては正史『史記』の他、呉越の興亡について記した『呉越春秋』、孫子の先祖や子孫について述べた唐の正史『新唐書』が主要な資料となるが、史実性に関しては論争の対象である。
 孫武は若年から兵書に親しみ、黄帝と四帝の戦いや古代の伊尹,姜尚,管仲らの用兵策略を研究したという。紀元前517年頃、一族内で内紛があり、孫武は一家を連れて江南の呉国へと逃れ、呉の宰相・伍子胥の知遇を得る。孫武はその後、呉の王都・姑蘇郊外の山間に蟄居して『孫子』十三篇を著作した。
 前515年、呉の王に闔閭が即位すると、伍子胥は闔閭に「孫子兵法」を献上し、7回にわたり登用を説いたため、闔閭は孫武を宮中に呼び出して兵法を問うた。この時のエピソードが『史記』の「孫子勒姫兵」(孫子勒兵とも)である。
 闔閭は宮中の婦人で、少し軍の指揮を見せてほしいと要望し、孫武はこれを了承して、宮中の美女180人を集合させて二つの部隊とし武器を持たせて整列させ、王の寵姫2人を各隊の隊長に任命した。しかし、宮女たちは隊長(王の寵姫)の命令に従わず、どっと笑う。孫武は「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪なり」、さらに「命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官の罪なり」と言って、隊長の2人を斬首した。そして新たな隊長を選び号令を行うと、今度は女性部隊は命令どおり進退し、粛然声を出すものもなかった。一見すると残虐に見える孫武の行為は、部隊を全滅させないために犠牲を最小限に留めた一手であり、強いては自国の損害を最小限にする判断となり「完全な状態に保つ上策」を目指したものであった。闔閭は孫武の軍事の才を認めて将軍に任じた。
 前512年、将軍に任じられた孫武は、楚国の衛星国であった鍾吾国と徐国を攻略した。闔閭は勝利に乗じて楚国に進攻しようとしたが、孫武は自軍が疲弊しているため、今、楚を攻めるのは上策ではないと進言した。闔閭はこの意見に従い、また伍子胥の献策により、小部隊で楚の国境を絶えず挑発し、楚の大軍を国境に貼りつかせ、楚の国力を消耗させる作戦をとった。
 6年後の前506年、楚は呉の保護下にあった地方領主・唐の成公と蔡の昭侯を攻め、2人は呉に救援を求めた。機が熟したと考えた闔閭は、孫武と伍子胥を左右の将として軍を発し、呉と楚の両軍は漢水の河畔・柏挙で会戦する(柏挙の戦い)。孫武の陽動作戦によって楚軍主力は別の地域におびき出され、呉軍本隊が現れ首都に向かうとの情報で急遽転進してきたため、戦場に到着したときには強行軍の連続で既に疲弊しきっていた。3万の呉軍は20万の楚軍を大いに破り、さらに進撃して5戦5勝し、10日のうちに楚の王都・郢城を陥落させて楚の昭王を逃亡させる。強国・楚の大軍を寡兵で破ったこの戦いにより孫武の名は中原に轟いた。
 その後、楚の臣の申包胥が秦に逃亡し、彼の策によって秦が呉国を攻めたため、呉軍はやむなく楚から撤退した。 以後、呉は北方の斉,晋を威圧して諸侯の間にその名を知らしめたが、それらの功績は孫武の働きによるところが大きかった。
 前496年、闔閭は孫武の意見を容れず、越を攻めたが苦戦に陥り、闔閭は敵の矢による負傷が悪化して死亡した。孫武は伍子胥とともに太子の夫差を補佐して国力を養い、のちに呉は夫椒で越を大敗させ雪辱を果たした。
 孫武の後半生については記録が残っていない。『呉越春秋』によれば、孫武は讒言する者があって辞職を願い出たといい、以後の呉国に関する史書からは、孫武に関する記述が途絶える。その後、夫差は次第に慢心するようになり、讒言によって孫武の莫逆の友であった伍子胥に、剣を賜り自決させる。孫武もまた誅殺されたとも、隠棲して実戦経験をもとに『孫子兵法』の改良に取り組んだとも言うが、何れも伝承の域をでない。
