<皇孫系氏族>孝昭天皇後裔

KG02:春日人華  春日人華 ― 小野妹子 ON01:小野妹子
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小野妹子 小野毛野
 推古天皇15年(607年)に通訳の鞍作福利らと共に大唐(当時の隋)に派遣された。当地において「蘇因高」と呼称された妹子は、推古天皇16年(608年)4月に隋の使臣裴世清を伴って帰国したが、隋の皇帝煬帝からの返書を経由地の百済において紛失したと報告、その罪は流刑に相当するものであったが、推古天皇によって恩赦され罪に問われなかった。同年9月には裴世清の帰国に合わせて再び大使として隋に派遣され、学生の福因,恵明,玄理,大国、および学問僧の日文,請安,慧隠,広斉ら8名の留学生留学僧とともに国書を携え当地に赴き、翌年の推古17年(609年)9月に帰国した。『大日本史』によれば、のち冠位は大徳にまで昇進している。  小野妹子は華道の家元、池坊において「華道の祖」とされている。池坊家の伝承によれば、四天王寺建立のための用材を求めて京都に赴いた聖徳太子が、霊木を得て当地に六角堂(現頂法寺)を建立し、同道した小野妹子に太子持仏の如意輪観音を本尊としてこれを守るよう命じたという。「小野妹子専務」と称し六角堂最初の住職となった妹子は、境内にある池の傍らに坊舎を構えて朝夕仏前に花を供えたという。これが華道池坊の起こりであり、以来、代々家元は「専務」から「専」の一文字を取って受け継いできたとされる。  持統天皇9年(695年)遣新羅使に任ぜられ、新羅へ渡航。帰国後も文武天皇4年(700年)に筑紫大弐に任ぜられるなど外交関係の官職を歴任した。  大宝2年(702年)大宝律令の制定に伴う、位階制度への移行によって従四位下に叙せられると共に、参議に任ぜられ朝政に参画する。元明朝の和銅元年(708年)中納言に昇進し、翌和銅2年(709年)従三位に至る。和銅7年(714年)4月15日薨去。最終官位は中納言従三位兼中務卿。  1997年(平成9年)4月11日に奈良県天理市で、慶雲4年(707年)に小野毛野が文武天皇の病気治癒を祈念して建立したとされる願興寺の跡が発見された。
小野馬養 小野 老
 文武朝の大宝3年(703年)南海道巡察使に任ぜられる。翌大宝3年(704年)宮中の西楼の上に慶雲が現れたのをいち早く発見し、慶雲への改元のきっかけを作ると共に、第一発見者として従七位上から一挙に三階昇進して従六位下に叙せられる。  元明朝の和銅元年(708年)正月に正六位下から二階昇進して従五位下に叙爵し、3月に帯剣寮長官に任ぜられる。また、同年9月には平城京造営のために造平城京司が設置されるとその次官も務めている。和銅3年(710年)正月に元明天皇が大極殿に出御して朝賀を受けた際、馬養は副将軍として騎兵や隼人・蝦夷らを率いて参列した。その後、和銅6年(713年)従五位上、霊亀3年(717年)正五位下と順調に昇進し、この間に少納言などを務めた。  元正朝の養老2年(718年)遣新羅大使に任ぜられて新羅に渡り、翌養老3年(719年)2月に無事に帰国する。同年3月に初めて諸国に按察使が置かれると、丹波守であった馬養はこれに任ぜられ、丹後・但馬・因幡国を管轄した。  元正朝の養老3年(719年)正六位下から二階の昇叙により従五位下に叙爵され、翌養老4年(720年)右少弁に任ぜられる。  聖武朝の神亀5年(728年)4月頃大宰少弐として大宰府に赴任したのち、10月頃大宰府における政治の実情を朝廷に報告する朝集使として平城京に赴き、報告を済ませた後もなお翌神亀6年(729年)3月頃までに平城京にとどまり、4月に大宰府へ戻ってきたものと推量される。なお、在京中の神亀6年(729年)2月11日には長屋王の変が起こっており、変後の3月4日に行われた叙位では藤原氏側に立った官人が多く昇進している中で、老も従五位上に昇進していることから、政治的には藤原四兄弟に近い立場にあったと考えられている。この頃大宰帥であった大伴旅人邸で開かれた饗宴で読んだ作品など、大宰府赴任中の和歌3首が『万葉集』に採録されている。  こののちも、藤原四子政権下において、天平3年(731年)正五位下、天平5年(733年)正五位上、天平6年(734年)従四位下と順調に昇進した。のちに大宰大弐となり、天平7年(735年)には高橋牛養を南島(薩南諸島)に派遣して、漂着船の道しるべとすべく、各島に島の名称,船の停泊場所、水場および往来する国々からの距離を記した木碑を建てている。天平9年(737年)6月11日に藤原四兄弟と相前後して卒去。
小野石根 小野滋野
