安倍晴明の5代目の子孫にあたる。父・泰長が保安2年(1121年)に54歳で病死する。兄・政文が家を継ぎ陰陽権博士となるが、天治元年(1124年)に急逝し、安倍氏嫡流は断絶の危機に至った。このため、朝廷では当時15歳であった政文の弟を後継とすることにし、庶流の安倍兼時(後に晴道)を後見にすることとした。兼時は政文の弟を元服させて「泰親」と名乗らせ、陰陽道を教授した。 大治5年(1130年)、泰親は右京亮に任じられ、天承元年(1131年)には早くも鳥羽上皇,美福門院に召し出されるなど、陰陽師として独り立ちしていく。しかし、その翌年に陰陽師を継ぐことができなかった政文の遺児が安倍晴明以来の土御門邸を売却、この情報を聞きつけた安倍晴道が買い取ろうとしたことから、泰親が異論を挟んで晴道と相論を行う。当時、晴道は地位こそ低かったものの、泰親を育てた実績から安倍氏の氏長者としての立場が認められており、土御門邸の獲得はそれを名実ともにするものであった。一方これを否認する泰親が嫡流の地位を守るために、かつての師と全面対決するに至ったのである。泰親はその後主計助,雅楽頭,権陰陽博士を歴任したことが知られ、仁平3年(1153年)、晴道が没すると泰親は天文権博士に任ぜられ、氏長者の地位を回復させた。保元2年(1157年)に陰陽助に任ぜられた。 泰親は占術や天文密奏の分野において優れた才能を発揮するなど当代屈指の陰陽師となり、鳥羽法皇,後白河法皇の治天の君に仕えて後白河法皇のために毎月の泰山府君祭を行い、藤原頼長,兼実からも信頼されて摂関家にも奉仕した。日記・説話集・軍記物などにおいて、泰親に関する逸話が多く伝えられており、久安4年(1148年)の内裏火災や承安2年(1172年)の斎宮・惇子内親王の急逝、治承3年(1179年)の政変、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵などを予言したとされている。『平家物語』,『源平盛衰記』には泰親を「指御子」と称している。また、泰親の日記『安倍泰親朝臣記』『天文変異記』の一部が現存しており、泰親および天文博士を継いだ次男・業俊による天文異変の記録とその解釈、天文密奏の内容などが書きとめられており、当時の天文道の内容を知ることができる。 だが、その泰親の実力をもってしても、当主の相次ぐ死で一旦没落した安倍氏嫡流を再興することは困難を窮めた。泰親の時代、陰陽師は朝廷や院、公家から広く重用され、特に安倍氏と賀茂氏の陰陽師が登用されていたが、その中でも陰陽寮の官職に就いたり、重要な儀式を任される者は限定されていたために、そうした社会的な地位を巡る一族内部の争いが激しかった。安倍晴道を祖とする「晴道党」、天文変異の解釈が高く評価されていた安倍宗明・広賢父子を祖とする「宗明流」は、泰親の属する嫡流「泰親流」と合い並び立つ存在となっていた。一方、泰親は陰陽寮の次官である陰陽助にまで進んでいたが、長官である陰陽頭には賀茂氏嫡流の賀茂在憲が久しくその地位を占め続けていた。こうした状況を打破するために泰親は様々な手段を打ち、事あるたびに安倍氏他流および賀茂氏の説を批判した。 やがて泰親は大膳権大夫に任ぜられた。もっとも、官職としては陰陽寮を離れたものの天文密奏者としての資格はそのままであり、大膳(権)大夫は安倍晴明が務めたことがある官職で泰親が安倍氏嫡流であることを示すものであった。寿永元年(1182年)4月、泰親はようやく陰陽頭に任ぜられたが、翌年寿永2年(1183年)1月には記録上から姿を消し、12月には賀茂宣賢が次の陰陽頭に就任している。安倍氏の記録では同年3月20日に74歳で死去したとされており、寿永2年に没したのは事実であると考えられている。 泰親は陰陽師としての実力によって晴明以来の名声を得て、その没後には季弘,業俊,泰茂によって安倍氏の陰陽道嫡流が継承されたが、泰親親子の活躍をもってしても晴道党や宗明流の台頭を完全には抑えることはできなかった。安倍氏嫡流は鎌倉時代を通じて分裂と衰退を続けることになる。安倍氏嫡流の再興が実現するのは、足利将軍家に信任された泰茂-泰忠系の安倍有世(泰盛の来孫)が登場する14世紀末期まで待つことになる。
|
父・季尚の没後に後継者とされていた兄の業氏が眼病のために朝廷から継承を認められず、次男・孝俊を後継者とする綸旨が出されたが、これを拒否した業氏を孝俊ら一族が殺害されてしまう。朝廷はこの事態を看過できず孝俊らを流罪とした。この処分により季弘系も大打撃を蒙り、衰退を続けることになる。 |