 孫武の墓もはっきりしていない。蘇州の北にある陵墓が孫武のものであるという説もあるが確定していない。

 中国後漢末期の武将。廟号は始祖、諡号は武烈皇帝。
 熹平元年(172年)、孫堅が17歳の時、立ち寄った銭唐県において海賊が略奪を行なっている状況に遭遇したため、それを見た孫堅は一計を案じた。見晴らしの良い位置に立ち、あたかも大軍の指揮を執って海賊を包囲殲滅するかのような身振りをしたのである。それを見た海賊たちは大軍が攻めてくるものと勘違いし、我先にと逃げ出してしまった。この件で孫堅は有名となり役所に召されて仮の尉(警察・軍事担当)となった。172年から174年にかけて会稽郡で起こった許昌の乱を鎮圧した後、孫堅はその功績により揚州刺史の臧旻によって上奏され、塩瀆県丞に任命される。数年後、盱眙県丞や後の下邳県丞に転任した。
 光和7年(184年)、太平道の張角によって勃発した宗教的な反乱である黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、家族を九江の郡治寿春県に残した。黄巾の渠帥波才撃破に一役買っている。朱儁が汝南・潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげていった。宛城の攻略においては、孫堅自ら先頭に立って城壁を登り、西南方面の官軍の指揮を執り大勝利を収めている。この功績により、別部司馬となった。
 中平3年(186年)、涼州で辺章と韓遂が起こした反乱の鎮圧に向かう。当初、反乱鎮圧には中郎将の董卓があたっていたが、情勢は芳しくなかった。そこで董卓に代わり、司空の張温が指揮を執り、孫堅はその参軍として従軍した。董卓の度々の軍規違反に立腹した孫堅は、董卓を処刑するように張温に進言するが、涼州での行動に際して董卓の力が必要と判断した張温はそれを退けるが、後日、董卓はこの事を漏れ聞き、張温と孫堅を深く憎むようになった。
 孫堅は荊州南部で起こった区星の反乱鎮圧の命を受け、長沙に太守として赴任して、様々な計略を用いて、この反乱を鎮圧した。区星の反乱を援助していた零陵や桂陽の二郡にも進出して、反乱を鎮圧した。このように、各地で人材を手に入れ、転戦して実戦経験も十分に積んだ孫堅の軍団は、やがて軍閥化した。
 この頃、洛陽では董卓が実権を握った。永漢元年(189年)、董卓は少帝を廃位し、献帝を擁立、張温を占いの結果の吉凶にかこつけて殺害するなどの横暴を行った董卓に対し、初平元年(190年)、袁紹を中心として諸侯が董卓を討つべく挙兵した。孫堅もこれに応じて挙兵した。孫堅はまず、長沙から北上して荊州を通過した。この時、董卓への反意を表明していたものの、自らに対して日頃から侮辱的な扱いをしてきた上司・荊州刺史王叡を殺害した。次に前進して南陽太守の張咨の元を訪れ、これも自分にとって禍になるとみて殺害した。さらに前進して魯陽の袁術に謁見したところ、袁術は上表して孫堅に破虜将軍代行,豫州刺史を領させた。
 この後、自軍に損害が出ることを嫌う諸侯が董卓軍とまともに争わない一方で、曹操や孫堅が指揮を執る軍団は董卓軍とぶつかりあっていた。曹操軍が董卓配下の徐栄軍に敗れ、孫堅軍もやはり徐栄に敗れたが、曹操が兵を補充し戦線を離れたのに対して、孫堅は袁術の支援もあって即座に再起し董卓軍に挑み続け、初平2年(191年)の陽人の戦いで孫堅は敗残兵を集めて、梁県の陽人に駐屯した。董卓は大督護の胡軫・騎督の呂布を派遣して、陽人の孫堅を攻撃させた。しかし呂布と胡軫は仲が悪く、二人配下の兵士は慌てて逃げたが、孫堅は部隊を指揮して追撃し、呂布と胡軫を敗走させた。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし、李傕を使者に立てて懐柔しようと計るが、孫堅はこれを断った。孫堅は出撃して大いに董卓を破り、董卓軍の都尉華雄を討ち取った。董卓は遷都を決断し、洛陽の町を焼き払って長安へ逃れた。孫堅は洛陽に入った。宝物を奪い取っていたが、孫堅は董卓によって荒らされた陵墓を修復し、再び魯陽の袁術のもとに帰還した。