 孝謙朝末の天平宝字元年(757年)従五位下に叙爵。淳仁朝では南海道節度副使・長門守と地方官を務める。天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱の後に造宮大輔に任ぜられる。称徳朝末の神護景雲3年(769年)近江介に任ぜられ再び地方官に転じ、翌神護景雲4年(770年)の称徳天皇の崩御に際しては山陵司を務めている。  光仁朝に入り、左少弁を経て、宝亀5年(774年)従五位上・左中弁に叙任されると、翌宝亀6年(775年)中衛少将、のち中衛中将と文武の要職を兼帯する。宝亀7年(776年)大伴益立に替わって、備中守・大神末足と共に遣唐副使に任ぜられる。翌宝亀8年(777年)正月に播磨守に任ぜられ、2月には春日山の麓で遣唐事業の成功を祈願して祭祀を行う。しかし、同年4月に遣唐大使・佐伯今毛人が光仁天皇に出発の暇乞いまでしながら俄に発病し、摂津職に留まって出発できなくなってしまったため、石根が勅を受けて大使の職務を代行することとなった。なお佐伯今毛人の代わりの大使は立てられず、石根が副使のまま大使の職務を代行を命じられている。同年6月24日に第16次遣唐使一行は出帆し7月3日に揚州海陵県に到着。その後一行は長安へ向かうが、安史の乱による駅舎の荒廃を理由に入京人数を43名に制限される。翌宝亀9年(778年)正月に長安に到着し貢ぎ物を進上、3月には皇帝・代宗への拝謁も果たす。同年9月より一行は順次帰国の途につき、石根や唐の送使・趙宝英が乗った第一船は9月5日に出航するが、外海に達した8日に暴風が発生し高波を受けて船は中央から舳と艫に分断し沈没。趙宝英らと共に石根は水死した。  宝亀10年(779年)石根の水難を悼んで従四位下の贈位がなされた。  宝亀8年(777年)6月に第14次遣唐使の判官として第三船に乗船して渡唐し、7月に持節副使(大使代行)・小野石根が乗る第一船と共に揚州海陵県(現在の江蘇省泰州市)に漂着する。8月末に揚州大都督に到着するが、安禄山の乱の影響で駅舎が荒廃していることを理由に、観察使兼長吏・陳少遊の取り決めにより長安への入京者が60人(65人とも)に制限された。10月に85人で揚州を発つも、百余里進んだところで中書門下の勅牒(唐における皇帝の命令の一つ)により人数をさらに20人に制限されるが、遣唐使側の依頼により23人を追加して計43人が入京することになった。  翌宝亀9年(778年)正月に持節副使・小野石根,副使・大神末足らと共に長安に入城、まもなく宣政殿で拝謁の儀が行われるが皇帝は出御せず、3月になってから延英殿で皇帝・代宗に対面し、官や賞を授けられた。4月に中使・趙宝英と共に使節一行は長安を去り、6月に揚州に到着した。  滋野の乗る第三船は9月に唐使を乗せて揚州海陵県から出航するも、3日目に逆風を受けて座礁。1ヶ月ほどかけて船の修理を行うと、10月半ばに再び出航して1週間ほどで肥前国松浦郡橘浦に帰着した。帰着後すぐに入京が命ぜられている。なお、第一船・第二船は11月に出航し、第一船は遭難して判官・大伴継人ら41名のみが肥後国天草郡に漂着し、第二船は無事に薩摩国出水郡に帰着している。  宝亀10年(779年)4月に副使の大神末足,大伴継人、録事の上毛野大川らの渡唐の功労に対する叙位が行われ、滋野は従五位下に叙爵した。また、同月に滋野らと共に渡海した唐使の孫興進,秦怤期が入京し、5月には光仁天皇への拝謁が行われた。翌宝亀11年(780年)滋野は豊前守に任ぜられている。
小野岑守 小野 篁
 桓武朝末に権少外記・少外記を務め、延暦25年(806年)平城天皇が即位して賀美能親王が春宮に立つと、岑守は春宮少進に転じた。大同4年(809年)賀美能親王の即位(嵯峨天皇)に伴う叙位にて従七位上から一挙に七階昇進して従五位下に叙爵し、右少弁に任ぜられる。  大同5年(810年)に発生した薬子の変に際しては、固関のために御長広岳と共に近江国へ派遣されると共に、近江介を兼ねた。のち、内蔵頭・左馬頭を歴任し、弘仁6年(815年)陸奥守に任ぜられると、吉弥候部等波醜ら俘囚を帰順させ、弘仁8年(817年)嵯峨天皇から賞賛の詔勅を受けている。また、在職中に出羽国出羽郡井口に出羽国府を建てている。  その後は、治部大輔,皇后宮大夫と京官を務めながら、嵯峨朝末にかけて順調に昇進し、弘仁13年(822年)参議兼大宰大弐に任ぜられ公卿に列した。大宰大弐として大宰府に赴任中の弘仁14年(823年)公営田の導入を建議。翌天長元年(824年)には多禰国を大隅国に編入した。また、飢饉や疫癘の際に雨露をしのげず路傍で亡くなる行旅の病人を収容する為の療養施設として続命院を建設している。この間の天長3年(826年)従四位上に叙せられる。  