AB04:安倍泰茂 | 阿倍阿加古 ― 安倍兄雄 ― 安倍泰親 ― 安倍泰茂 ― 土御門有宣 | AB05:土御門有宣 | ● |
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土御門有脩 | 土御門久脩 |
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天文11年(1542年)、戦乱が続き疲弊した京を離れ、所領の若狭国名田庄に退いていた有脩は陰陽頭としての職務を放棄していたため、同じく相模国の太守・北条氏綱を頼って下っていた賀茂氏系陰陽師の公卿・勘解由小路在富が陰陽頭の職務を代行するために京に呼び戻された。 |
幼き時より天文道や暦道を学ぶ。天正元年(1573年)12月28日・14歳の時に、朝廷陰陽寮の長官・陰陽頭となる。 |
土御門泰重 | 土御門泰福 |
父は豊臣秀次の事件に連座して失脚したため、一時衰微していたが、豊臣秀吉死後の慶長8年(1603年)に元服して正六位上・右近将監兼蔵人に任じられ、同17年(1612年)には中務大丞に転じる。だが、家業の暦学において失態があり、元和2年(1616年)に賀茂氏系の幸徳井友景に暦学の権限を譲る。その結果、2年後には友景は陰陽頭に任じられ、泰重は後に天文博士から左兵衛督に転じた。しかし、後に友景と不仲になり土御門家による陰陽道再興を志向したために、陰陽道の権限を巡って安倍氏系土御門家と賀茂氏系幸徳井家の長期にわたる内紛の原因となった。 |
一般には土御門神道の祖として知られている。泰広,隆俊の死により泰重の後継者となり、寛文元年(1661年)の泰重の死によりその家督を継いだ。 |
土御門泰邦 | 土御門晴雄 |
土御門泰福の嫡男であった泰誠は父に先立って病死、そのため、弟・泰連が泰誠の養子として家督を継いだが、子供に恵まれず末弟の泰邦を養子として迎える。後に泰連には実子・泰兄が生まれるが、泰邦が泰兄を養子として後を継がせる事を条件に家督を継いだ。寛延3年(1750年)、引退した兄に代わって従三位となる。 |
土御門家陰陽道の事実上の最後の当主。家禄は183石。天保4年(1833年)に従五位上に叙されて、同10年(1839年)に元服して従五位上・大膳大夫、同13年(1842年)に陰陽頭となる。嘉永2年(1849年)に右兵衛佐を兼ねる。安政2年(1855年)には正四位下となり、安政5年(1858年)の廷臣八十八卿列参事件に参加する。同年12月1日に行われた江戸幕府14代将軍・徳川家茂の就任式に際して侍従・高倉永祜と共に勅使として江戸城に派遣されている。翌年には民部卿に転じて、元治元年(1864年)には従三位となった。明治元年(1868年)民部卿を辞任。 |
土御門藤子 | 土御門晴榮 |
大奥女中。和宮・親子内親王付の上臈御年寄、乳母。和宮の授乳の乳母は田中藤(少進)であり、土御門藤子とは別人。ふぢ。別名・邦子,澄姫。 |
公家の錦織久隆の次男として生まれた。安土桃山時代の土御門家当主・久脩から女系を1回経た末裔、また江戸時代中期の当主・泰福から女系を2回経た末裔にあたる。錦織家は半家の家格であり、久隆は刑部卿などを務めていた。また久隆は晴栄が生まれる前年に起こった廷臣八十八卿列参事件にかかわっていたことでも知られている。その後、公家の土御門晴雄の3女と結婚して婿養子に入る。土御門家も半家の家格であり、天文・暦道・陰陽道を家業としていた。晴雄は陰陽頭や民部卿などを務めていたが、明治維新を機に幕府の天文方を廃止するよう主張し、朝廷より許された。これにより、天文方の暦算や頒暦の権限は朝廷に返されることになり、朝廷で陰陽寮を統括していた土御門家が日本の編暦を一手に担うことになっていった。 |
倉橋泰吉 | |
土御門久脩の次男として誕生。慶長17年12月13日、14歳で元服し、同日に蔵人となり、左近衛将監に任官される。このとき、倉橋と号して倉橋家を創設したという。家号は遠祖・安倍倉梯麻呂にちなんだとされる。 |