飛鳥時代の学者。名は黒麻呂とも記される。姓は漢人のち史。冠位は大錦上。 高向氏(高向村主,高向史)は応神朝に阿知王と共に渡来した七姓漢人の一つ段姓夫(または尖か)公の後裔で、魏の曹丕(文帝)の末裔を称する渡来系氏族。一説では東漢氏の一族とする。高向の名称は河内国錦部郡高向村の地名に由来する。 遣隋使・小野妹子に同行する留学生として聖徳太子が選んだと伝えられており、推古天皇16年(608年)に南淵請安や旻らと共に隋へ留学する。舒明天皇12年(640年)に30年以上にわたる留学を終えて、南淵請安や百済・新羅の朝貢使と共に新羅経由で帰国し、冠位一級を与えられた。 皇極天皇4年(645年)の乙巳の変後、旻と共に新政府の国博士に任じられる。大化2年(646年)遣新羅使として新羅に赴き、新羅から任那への調を廃止させる代わりに、新羅から人質を差し出させる外交交渉を取りまとめ、翌647年(大化3年)に新羅王子・金春秋を伴って帰国し、金春秋は人質として日本に留まることとなった(この時の玄理の冠位は小徳)。大化5年(649年)に八省百官を定めた。白雉5年(654年)、遣唐使の押使として唐に赴くこととなり、新羅道経由で莱州に到着し、長安に至って3代目皇帝・高宗に謁見するものの病気になり客死した。
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雄略朝の史部、文筆に携わった人で、中国南朝の宋王朝、『日本書紀』のいう呉国に使者として、二度にわたって赴いたと伝えられている中国系渡来人。 「檜隈民使」は神亀3年(726年)『山背国計帳』に「檜隈民使首」が見えるので、『新撰姓氏録』山城国諸蕃の漢系で、高向村主と同祖とされる「民使首」はその後裔にあたる可能性がある。「檜隈」は奈良県高市郡明日香村の地名であり、中国系渡来人が多数居住していたという高市郡に居を占めていたことになる。 雄略天皇は民からはとても評判の悪い天皇と評されたが、そのような中で天皇が寵愛したのは、身狭村主青と檜隈民使博徳らのみだったという。博徳は身狭青とともに雄略天皇の側近として重用され、史部としてつかえた。雄略天皇8年(464年?)と12年に青とともに呉国(華南)に派遣され、漢織,呉織らをつれて帰国したという。ただし、博徳は、呉国との外交交渉において知ることが出来るだけであるが、『日本書紀』雄略紀の遣使と倭の五王外交を記した『宋書』倭国伝の遣使年次の間に対応関係は認められず、『日本書紀』は『宋書』関係記事をまったく参照していないことになり、『日本書紀』雄略紀の遣使の史実性と意味が問われる。 「民使」は姓ではなく氏であり、博徳の身分が青よりも低く、姓を持てなかったことが推察される。「博徳」「青」ともに日本風の名前ではなく、帰化して間もない世代であり、倭王武の四六駢儷体で記された上表文の筆者と関係があることが想像される。
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