天長5年(828年)勘解由長官兼刑部卿として京官に復すが、天長7年(830年)4月19日卒去。享年53。一説では出雲国造が神宝を献じる日に、長く朝堂に立ったところ、病を発して死去したという。  弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き弓馬をよくしたが、帰京後も学問に取り組まなかったことから、侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年)文章生試に及第した。  天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。  承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。2回に亘り渡唐に失敗し承和5年(838年)3度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したため常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は抗議し、乗船を拒否。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を風刺する漢詩を作るが、嵯峨上皇は激怒して篁の官位剥奪の上で隠岐国への流罪に処した。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという。  承和7年(840年)赦免により帰京し、文才に優れていることを理由として特別に本位に復され刑部少輔に任ぜられる。承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後、蔵人頭,権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に当時審議中であった善愷訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、告発された弁官らを弾劾する流れを作った。しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして悔いたという。承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼,左大弁,班山城田使長官,勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)5月に病気により官職を辞す。  嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった。天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたという。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去。享年51。
小野小町 小野好古
 平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙,三十六歌仙,女房三十六歌仙の一人。  系図集『尊卑分脈』によれば小野一族である小野篁の息子である出羽郡司・小野良真の娘とされている。しかし、小野良真の名は『尊卑分脈』にしか記載が無く、他の史料には全く見当たらない。加えて、数々の資料や諸説から小町の生没年は天長2年(825年)~昌泰3年(900年)の頃と想定されるが、小野篁の生没年を考えると篁の孫とするには年代が合わない。ほかに、小野篁自身の娘、あるいは小野滝雄の娘とする説もある。     また、「小町」は本名ではなく、「町」という字があてられているので、後宮に仕える女性だったのではと考えられる。ほぼ同年代の人物に「三条町(紀静子)」「三国町(仁明天皇皇子貞登の母)」が存在する。  生誕地については、伝承によると現在の秋田県湯沢市小野といわれており、晩年も同地で過ごしたとする地域の言い伝えが残っている。ただし、小野小町の真の生誕地が秋田県湯沢市小野であるかどうかの確証は無く、平安時代初期に出羽国北方での蝦夷の反乱で出羽国府を城輪柵に移しており、その周辺とも考えられる。この他にも京都市山科区とする説、滋賀県彦根市小野町とする説、福井県越前市とする説、福島県小野町とする説、熊本県熊本市北区植木町小野とする説、神奈川県厚木市小野とする説など、生誕伝説のある地域は全国に点在しており、数多くの異説がある。ただ、小野氏には陸奥国にゆかりのある人物が多く、小町の祖父である小野篁は青年時代に父の小野岑守に従って陸奥国へ赴き、弓馬をよくしたと言われる。