 孫堅は豫州刺史であったが、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣したため、孫堅と袁術は周喁,周昂,周昕と豫州を奪い合うこととなった。これにより袁術と袁紹の対立は決定的となり、反董卓連合軍は事実上瓦解し、諸群雄は袁紹と袁術の争いを中心とした群雄割拠の様相を呈しだした。孫堅と袁術は周喁,周昕を敗走させた。
 初平2年(191年)、袁術は孫堅を使って襄陽の劉表を攻めさせた。孫堅は劉表配下の黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲した。しかし、襄陽近辺の峴山に孫堅が一人でいるときに、黄祖の部下に射殺されてしまう(襄陽の戦い)。享年37。
 桓階が孫堅の遺体を劉表から取り戻した。孫堅軍は瓦解し、兄の子の孫賁はその軍勢を引き継ぎ、孫堅の棺を曲阿に送り届けた。後に寿春に移った袁術の傘下となった。
 黄龍元年(229年)、皇帝となった次男・孫権は、後に父・孫堅の廟を長沙に、長兄・孫策の廟を建業に建てた。 

孫 権 孫 亮

 光和5年(182年)、孫堅が下邳県丞であった時、5男53女の第4子(次男)として生まれた。
 光和7年(184年)、黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦、孫権と母の呉氏や兄弟たちを九江郡寿春県に残した。中平6年(189年)、一家は廬江郡舒県の周瑜屋敷に移住した。初平2年(191年)、孫堅が黄祖の部下に射殺された(襄陽の戦い)後、兄の孫策とともに亡父の主君である袁術の下に移された。初平4年(193年)には家族は曲阿に移る。その後、歴陽や後の阜陵に移住し再び、曲阿に入った。
 建安元年(196年)、15歳にして出仕し、陽羡県令に任じられた。孫策から可愛がられており、士人の人望も厚かった。孫堅が亡くなったばかりの頃および、孫策が江東で自立する時代に、常に孫策に随従した。また計略や謀議があるたびに参画した。孫策は賓客たちとの宴会の時、孫権を顧み「この諸君があなたの将である」と言ったという逸話がある。
 建安5年(200年)初、孫策の死を受け、春には19歳で孫策の遺命を受けて家督を継いだ。張昭に師傅の礼を執り、父や兄から引き継いだ家臣の周瑜,朱治,程普,呂範らをまとめあげると積極的な人材登用を行い、周瑜から皇帝としての資質を認められ、魯粛を薦められた。その後も陸遜,諸葛瑾,歩騭,顧雍,是儀,厳畯,呂岱,徐盛,朱桓,駱統らを登用した。
 家督を継いだ当初は種々の困難に見舞われた。やがて、曹操の軍勢が勢力を拡大し、孫権の治める呉の辺りに矛先を向けてきた。孫権勢力の内部では抗戦派と降伏派で激しく対立したが、南部で曹操から追われていた劉備の軍勢と連合軍を結成して曹操を迎え撃つことにした。
 建安13年(208年)、赤壁の戦いにおいて、孫権・劉備の連合軍は曹操軍に勝利し曹操の天下統一を阻止、その後、曹操,劉備,孫権の三つの勢力で国を分立支配する三国鼎立の時代となる。
 その後、荊州の領有を巡って今度は劉備と対立するが、曹操の後を継いで魏を治める文帝・曹丕と同盟を組み、建安24年(219年)に劉備の盟友・関羽を討ち取り、建安27年(222年)には夷陵の戦いで劉備軍に勝利を収めることで、孫権は荊州の領有を確実なものとした。
