興禅寺
こうぜんじ (Kozen-ji Temple)
【T-AC034】探訪日:2016/4/2
愛知県犬山市羽黒字城屋敷16 <📲:0568-67-0032>
【MAP】
〔駐車場所〕 寺院東側に駐車場がある。
1174(承安4)年、平忠盛の目代として尾張国府に赴任した梶原景時によって羽黒下大日に創建された真言宗光善寺が始まりとされる。景時は1180(治承4)年の石橋山の戦いで敗れた源頼朝を救い、後に鎌倉幕府の重臣となったが、頼朝の死後、1200(正治2)年に北条一門との政争に敗れ、京に向かう途中の駿河国清見関で非業の最期を遂げた。景時の次男・景高の子の豊丸は乳母の隅の方と七家臣に護られて、名馬の磨墨と共に隅の方の里である羽黒へ落ちのびてきた。豊丸は長じて梶原景親と名乗り、現・興禅寺に館を構えて羽黒城とした。
1476(文明8)年、子孫の梶原景綱によって臨済宗妙心寺派となり、寺号を興禅寺と改めて再興された。景綱の子・梶原景義は羽黒3000石の領主として織田信長に仕えたが、1582(天正10)年の本能寺の変で信長に殉じ、羽黒の梶原氏は滅亡した。
1584(天正12)年、小牧長久手の戦いの前哨戦である羽黒合戦で全山焼失したが、1602(慶長7)年、犬山城主であった小笠原吉次によって羽黒城址に再興され現在に至っている。
境内には、羽黒梶原氏一族の墓所のほか、1868(慶応4)年4月に入鹿池が決壊した「入鹿切れ」の際に流されてきた大岩が当時の洪水の凄さを後世に残すものとして残されている。
また、山内一豊の生母である法秀院は羽黒梶原氏の出身である。