また、小野篁のいとこである小野春風は若い頃辺境の地に暮らしていたことから、夷語にも通じていたという。  前述の秋田県湯沢市小野で過ごしたという説の他、京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説がある。随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる。  小野小町の物とされる墓も全国に点在している。このため、どの墓が本物であるかは分かっていない。平安時代位までは貴族も風葬が一般的であり(皇族等は別として)、墓自体がない可能性も示唆される。  讃岐権掾・春宮権少進を経て、延喜22年(922年)従五位下・右京亮に叙任される。のち、醍醐朝後期に大蔵少輔・中宮大進を務める。  朱雀朝に入ると、延長8年(930年)右衛門権佐、承平8年(938年)右近衛少将と武官を歴任し、順調に昇進する。この間、天慶2年(939年)に発生した藤原純友の乱を鎮圧するために、天慶3年(940年)追捕山陽南海両道凶賊使長官として九州へ下向。追捕使判官・藤原慶幸,主典・大蔵春実らと共に、大宰府を襲撃した藤原純友軍を博多津にて撃退している。天慶5年(942年)文官の左中弁に遷るが、天慶8年(945年)大宰大弐として地方官に転じた。  村上朝初頭の天暦元年(947年)参議に任ぜられ公卿に列すが、引き続き大宰大弐を兼帯し天暦3年(949年)末までこれを務めた。その後は議政官として伊予権守,讃岐権守,備中権守などの地方官を兼帯し、天徳2年(958年)正四位下に昇叙されている。天徳4年(960年)77歳にして大宰大弐に再任され、応和2年(962年)従三位に至る。  冷泉朝初頭の康保4年(967年)7月7日に致仕する。翌康保5年(968年)2月14日薨去。享年85。
小野道風 明尊
 それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれる。 小野葛紘が尾張国春日井郡上条に滞在中、里女を母に葛紘の3男として生まれたとされる。江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていた。  醍醐朝の延喜5年(905年)には弱冠12歳にして大嘗会の屏風の色紙形を書く。延喜20年(920年)能書の撰により非蔵人に補されると、翌延喜21年(921年)右兵衛少尉に任ぜられる。延長3年(925年)少内記となるが、同年に勧修寺で行われた醍醐天皇の生母である贈皇太后・藤原胤子の法要において、道風は供養願文の法華経の清書役に抜擢される。以後道風の宮廷内における能書活動が活発になっていく。延長4年(926年)興福寺の寛建が入唐するにあたって、当時の日本の文士文筆を唐に対して誇示するために、菅原道真らの漢詩とともに、道風の書いた行書・草書各一巻を携行しており、既に日本を代表する能書家になっていた様子が窺われる。醍醐朝,村上朝には多くの書跡を残す。  能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王羲之の再生」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)といっている。晩年は健康を壊して随分苦しんだ。65歳ぐらいの頃から目が悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「道風のふるい筆」といっている。康保3年(966年)12月27日卒去。享年73。  没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。  幼いときに園城寺(三井寺)に入り、余慶から顕教・密教の2教を学び、慶祚からその奥義を伝授された。円満院に住して園城寺法務を兼ね僧正まで至っている。1038年(長暦2年)天台座主に任じられると、円仁の流れを汲んだ宗徒がそれに激しく反発、翌1039年(長暦3年)関白藤原頼通に強訴したことから、座主を辞さるを得ず円仁派の教円が座主に就任した。その直後園城寺は延暦寺とは別に戒壇を設けることを奏上したが、山門派の反対にあい実現しなかった。1045年(寛徳2年)園城寺長吏、1048年(永承3年)天台座主に就任したが、山門派・寺門派の対立により3日で座主職を辞職せざるを得なくなった。  1053年(天喜元年)牛車を許され、翌1054年(天喜2年)平等院検校に任じられている。明尊に帰依していた頼通は、1060年(康平3年)明尊の90歳になったのを祝賀している。
小野美材 高向利春