 黄武8年(229年)、夏口,武昌で黄龍,鳳凰が見られたと報告があり、群臣一同が孫権に帝位に即くことを進言し、孫権は皇帝に即位し、元号を黄龍と改めた。孫権47歳のときである。蜀は呉との同盟関係を維持することに決め、帝位を認め、呉への二帝並尊を申し出てた。陳震を派遣して武昌において孫権と会盟し、天下を分配することを誓約し合った。その後、建業に遷都した。
 孫権は孫和・孫覇兄弟の不仲を聞いて、両者の権力を廃止し対立両派を排して孫亮を太子に立て、後継者の君主権強化を目指していた(二宮事件)。神鳳元年(252年)4月25日、危篤になると、諸葛恪,呂拠,孫弘,孫峻,滕胤らに後事を託し、翌日、71歳で崩御した。「大皇帝」と諡された。同年7月、蔣陵に葬られた。陵墓は南京(建業)東の梅花山にある。

 

詳細は、Wikipedia(孫権)を参照  

 呉の第2代皇帝。廃立後は会稽王・侯官侯。少帝と呼ばれることがある。
 赤烏6年(243年)、孫権と寵妃・潘淑との間の子として建業宮内殿で生まれた。最年少の子であったため、孫権に特に可愛がられた。長姉である全公主は、三兄の孫和の生母である王夫人と不仲であったため、孫和の廃嫡を目論み、孫権に王氏と孫和のことを讒言する一方で、四兄の孫覇を後継者にするよう運動した。こうして呉の群臣たちが孫和派と孫覇派に分かれて闘争する二宮事件が勃発した。赤烏13年(250年)8月、両派を収拾するため、孫権は孫和を廃立し、孫覇も自殺させた。11月、新たな皇太子として孫亮が擁立された。
 太元元年(251年)夏、母が孫権の皇后になると、嫡出子の地位を確立した。同年12月、病気が重くなった孫権は、諸葛恪を呼び寄せて太子・太傅に任じ、さらに滕胤を太常に任じて孫亮の輔佐に当たらせた。孫亮は幼い頃から聡明で成人並みの判断力があり、皇太子として傅相に対して礼を尽くし、大臣の敬意を得た。
 神鳳元年(252年)、2月に潘皇后が暗殺され、4月に孫権が崩御した。孫亮が皇帝に即位、大赦を実行し建興と改元した。
 同年閏4月、諸葛恪が太傅になり、滕胤を衛将軍に任命して、尚書の職務を兼任させた。また呂岱を大司馬に任命した。同時に文武百官の爵位を進めて恩賞を与え、等級も引き上げた。同年10月、孫権の死に乗じて魏が南下を開始した。諸葛恪は巣湖に向かい魏の侵攻を押し止め、東興を築城した上で、全端,留略にそれぞれ西城,東城を守らせた。
 魏は歩兵・騎兵15万を率いて東興を包囲し、さらに同時に南郡,武昌にも攻撃を加えてきた。12月19日、諸葛恪は大軍を率いて魏軍の迎撃に向かい、12月23日、東興において魏軍を破った(東興の戦い)。翌年正月5日、南郡と武昌を攻撃していた魏軍も東興での敗戦を知って撤退した。同年2月、東興から軍が帰還し、盛大に論功行賞を執り行った。諸葛恪はもともと驕慢な性格であったが、敗戦後、人事を専断するなどその専横ぶりがますますひどくなった。
 同年10月、大饗の礼の宴席で、孫峻はクーデターを起こし、宮殿で諸葛恪を殺害し専横を極めていた諸葛恪一派を一掃した。孫峻が丞相,富春侯に任命された。
 諸葛恪の死後も、結局は孫峻が専横を極めただけで、多くの者が不満を懐いたという。五鳳元年(254年)秋、孫英によって孫峻暗殺計画が立てられたが、この事件は未然に発覚し孫英は自殺した。五鳳2年(255年)>7月にも孫儀,張怡,林恂らが孫峻暗殺を計画したが発覚し、孫儀は自殺、林恂らは処刑された。
 太平元年(256年)、孫峻は文欽の策により、魏の征伐を計画し、8月、先遣隊として文欽,呂拠,劉纂,朱異,唐咨の軍を動員し、江都から淮水・泗水の流域に侵攻させた。だが9月14日、孫峻は急死し、その従弟の孫綝が侍中・武衛将軍・領中外諸軍事に任命された。
