浄珠院
じょうしゅいん(Joshu-in Temple)
【T-AC109】探訪日:2023/11.4
愛知県岡崎市上和田町北屋敷55 <📲:0564-52-5253>
【MAP】
〔駐車場所〕参詣者用駐車場がある。
承和年間(834~848年)、天台宗の慈覚大師円仁が聖徳太子自作の孝養像を安置し創建した清光院大海寺を起源とする。その後、時が流れて廃絶してしまったが、応永年間(1394~1427年)に松平宗家2代・松平泰親の長子である教然良頓が京都での修行を終え、故郷のこの地に仏殿を造立して浄土宗に改宗し浄珠院と号して再興した。
1563(永禄6)年からの三河一向一揆では、上和田に住む大久保一党が一揆勢と対峙し、松平家康(徳川家康)も出陣し浄珠院を本陣とした。また、一揆終結の折には、境内の太子堂の前で和睦が行われたという。家康は寛大な処置をとり、対立した家臣団の誰一人断罪されることはなく、のちに家康のために命を賭して戦う三河家臣団を築き上げることになる。
家康が関東へ移封となった後に岡崎城主となった田中吉政が行った寺社領取り上げで寺領を失ったが、1603(慶長8)年8月には家康朱印状で20石を給された。近世は25の末寺があったという。なお、当院の「絹本著色法然上人絵伝」は岡崎市の指定文化財となっている。
また、境内には1548(天文17)年に宗家と対立し耳取縄手の戦いで戦死した三木城主・松平信孝(松平清康の弟)の墓がある。