二村山
ふたむらやま(Mt. Futamura)
【Z-AC032】探訪日:2021/4/22
愛知県豊明市沓掛町皿池上
【MAP】
〔駐車場所〕 県道220号線沿いに駐車場がある。
標高71.8mの二村山は平安時代の昔から街道一の名勝地として知られ、歌枕ともなり数多くの歌や紀行文の題材にされてきた。現在でも山頂から山麓にかけて、その長く風趣な歴史を物語る歌碑や石碑がいくつか残されている。詳細はWikipedia「二村山」を参照いただきたい。
展望台のある山頂には、切られ地蔵尊がある。胴体を斜めに切られたように上半身と下半身が別になっている。峠地蔵尊の伝説をもとに建立されたが、落雷で折れたといわれている。その峠地蔵尊は100mほど下った平地の地蔵堂に安置されている。この平地は東の聖應寺の飛地境内となっている。堂内にある3体の地蔵尊のうち左の地蔵尊は肩から上が欠落しており、いつの頃からか、旅人が盗賊の熊坂長範に襲われたときに身代わりになったという伝説が生まれた。「身代わり地蔵」と呼ばれている。この地蔵尊には807(大同2)年の刻銘、他の2体は1738(元文3)年(中央の地蔵尊)と1766(明和3)年(右の地蔵尊)の刻がある。
また、この峠には東西に鎌倉街道が通っていた。
【史跡規模】 |
【指 定】 |
関連時代 | 平安時代:前期 |
関連年号 |
関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 | 関連人物 | 系図 |
熊坂長範 | **** |
二村山は軍事的には桶狭間の戦いの際に沓掛城監視の役割を果たしていたと考えられる。山頂から沓掛城の情勢は手に取るように分かったのではないだろうか。沓掛城から大高城への兵糧入れがことごとく失敗したのは情報が織田側に事前に知られていたからではないだろうか(元康が成功したのは岡崎から別ルートで運んだため)。また、合戦当日の今川義元軍の動きもここからの情報が逐次信長のもとに伝えられたと考えてよいかと思う。戦後にいちばんの論功行賞は簗田出羽守であったが、簗田は聖應寺(当時は慶昌寺)と関係が深かった。
※本サイトの写真は転用可です(ダウンロードすると、より鮮明に見えます)
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▲右の道を行く
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▲大嘗祭悠紀歌碑
▲切られ地蔵尊
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▲岳輅の句碑
▲展望台
▲展望台から見た東(沓掛城跡)方面
▲展望台から見た東南方面
▲展望台から見た南方面
▲展望台から見た西方面
▲伊藤両村先生の碑
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▲地蔵堂
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▲峠地蔵尊
▲身代わり地蔵尊
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▲源頼朝の歌碑
▲鎌倉街道案内