 孫綝は、孫峻の権力を継承すると、呂拠らに帰還命令を出したが、呂拠は孫綝の権力継承に大きく不満を懐いた。呂拠,文欽,唐咨は上奏し、滕胤を丞相とするよう推薦したが、孫綝はこれを拒否、9月30日、孫綝は滕胤を大司馬に転任させて武昌に赴かせた。呂拠らは軍を戻し、帰還して孫綝を討とうとしたが、孫綝は文欽と唐咨に詔書を送り、10月、孫憲,丁奉,施寛らを派遣し江都で呂拠を迎え撃たせた。呂拠は謀反人となることを恥じて自害し一族は皆殺しとなった。また、滕胤に対しては将軍の劉丞を送って歩兵騎兵を指揮し攻撃させた。滕胤は敗れて一族皆殺しとなった。
 同年11月、孫綝は大将軍に任命され、仮節・永寧侯となった。孫憲は将軍の王惇と図り孫綝の暗殺を謀ったが発覚し、王惇は殺害され、孫憲は自殺した。12月、五官中郎将の刁玄を使者として蜀漢に送り、反乱鎮圧を報告した。
 太平2年(257年)4月、孫亮は正殿に出御し、大赦を実行して自ら政務を執った。孫亮はしばしば宮を出て中書にて孫権の旧事を目にし、先帝にはしばしば自ら詔を書いたのに、今は大将軍が事を計り、ただ私が“可”と書いて命じるだけではないか、と左右の侍臣に尋ねたという。
 やがて、孫亮は孫綝の専横に業を煮やし、全尚,全公主,将軍の劉丞らと謀り、孫綝を誅殺しようと計画した。孫亮は黄門侍郎の全紀(全尚の子)を召して密かに謀り事をした。しかし、浅はかにも全尚は、孫綝の従姉である妻に話してしまう。妻は人を遣わして孫綝に密告した。孫亮側の動きを事前に察知した孫綝が、同年9月26日に先手を打ってクーデターを起こしたことで、謀略は失敗に終わった。劉丞は殺され、全尚も屋敷で包囲され零陵に流罪、さらに全公主も流罪となった。
 クーデターに成功した孫綝は宮廷の門外に大臣を集めると、「少帝は精神疾病を患った。社稷を継ぐことは不可能である」と宣言し、従わない態度を示した桓彝はその場で殺害され、大臣から反対の声を押し切り、孫亮を廃位し会稽王に落とした。孫亮は16歳であった。
 新たな皇帝には、孫綝によって孫亮の異母兄の孫休が擁立された。孫休はまもなく孫綝を打倒して親政を開始した。永安3年(260年)、会稽王である孫亮が再び皇帝になるだろうという流言があり、孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという告発があった。孫休は孫亮を侯官侯に降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺した。孫亮の死に関し、孫休による毒殺であったという記録もある。
 呉の滅亡後の太康年間、呉の少府である戴顕は孫亮の喪を願い出て、その遺体を迎え頼郷に改葬した。

孫 休 孫 晧

 呉の第3代皇帝。生母の王夫人(敬懐皇后)は南陽出身で、嘉禾4年(235年)に孫休を産んだという。孫休は13歳のとき、中書郎の謝慈と郎中の盛沖より学問を授かった。
 太元2年(252年)正月、孫休は琅邪王に封じられ、虎林に居住した。同年4月に父の孫権が崩御し、皇太子である弟の孫亮が皇帝となり、孫亮の補佐役となった諸葛恪が政治の実権を握った。孫休ら諸王は、長江沿いの戦略上の要地にそれぞれが配置されていたが、諸葛恪はこれを嫌ったため、孫休は丹陽郡に移住することになった。
 丹陽太守の李衡は、孫休をしばしば圧迫するような態度をとったため、孫休は、勅を得て会稽郡に移住した。そこでの生活は数年間にわたった。同地の太守の濮陽興とはこのときに親しくなったという。また、あるとき、龍に乗って天に昇ったが、振り返ると尻尾がない、という夢を見たという。
