石山本願寺推定地

いしやまほんがんじ すいていち(Estimated Location of Ishiyamahongan-ji Temple)

【T-OS008】探訪日:2015/2.15

【T-OS008】石山本願寺推定地 大阪府大阪市中央区大阪城2ー2

【MAP】

〔駐車場所〕

   1496(明応5)年9月、すでに法主を実如に譲った蓮如は、摂津国東成郡生玉庄大坂に大坂坊舎(大坂御堂)の建設を開始した。建設は堺の町衆、摂津,河内,和泉,北陸の門徒衆の援助を得ながら、翌年4月に上棟があり、同年11月には総石垣の扉御門が出来、要害の寺院が完成した。名称は、大坂本願寺,大坂城などとも呼ばれた。
 蓮如の後継者である実如は、細川政元と畠山義豊との明応の政変以降の戦いに対して、細川政元から強く参戦を求められ、1506(永正3)年に本願寺として初めて参戦した。これ以降、本願寺は武装化していき武士勢力との抗争が始まっていく。
 1532(享禄5)年6月には細川晴元からの要請に応じて、飯盛山城に立て籠もり畠山義堯,三好元長らの連合軍に攻囲された木沢長政を門徒衆2万兵を動員し救援した(飯盛城の戦い)。しかし、一向一揆はそのまま大和国へも乱入し、危機感を覚えた晴元は本願寺の末寺や大坂御坊に攻撃を仕掛けてきた。さらに晴元からの要請に応じた法華一揆衆や近江守護・六角定頼によって、山科本願寺は寺内町共々焼き討ちに遭って焼失してしまう(山科本願寺の戦い)。これにより石山本願寺が本願寺教団の本山となる。その後も晴元と石山本願寺との戦いは続き、石山本願寺は寺領を拡大し、城郭の技術者を集め、周囲に堀や土塁を築き、塀,柵をめぐらし寺内町として防備を固めていった。このように石山本願寺は証如時代にすでに要害堅固な城郭都市に至ったと考えられている。証如の時代には中央権門や戦国大名家との外交,婚姻関係を展開し基盤の安定を整えて、石山本願寺の絶頂期を迎えていた。
 1568(永禄11)年、織田信長は上洛直後に石山本願寺に対して矢銭5千貫を要求する。1570(元亀元)年正月には石山本願寺の明け渡しを要求したといわれている。これに対して顕如は打倒信長に決起し、これ以降、石山本願寺と織田信長の戦いは、和睦戦術を交え途中断続しつつ、両勢力とも同盟勢力の拡大をはかりながら11年間続いた。1580(天正8)年、信長との石山合戦に敗れた顕如は石山本願寺を明け渡し、本願寺教団は、鷺森,貝塚,天満を経て京都堀川に本拠を移転した。堂舎,寺内町は明け渡し直後に炎上して灰燼に帰したが、顕如の長子・教如による意図的な放火との見方もある。
 1583(天正11)年になると羽柴秀吉によって石山本願寺跡に大坂城の築城が開始された。この時に、大規模な土木工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられ、さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際しても、再び大規模な土木工事が行われた。このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。石山本願寺の実際の規模を示す史料は現存していないが、現在の大阪城外堀内側の面積が想定され、二の丸跡に石山本願寺推定地の碑が建てられている。

【史跡規模】

【指 定】

【国 宝】

【国重文】

関連時代 戦国時代
関連年号 1496年・1506年・1532年・1568年・1580年
関連人物 系図 関連人物 系図 関連人物 系図
本願寺蓮如 F334 本願寺実如 F336 本願寺証如 F336
本願寺顕如 F336 細川政元 G379 細川晴元 G379
織田信長 OD04 羽柴秀吉 ZZ01

 

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大坂本願寺の推定位置

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