蜀漢王朝(三国時代)

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劉 備 劉 禅

 延熹4年(161年)、涿郡涿県(現在の河北省保定市涿州市)で誕生する。父は州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために、土豪の身分でありながら劉備の家は貧しく、母と共に筵を織って生計を立てていた。
 184年に黄巾の乱が発生すると、関羽,張飛,簡雍,田豫らと共に義勇軍を結成し、校尉の鄒靖に従って、その名を挙げ、その功により中山国安熹県の尉に任命された。
 初平2年(191年)には袁紹軍と戦い、戦功を立てて平原県の仮の令という地位を得、そののち平原国の相となった。
 興平元年(194年)、曹操が退いた後、豫州刺史に推挙された。
 建安12年(207年)、諸葛亮を三顧の礼にて迎え入れ、既に強大な勢力を築いている曹操に対抗するためには荊州と西の益州を手に入れて天下を三分割して、その一つの主となり、孫権と協力して曹操に立ち向かうべしという天下三分の計を説かれた。それに基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて、章武元年(221年)に皇帝に即位して蜀漢を建国した。その後の蜀,魏,呉による三国鼎立の時代を生じさせた。章武3年4月24日(223年6月10日)、白帝城にて死去。

 

詳細は、Wikipedia(劉備)参照

 蜀漢の第2代皇帝。魏に降伏したため、皇帝としての諡は本来ないが、漢の後継を称する劉淵によって諡を贈られた。
 章武3年(223年)、父の劉備の崩御に伴い17歳で皇帝に即位すると、諸葛亮らに政務を任せて国を守った。諸葛亮は蔣琬や費禕、李邵や他多くの人材を招聘して国力の安定をはかった。諸葛亮が死去した後、蜀漢の国力は徐々に衰えていた。そして姜維の相次ぐ北伐と256年の段谷の戦いでの大敗により、国力は大いに衰えた。また258年以降に宦官の黄皓が政治権力を握り、蜀漢の政治は大いに乱れた。
 蜀漢の国力が衰えたと考えた魏の大将軍の司馬昭と、その部下であった鍾会は蜀漢を制圧できると考えて、益州の地形を調査し状勢を検討し、討伐の計画を練った。
 炎興元年(263年)に魏の軍勢が蜀に大規模な攻勢をかけると、姜維は援軍を求めた。しかし黄皓は敵が来ないという占いを劉禅に信じさせたため、防衛は後手に回り、進軍してきた魏軍に対する抵抗の手段を失い、南方か呉への逃亡を図ろうとしたが、結局は降伏した。劉禅は、降伏するときの仕来りに則り、自らの身を縛りあげ棺を担いだ姿で、自ら魏軍の鄧艾の元を訪れたという。このとき5男の北地王・劉諶が抗議で一家心中している。また、魏の将軍に略取されそうになった愛妾の李昭儀が自害したという。
 景元5年(264年)、魏軍内紛の際に姜維より蜀再興の手紙を渡されたというが、結局反乱は失敗し、このとき姜維ら旧臣の多くと太子の劉璿を失った。劉禅は生き残った子たちと共に洛陽に移送された。伴をした家臣は郤正などわずかな者だけであったといわれる。
 その後、先祖代々の土地である幽州の安楽県で安楽公に封じられた。長男の劉璿には先立たれていたため、後継者を決めることになったが、次男の劉瑤を差し置いて、6男の劉恂を後継にしようとしたため、旧臣の文立に諌められた。泰始7年(271年)に65歳で死去した。西晋によって、思公と諡された。
 安楽公を継いだ劉恂は、道義を失う振る舞いを度々行い、最後は永嘉の乱に巻き込まれ、劉恂も含めて一族皆殺しにされた。そのため、劉禅の直系子孫は断絶することとなった。弟の劉永の孫(劉禅の従孫)の劉玄だけが生き延びて、成漢を頼ったという。