 太元3年(258年)9月、孫亮が朝廷の実権を握る孫綝と対立し廃位され、代わりに孫休が皇帝に擁立された。同年9月27日、孫綝よりの迎えの使者として宗正の孫楷と中書郎の董朝が派遣されてきた。孫休は陰謀があるのではと疑ったが、孫楷と董朝に説得され、1日2晩迷った末に都に向かった。同年10月17日、曲阿にて1人の老人が目通りを願い出てきて、遅延すると変事が起こる、天下は孫休を待ち望んでいるであるから急ぐべし、ということを叩頭して述べた。孫休はこの言葉を善しとして都に急ぎ、その日には布塞亭にまですすんだ。同年10月18日、永昌亭に達した。そこでは丞相代行の武衛将軍の孫恩が百官を率いて孫休を待っており、天子の乗り物や宮居・殿場が用意されていた。孫休は孫楷を使者に送り孫恩と面会させ、孫楷が戻ると天子の乗り物に乗って百官の臣下の礼を受けた。孫休は殿場に着いた後も謙譲して御座に着かず、東のわき部屋で待機していた。戸曹尚書が孫休に皇帝としての礼をとるよう勧め璽符を奉ってきた。孫休は三度辞退し、群臣らの三度勧められて、初めて皇帝としての礼をとった。孫休が天子の乗り物にのって、百官を引き連れてくると、孫綝は1000の兵士を率いてこれを出迎え、都の外で拝礼した。孫休は車から降りて答礼したという。その日のうちに正殿に入り、年号を永安に改元した。
 永安元年(258年)冬10月21日、孫休は詔を出し、孫綝,孫恩,孫拠を昇進させた。さらに古くからの恩人の張布や使者として功労があった董朝を昇進させたり列侯したりした。また、丹陽太守の李衡がかつての振る舞いを罪として自らを縛って出頭してきたため、別に詔を出し李衡を釈放させ、郡に戻らせた。
 王蕃,薛瑩,虞汜,賀邵を散騎中常侍に任命し、皆に駙馬都尉を加えた。この人事は好評であったという。同年10月28日、孫晧を烏程侯に封じ、その弟の孫徳を銭唐侯、孫謙を永安侯に封じた。
 孫休は皇后と太子を立てることを勧められたが、今はまだそのときでないとしてこれを辞退したという。また、生母の王氏を追尊し、敬懐皇后の諡号を贈って敬陵に改葬し、王氏の同母弟の王文雍を亭侯に封じた。
 孫綝の一門からは5人の侯が出て、それぞれが近衛兵を率いており、権勢は主君の孫休をも凌いでいた。孫綝等に反対する者もおらず、ますます増長した。孫休は孫綝らが変事を出すことを恐れ、何度も恩賞を与えた。
 あるとき、孫休は孫綝からの贈り物を拒絶したことがあった。孫綝はこれを恨みに思い、酒席で張布に対して孫休の廃立を口にした。張布はこのことを孫休に伝えた。孫休は孫綝がクーデターを計画していると聞くと、張布,丁奉らと図って対策を練った。そして、同年12月8日、先祖の祭のために百官と公卿らが集まった場で、孫綝を誅殺し、その日のうちに死刑とし、一族もことごとく滅ぼした。同時に、孫綝のために不慮の死を遂げた諸葛恪,滕胤,呂拠らの名誉は回復された。同年12月9日、孫休は詔を出し、左将軍・張布の功績を賞して中軍督を加官し、その弟2人も武官に取り立てた。
 皇帝権力を取り戻した孫休は詔により教育を充実させる方針を表明し、五経博士を設置し、現在の官吏である者や部将,官吏の子弟たちの中から、学問を好む者を選抜して五経博士の授業を受けさせた。1年毎に試験を受けさせ、成績をランクづけし、それにより官位や恩賞を与えた。永安2年(260年)3月、九卿の官が完備すると、孫休は詔を出し、武より文を重視し、農耕を盛んにするという政策を表明した。
 会稽郡において、先帝の会稽王の孫亮が、再び皇帝になるだろうという流言があった。また、孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという内部告発があった。そのため、孫休は孫亮を侯官侯に位を降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺したため、孫休は護送の役人を処刑した。一説には孫休による毒殺であったともいう。
 永安4年(261年)8月、孫休は光禄大夫の周奕と石偉に命じて国の各地の風俗を調査させて、役人・将軍が清潔な政治を行っているか、民衆が何に苦しんでいるかなどを調べた。それに基づいて地方の役人の昇進・左遷を命じる詔を下した。
