願證寺

がんしょうじ (Gansho-ji Temple)

【T-ME003】探訪日:2016/3.20

【T-ME003】願證寺 三重県桑名市長島町又木181-3 <📲:0594-42-2550>

【MAP】

〔駐車場所〕

【T-ME003】願證寺

   少なくとも1492(明応10)年までに本願寺8世・蓮如の6男である蓮淳によって香取庄中郷杉江の地に創建された。あるいは、法泉寺を開いた信慶の次男・信祐により、1264(文永元)年に開山され、願證寺の号は本願寺3世・覚如より与えられたともいわれる。なお、当初の願證寺主は法泉寺主が兼帯しており、蓮淳は法泉寺7世・空誓の娘を室とする願證寺の堯恵から寺を譲られたという伝承もある。また堯恵に子が無かったため、空誓らの請願によって蓮淳を堯恵の養子に迎えたとも伝わり、蓮淳の入寺は1497(明応6)年ともされる。
 蓮淳は本願寺10世・証如の外祖父でもあったことから本願寺教団中枢においても重きをなし、1534(天文3)年以降は伊勢国,美濃国,尾張国の東海三ヶ国の本願寺門末を支配するようになった。なお、1537(天文6)年までに寺は中郷杉江から長島城に近い南郷西外面付近へ移転した。1560(永禄3)年には、多数の本願寺一門衆に先駆けて、河内顕証寺,播磨本徳寺とともに院家を勅許された。
 1570(元亀元)年8月、本願寺第11世・顕如は圧迫を強める織田信長と敵対する意を表して、各地の門末に檄を飛ばし、長島でも一向一揆勢が蜂起した(長島一向一揆)。同年11月,1573(天正元)年9月,翌年7月と3回におよぶ信長の侵攻を受け、長島城を中心に激しい攻防が繰り広げられたが、長島城の一揆勢は1574(天正2)年9月29日に、ついに長島城からの退去を始めたが、信長側の一斉射撃に遭い男女約1000人が殺害された。生存者は逆襲して信長側と死闘の末、北伊勢方面へ逃れたが、残る中江,屋長島は四方より火をかけられて、男女約2万人が焼き殺されたという。この一連の戦いで願證寺庶子の顕栄が戦死、願證寺4世の証意(佐玄)が織田側に暗殺、証意嫡子の顕忍(佐尭)も長島城陥落の日に討死、2世・実恵の妻が海に入水した(実恵は1536年に死去)。3世・証恵の弟の証栄も死亡したほか、4世・証意に嫁いでいた武田勝頼妹の菊姫も死亡したという伝承がある。顕忍の弟で2歳の顕恵は川から救出されて生き延び、願證寺家臣の手によって大坂本願寺へ送り届けられ、本願寺により正統と認められた。のちに近江国日野に願證寺を興している。
 信長没後の1584~85(天正12~13)年頃、織田信雄に許可され、尾張国清洲に願證寺が再建された。この清洲の願證寺は、のちに清洲越しで名古屋に移転した。
 慶長年間(1596~1615年)には、7世・准恵によって伊勢国桑名に願證寺が復興され、長島と松阪に通寺を設け、名古屋願證寺も通寺とした。長島の通寺は、1634(寛永11)年に旧願證寺の門徒らのために建てられ祐泉寺と号し、承応年間(1652~54年)には誓来寺と改称した。その後、桑名願證寺は真宗高田派に転派したが、名古屋と長島の二寺は浄土真宗本願寺派に残って、これ以後、長島誓来寺は又木村誓来寺兼帯願證寺として存続した。
 1718(享保3)年、名古屋願證寺は、西本願寺14世・寂如のとき西本願寺の坊舎とされて名古屋御坊と称し、1876(明治9)年に本願寺名古屋別院(西別院)となっている。同年、又木村誓来寺も誓来寺の寺号を捨てて願證寺を称し、現在に至っている。
 なお、元の杉江の願證寺故地は、明治時代に行なわれた木曽三川分流工事によって、長良川の流路に水没している。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】 

【国重文】

関連時代 鎌倉時代 室町時代 戦国時代 江戸時代:前期
関連年号 1264年 1492年 1537年・1573年 1634年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
法泉寺信祐 **** 本願寺覚如(宗昭) F331 本願寺蓮淳(兼誉) F340
願證寺堯恵 **** 本願寺顕如(光佐) F336 織田信長 OD04
願證寺実恵(兼幸) F340 願行寺勝恵女(藤向) F331 願證寺顕栄 F340
願證寺証意(佐玄) F340 願證寺顕忍(佐尭) F340 真徳寺証栄(幸俊) F341
武田菊姫 G433 願證寺顕恵 F340 願證寺准恵 F340

 

 

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