大安寺
だいあんじ(Daian-ji Temple)
【T-NR033】探訪日:2018/10.3
奈良県奈良市大安寺2丁目18-1 <📲:0742-61-6312>
【MAP】
〔駐車場所〕
『日本書紀』『続日本紀』によれば、田村皇子(のちの舒明天皇)が病床の聖徳太子を見舞った際に、太子に「熊凝精舎」を大寺(官寺)として造営してほしいと告げられた、という。開基は舒明天皇と伝える。
710(和銅3)年の平城京遷都に従い、飛鳥地方にあった7世紀建立の寺院のうち、法興寺(飛鳥寺),薬師寺,厩坂寺(山階寺、→興福寺)などは新都へ移転され、大官大寺も716(霊亀2)年に平城京左京六条四坊の地へ移され、大安寺となった。これらすべて、のちに東大寺,西大寺,法隆寺(あるいは唐招提寺)とともに南都七大寺に数えられている。
大安寺は東西3町(約330m),南北5町(約550m)に及ぶ広大なものであったとされ、伽藍は東西両塔が金堂から大きく離れ、南大門の外側に建ち、「大安寺式伽藍配置」と称されている。738(天平10)年頃には東塔・西塔以外はほぼ完成。塔は大官大寺までは九重塔だったが、移転時には七重塔として建立された。東塔は奈良時代後半に、西塔は主要伽藍では最後となる奈良時代末期から平安時代初頭に建立されている。七重塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみで、「南大寺」の別名があった。
都が平安京へ移った後、829(天長6)年には空海が大安寺の別当に補されている。しかし、平安時代以後は徐々に衰退し、1017(寛仁元)年の火災で主要堂塔を焼失して以後は、かつての隆盛を回復することはなかった。
1298(永仁6)年、西大寺,唐招提寺,法華寺などと共に将軍家祈祷所とされた。だが、1596(文禄5)年閏7月20日の慶長伏見地震で本尊の釈迦如来像が失われ、江戸時代には小さな観音堂1つを残すのみとなった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世末から近代の再建であり、規模も著しく縮小している。
奈良時代の遺品としては、奈良時代末期の制作と思われる木彫仏9体が残るが、いずれも破損が多く、各像の両腕などは大部分が後補のものに変わっている。747(天平19)年の『大安寺資財帳』にはこれらの像に該当するものが見出されないことから、それ以後の造立と思われる。
現代は癌封じなどにご利益がある寺となっている。参拝者が、竹筒に入れて温めた日本酒を飲んで健康を祈る「笹酒祭り」は、奈良時代末期の光仁天皇の故事にちなむと伝承されている。
なお、現・大安寺境内のほか、南側の東西両塔跡,北側の杉山古墳を含む区域は、「大安寺旧境内」として国の史跡に指定されている。