中国(呉王朝)渡来系

CHN6:呉王朝  呉王朝 ― 蜂田末武/身狭 青 HC01:蜂田末武/身狭 青

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蜂田虎身 蜂田古爾比売

 飛鳥時代の河内国大鳥郡の人。姓は首。奈良時代の僧・行基の祖父にあたる。
 行基の骨を納めた瓶に刻まれた『大僧上舎利瓶記』によってのみ知られる人物である。それによれば、行基の母は蜂田古爾比売といい、蜂田虎身の長女であった。
 行基は自らの生家(虎身の家)を仏閣にして家原寺としたと伝えられる。

 飛鳥時代の河内国大鳥郡蜂田郷の人で、高志才智を夫とし、天智天皇7年(668年)に僧・行基を生んだ。当時一般的だった妻問い婚・招婿婚により、才智が古爾比売の蜂田家に通い、そこで行基が生まれたと考えられる。
 古爾比売の事績については知られることはない。修行を終えた行基は、慶雲元年(704年)に自宅を仏閣にした。後の家原寺である。慶雲2年(705年)から古爾比売は、山林修行を終えた行基に導かれて佐紀堂(現在の奈良県奈良市佐紀町)に住んだ。慶雲4年(707年)からは生馬仙房(生駒山の家)に移り、和銅3年(710年)に亡くなるまで行基とともに住んだ。
 行基は母の死後も和銅5年(712年)まで生馬仙房(草野仙房とも)にとどまり、喪に服し質素な生活をした。。後に行基が葬られた竹林寺の前身である。

深根輔仁 身狭 青
 平安中期、醍醐天皇に仕えた世襲侍医、医博士。本姓は蜂田薬師。医を業としたので薬師を名乗ったが、仁明天皇の承和1(834)年に深根宿禰の姓を賜った。輔仁は深根宗継を祖父とし、典薬頭・菅原行貞の門徒として右衛門医師より権医博士,大医博士に累進し、名医として知られた。延喜18(918)年頃、勅命でわが国最古の漢和薬名辞書『本草和名』を選している。本書は唐以前の30余書を引用、目次の配列は唐の『新修本草』に拠り、1025種の品目は本草薬物および玉石,禽獣虫魚,穀類など9類に分け、薬物の漢名の下に万葉仮名で和名の対訳を施し、出典を考証した古代の重要文献である。このほかにも『養生鈔』『掌中要方』などがある。

 身狭氏は、『新撰姓氏録』左京諸藩下に「牟佐村主」とあり、呉の孫権の子孫で仁徳天皇の御世に渡来し、大和国檜隈に居住したという。
 青は渡来氏族身狭氏の出自であり、史部としての知識,技能を認められ、外交面での活躍の場を与えられたとみられる。雄略天皇の側近として重用され、史部として仕えた。雄略天皇8年(464年)、檜隈民使博徳とともに呉国(華南)に派遣された。派遣の目的は、雄略天皇が即位してから新羅が苞苴を奉らなかったことを責めたものであった。畏れをなした新羅国王は、高麗(高句麗)に誼を通じ、高麗兵が100人新羅防衛のために送られてきた。しかし、ほどなくしてそれがまやかしのものだとわかり、新羅王は国内の高麗人を皆殺しにした。結果、新羅・高麗間で戦争が起こり、新羅は任那(加羅)の王を介して任那日本府に援軍を頼み、膳斑鳩らの率いる軍が高麗軍を破った、とある。
 10年9月には、呉から献上された2羽の鵞鳥を運んで、筑紫国に至ったが、この鵞鳥は水間君の犬によって食い殺されてしまった。12年にも博徳とともに、呉に派遣された。2年後に帰国し、「手末の手伎」である漢織,呉織,衣縫の兄媛,弟媛などの技術者を招来した。ただし、青は雄略朝の史部、文筆に携わった人で、中国南朝の宋王朝、『日本書紀』のいう呉国に使者として赴いたと伝えられており、雄略天皇が目指していた政治体制を考える上で示唆に富むが、青は対呉外交において知ることができるだけであるが、『日本書紀』雄略紀の対呉外交と倭の五王外交を記した『宋書』倭国伝の遣使年次との間に対応関係は認められず、『日本書紀』は『宋書』関係記事をまったく参照していないことになり、『日本書紀』雄略紀の遣使の史実性と意味が問われる。 「青」「博徳」ともに、日本風の名前ではなく、大陸への使者に任じられているところから、帰化後まもない世代であり、倭王・武の上表文に記された四六駢儷体の漢文の筆者と関係があることが推定される。