 永安5年(262年)8月16日、夫人の朱氏を皇后とした。同月19日、子の孫𩅦を太子とし大赦を実行した。冬10月、衛将軍の濮陽興を丞相に任命した。
 孫休は学問を好み、諸子百家の書を全て読み尽くすほどの勢いであった。孫休は学問や雉狩りに夢中になり、次第に朝政から距離を置き、古くからの知人である丞相・濮陽興と左将軍・張布が朝政を掌握するようになっていった。
 張布は孫休の厚遇をいいことに、国権を専断して、礼に外れる行動をとることが多くなった。あるとき、孫休は博士祭酒の韋昭や博士の盛沖を招いて道理や学芸について議論をしようとしたが、自分の過失や専断が暴露されることを恐れた張布の反対にあった。孫休は張布のよからぬ振る舞いについて既に知っており不愉快でもあったが、古くからの知人である張布に対し、軽くたしなめる程度に留め、張布の望むとおりにしてやり、博士を招いての書物の解釈談義は取りやめとなった。
 同年冬10月、蜀漢から、魏の攻撃を受けているという連絡が入った。11月22日、蜀を救援するため、大将軍の丁奉に魏の寿春を攻撃させると共に、将軍の留平を南郡の施績の元に派遣し、軍をどの方向に出すべきかを検討させた。丁封と孫異には漢水流域に軍を進めさせた。しかし、蜀の劉禅が降伏したという知らせが入り、これらの軍事行動のすべてが中止された。
 永安7年(264年)7月25日、孫休は崩御した。一説によると、その死の直前に孫休は口を利けなくなり、字を書いて丞相の濮陽興を呼び、子の孫𩅦に濮陽興の前で拝礼させ、自ら腕をとって後事を託して崩御したという。

 呉の第4代皇帝。父は孫権の第3子で皇太子に立てられたが廃された南陽王・孫和。
 赤烏5年(242年)、孫和の長男として生まれると孫権は喜び、彭祖という名前を与えた。第2代皇帝の孫亮の時代である建興2年(253年)、廃立後に長沙に押し込まれていた孫和は孫峻と全公主(孫魯班)のために新都郡に強制移住となった上、自殺を命じられた。孫和とその正妻の張妃は自殺し、孫晧は異母弟たちと生母の何氏に育てられた。
 永安元年(258年)、第3代皇帝の孫休が即位すると、孫晧は烏程侯に封じられ、滕牧の娘の滕芳蘭と結婚し任国に赴いた。西湖の平民の景養が孫晧の人相を占ったところ、高貴の人物になる相であるという結果を得たため、孫晧は密かに喜んだ。
 永安7年(264年)7月25日、孫休が死去した。当時の呉は前年に盟友の蜀が魏の侵攻により滅亡し、かつ交阯が魏に離反しているなど厳しい情勢にあり、立派な指導者を必要としていた。かつて烏程県令であり孫晧とも親しかった左典軍の万彧は孫晧を称賛し、孫休の側近であった丞相の濮陽興と左将軍の張布に働きかけた。濮陽興と張布は孫晧を皇帝にする旨を朱太后(孫休の皇后で朱拠の娘)に述べたところ、朱太后の承諾を得た。こうして孫晧は23歳で皇帝に即位した。元興と改元し大赦を行った。
 元興元年(264年)8月、上大将軍の施績と大将軍の丁奉を左右の大司馬に任命した。張布を驃騎将軍に任命し、侍中を加官した。その他、多くの人達の位階が進み、恩賞が賜与された。9月、父の孫和に諡号を与えて文皇帝とし、生母の何氏の位を上げて太后とした。10月、孫休の4人の子のうち、太子であった孫𩅦を豫章王に、その弟らを汝南王,梁王,陳王に封じた。妃の滕芳蘭を皇后とした。
 孫晧は帝位に就いた当初は、人民を哀れみ、官の倉庫を開いて貧民を救ったり、官女を解放して妻のない者に娶わせたり、御苑を開いて鳥獣を解放するなどの政治を行い、明君と称されたこともあるというが、やがて粗暴で驕慢な人物となり、かつ小心で猜疑心が強く、酒と女を好むといった風であったため、地位のある者もない者も皆失望したという。濮陽興と張布は孫晧を皇帝にしたことを後悔したが、そのことを孫晧に讒言する者があり、11月になって濮陽興と張布は誅殺された。
