西大寺
さいだいじ (Saidai-ji Temple)
【T-NR008】探訪日:1995/4/1・2018/10/21
奈良県奈良市西大寺芝町1丁目1-5 <📲:0742-45-4700>
【MAP】
〔駐車場所〕
764(天平宝字8)年9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願し、翌765(天平神護元)年に造立され、常騰を開山として西大寺が創建された。西大寺創建当時は道鏡が中央政界で大きな力をもっており、西大寺の建立にあたっても道鏡の思想的影響が大きかったものと推定されている(護国のために四天王像を安置するのは金光明最勝王経に基づくものである)。
西大寺の寺名は東大寺に対するもので、奈良時代には薬師金堂,弥勒金堂,四王堂,十一面堂,東西の五重塔などが立ち並ぶ伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。
しかし、平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。
1235(文暦2)年、中興の祖となる叡尊(興正菩薩)が西大寺に住した。その後一時海龍王寺に住した後、1238(嘉禎4)年に西大寺に戻り、90歳で没するまで50年以上、荒廃していた西大寺の復興に尽くした。叡尊は、当時の日本仏教の腐敗堕落した状況を憂い、戒律の復興に努めた。また、貧者,病者などの救済に奔走し社会福祉事業にも力を尽くした。西大寺に現存する仏像,工芸品などには本尊釈迦如来像をはじめ、叡尊の時代に制作されたものが多い。その後も忍性などの高僧を輩出するとともに、荒廃した諸国の国分寺の再興に尽力し、10数か国の国分寺が西大寺の末寺であったと推定されている。
1499(明応8)年12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされたり、1502(文亀2)年の火災などで大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。なお、西大寺は1895(明治28)年に真言宗から独立し、真言律宗を名乗っている。真言律宗に属する寺院は、大本山宝山寺のほか、浄瑠璃寺,海龍王寺,不退寺,極楽寺(鎌倉)などがある。
境内には本堂(重文),愛染堂,四王堂などが建ち、本堂前には東塔跡の基壇と礎石が残る。
本堂は寄棟造の本瓦葺で1808(文化5)年頃の完成したものである。1249(建長元)年仏師善慶の作である本尊・釈迦如来立像(重文)と1302(正安4)年作の文殊菩薩及び脇侍像5体(重文) が安置されている。両像とも像内には多数の納入品が納められていた。
愛染堂は1762(宝暦12)年に京都御所の近衛公政所御殿を移築したもので、1247(宝治2)年仏師善円作の愛染明王坐像(重文)と1280(弘安3)年に仏師善春によって彫られた叡尊80歳の時の肖像である叡尊坐像(国宝) が安置されている。この像にも叡尊の父母の遺骨をはじめとするおびただしい資料が納入されていた。
四王堂は1674(延宝2)年の再建である。安置されている十一面観音立像(重文)は1289(正安2)年に京都白河にあった法勝寺十一面堂の本尊を移したもの。また、四天王立像(重文)は、各像が足元に踏みつける邪鬼だけが奈良時代創建当時のもので、像本体は持国天,増長天,広目天像が銅造、多聞天像のみ木造で、前の3体は鎌倉時代、多聞天は室町時代の作と推定される。
【史跡規模】 |
【指 定】国指定史跡(1965年6月4日指定) |
関連時代 | 奈良時代 | 鎌倉時代 | 戦国時代 | 江戸時代:中期 |
関連年号 | 764年 | 1235年・1238年 | 1499年 | 1762年・1808年 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
孝謙上皇 | K308 | 常騰 | **** | 叡尊 | **** |
忍性 | **** | 赤沢朝経 | **** |
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▲四王金堂
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▲護摩堂
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▲本堂
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▲東塔跡
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▲東塔跡と鐘楼堂
▲愛染堂
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▲鐘楼堂
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▲清瀧権現
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▲観音霊場