<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

AB03:安倍泰親  阿倍阿加古 ― 安倍兄雄 ― 安倍泰親 ― 安倍泰茂 AB03:安倍泰茂

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安倍有世

 安倍晴明以来、陰陽道で知られた安倍氏も南北朝時代には幾つかの家系に分裂して、いずれもが安倍氏の嫡流を名乗って「宗家」争いを続けていた。18歳で大炊権頭となった有世は、早くから家業である陰陽道においてその才能を花開かせた。28歳の時、後光厳天皇の大嘗祭において、安倍一族の祖である古代阿倍氏から伝わる由緒ある吉志舞の奉行に命じられたのである。
 その後、有世は左京大夫に昇進して公務を行いつつ、己の技量を磨き続けた。そんな有世が52歳の時に一つの運命的な出会いを果たす。室町幕府3代将軍・足利義満のために祈祷を行ったところ、効果があったということで義満の個人的な信頼を得たのである。以後、義満は祈祷や占い事は必ず有世に依頼するようになった。室町時代に入っても公家社会は陰陽師による祈祷や占いの効用を深く信じていた。特に当時一流の陰陽師である有世の権威は相当なものがあった。
 有世と義満の出会いから1年後、有世は昇殿を許された。そして、弘和4年/永徳4年(1384年)、58歳の有世は従三位となり公卿となる。これは安倍氏では500年ぶりの出来事であり、長年の宗家争いは有世の圧勝として終止符が打たれた。元中8年/明徳2年(1391年)、都で地震が起こると、有世は義満にこの地震は「兵乱の兆し」であると告げた。そこで義満が密かに兵備を強化していると、間もなく明徳の乱の発生の知らせが入ったという。明徳5年(1394年)以後、義満は室町御所や北山山荘でこれまでは天皇が行うものとされた「五壇法」などの国家行事的な祈祷を有世に命じて専任して行わせるようになり、それは有世の薨去まで続いた。応永6年(1399年)に有世が義満のために占ったところ、再び兵乱の兆しがあるということで備えたところ、応永の乱の知らせが入ってきたという。義満が有世の予知を政治的に利用して反対勢力を討伐していった。
 以後、有世の子孫である土御門家が明治に至るまで日本の陰陽道のみならず天文・暦の世界を支配していくことになる。