 甘露元年(265年)7月、孫晧は景皇后の朱氏を迫害し死においやった。また、孫休の4人の子を捕らえて呉の小城に閉じ込め、年長の2人を殺害した。9月、西陵督である歩闡の上表により、武昌へ遷都した。孫晧は武昌に至ると、大赦を実行した。零陵郡の南部を分割して始安郡を設置し、桂陽郡の南部を分割して始興郡を設置した。
 12月、魏が禅譲により滅亡し、晋が成立した。
 宝鼎元年(266年)冬10月、永安の山賊の施但らが数千人の徒党を集めて、孫晧の異母弟である永安侯孫謙を脅迫して烏程まで進み、孫和の陵にあった楽器や曲蓋を奪い取った。施但らが建業にまで至ったときは徒党の数は数万人に膨れ上がっていた。丁固と諸葛靚は施但らと牛屯で激しく戦い、施但らを敗走させ、孫謙の身柄を取り戻したが、孫謙は自害した。
 12月、孫晧は都を建業に戻し、衛将軍の滕牧を武昌の守備に置いた。
 宝鼎2年(267年)夏6月、顕明宮を建て、冬12月、孫晧は顕明宮に移ってここに起居した。建衡元年(269年)春正月、子の孫瑾を太子に立て、他の2人を淮陽王と東平王に封じた。冬10月、建衡と改元。
 鳳凰3年(274年)、会稽郡で、孫晧は既に亡くなっており、章安侯・孫奮が天子になるであろうという妖言が流行った。臨海太守の奚熙は会稽太守の郭誕に書を送り、国政を非難した。郭誕は奚熙の書については報告したが、妖言については報告しなかったため、建安郡に送られ船作りに従事させられた。三郡督の何植を送り奚熙を捕らえさせようとしたが、奚熙は兵士を集めて守りを固め通路を絶った。奚熙は配下の兵士に殺され、首を建業に送られ、三族皆殺しとなった。
 天璽元年(276年)8月、京下督の孫楷が晋に降伏した。
 天紀3年(279年)冬、晋が呉に侵攻してきた。交州に向かっていた陶濬の軍は武昌に留まった。
 天紀4年(280年)春、中山王・代王など11の王を立てて大赦を実行した。晋の侵攻軍には各地で大敗し、張悌ら多くの者が戦死した。殿中の親近の者数百人が、孫晧の寵臣の岑昏を殺すことを願い出てきた。孫晧はそれを止めることはできなかった。武昌から建業に戻った陶濬は最後の抵抗を願い出てきたが、出撃の前日に兵士が皆逃亡してしまった。晋軍が迫っている中、孫晧は光禄勲の薛瑩と中書令の胡沖の勧めで晋への降伏を決め、王濬,司馬伷,王渾のそれぞれに降伏の書簡を送った。
 真っ先に建業にたどり着いた王濬を、孫晧は自らを縛って棺を持参して出迎えたが、王濬は縄をほどき棺を焼き捨てて孫晧を本陣に招いて面会した。孫晧から印綬を受け取っていた司馬伷は孫晧の身柄を自分の部下により晋の都に護送させた。孫晧は一族を引き連れて西方に向かい、太康元年(280年)5月1日に都に到達した。4月4日、晋の武帝(司馬炎)は詔勅を出し、孫晧を帰命侯に封じた。太子であった孫瑾は中郎に任命され、子の内で王に封じられていたものについては郎中に任命した。
 太康5年(284年)12月、孫晧は洛陽で死去した。42歳であった。河南県邙山において葬られた。
 孫氏一族はその後も、西晋に仕え続けたが、以前に西晋へ亡命した孫秀は伏波将軍に降格され、孫楷は度遼将軍に降格された。この後の西晋の末年でも活躍した。孫晧の子の孫充は、八王の乱に際して反乱軍から呉王に祭り上げられた後に殺された。同族の孫拯は陸機の下で司馬に任じられたが、陸機の冤罪を訴え続けたため、陸機とともに三族皆殺しとなった。孫恵は司馬冏,司馬穎,司馬越に仕え、永嘉の乱に懐帝を皇帝に擁立したため県公に封ぜられた。東晋の時代では、孫晧の子の孫璠は東晋の元帝に対して謀反を起こしたが、鎮圧され殺された。一族の孫晷も地元の名士として知られていた。
 呉の滅亡後、人民は呉を懐かしむ一方で、西晋に憎しみを抱くようになる。中原王朝としての西晋は10余年後に滅亡した。