 平安時代前期の貴族・文人・能書家。小野俊生または小野忠範の子とされる。義村とも。  文章生から仁和2年(886年)文章得業生を経て、寛平4年(892年)対策に及第し、寛平6年(894年)少内記に任ぜられる。この間の元慶4年(880年)には史上初めて穀倉院学問料の支給を受けたともされる。  寛平9年(897年)従五位下・大内記に叙任され、のち伊予権介・信濃権介と地方官も兼ねた。延喜2年(902年)卒去。  書に卓越し、寛平9年(897年)の醍醐天皇の大嘗会では、悠紀主基屏風の色紙形の清書を行っている。また大内裏の西面三門(談天門・藻壁門・殷富門)の額字を書いたとされる。なお、他の三面は三筆の手による物(南面・弘法大師,北面・橘逸勢,東面・嵯峨天皇)とされており、美材が三筆に比肩する腕前と見られていた様子が窺われる。  讃岐権守・高向公輔の子で小野美材の養子。寛平2年(890年)刑部丞に補任する。  延喜10年(910年)武蔵権少掾に任ぜられると、延喜11年(911年)武蔵介、延喜18年(918年)武蔵守と醍醐朝後半において武蔵国の国司を歴任。延喜19年(919年)には官物の横領や国府の襲撃を働いた前武蔵権介の源仕に攻められそうになっている。またこの間の延喜14年(914年)には従五位下に叙爵した。延長6年(928年)甲斐守。  勅撰歌人として『古今和歌集』に和歌作品1首が収められている。  後世、小野氏の系図に組み入れられ、武蔵国小野牧の領主となる小野氏(横山党)の祖に擬せられた。
小野恒柯 小野石雄
 仁明朝の承和2年(835年)少内記、のち大内記に昇進し、美作掾・近江大掾を兼ねた。承和8年(841年)式部大丞に転じるが、同年12月に賀福延らが渤海使として長門国に来着した際には、少外記・山代氏益と共に存問渤海客使を務めている。承和11年(844年)従五位下に叙爵し、のち大宰少弐として地方官に転じる。少弐在職中に筑前守・紀今守と論争し、参議兼勘解由長官・滋野貞主から批判を受けている。  文徳朝では、仁寿3年(853年)右少弁、仁寿4年(854年)播磨守を歴任するが、播磨守としての統治は簡素で要点をよく押さえていることを重視したが、開明的ではないと評された。  清和朝の貞観元年(859年)には従五位上に叙せられるが、翌貞観2年(860年)5月18日卒去。享年53。 若い頃から学問を好んだ。非常に文才があり、草書・隷書を得意とした。その能筆は当時群を抜いて優れており、書を習う者は皆その書跡を手本とし、恒柯の書いた書状を手に入れた者は愛重しないものはいなかったという。性格はうわべを飾り立てることが無く、ありのままに振る舞った。一方で、自尊心が高く傲り高ぶるところがあった。  弘仁4年(813年)に起きた蝦夷の吉弥侯部止波須可牟多知の乱において、文室綿麻呂を征夷大将軍とした征夷軍に従軍する。この時、羊革の鎧と牛革の鎧を着用して、敵を討ち平らげた。なお、この鎧は陸奥国に保管されたが、貞観12年(870年)になって、新羅の入寇への対応を行うべく対馬守に任ぜられた子・小野春風が、この鎧を着用して九州の警備に当たり、無事に帰京して改めてこの鎧を返納したい旨上奏する。この願いは許されて、羊革の鎧が春風に与えられ、牛革の鎧は兄の陸奥権守・小野春枝に与えられている。  また、多賀城跡から石雄と推定される名が署名された漆紙文書も出土している。
小野春風 小野春泉
 仁寿4年(854年)右衛門少尉、天安2年(858年)右近衛将監と文徳朝から清和朝初頭にかけて武官を歴任し、貞観6年(864年)武蔵介として地方官に遷る。 貞観12年(870年)正月に新羅の入寇への対応を行うべく、対馬守に任ぜられる。対馬守在任時に、甲冑の防御機能を強化するための保侶衣1000領、及び兵糧を携帯するための革袋1000枚の必要性を朝廷に訴え、大宰府に保管されていた布でこれらが製作された。同年3月に肥前権介を兼任する。また同月には、かつて蝦夷の吉弥侯部止波須可牟多知の乱において、父・石雄が着用した羊革の鎧と牛革の鎧が陸奥国に保管されていたことから、これを着用して九州の警備に当たり、無事に帰京して改めてこの鎧を返納したい旨上奏する。この願いは許されて、羊革の鎧が春風に与えられ、牛革の鎧は兄の陸奥権守・小野春枝に与えられている。のち、左近衛将監に転じたものの讒言を受け免官となる。  陽成朝の元慶2年(878年)3月に元慶の乱が勃発すると、出羽権守として俘囚征討を担うこととなった藤原保則の推挙により、同年6月鎮守府将軍に任ぜられ、陸奥権介・坂上好蔭と共に精兵500人と甲冑一揃えを与えられ、陸奥国から秋田城へ救援に向かう。春風らはまず上津野(鹿角)に入ると、7月末に陸奥・出羽両国の兵と敵対していた俘囚を挟撃して勝利を収める。8月に入ると俘囚側は投降を欲する様子を相次いで見せるが、当初はその真意が測り難く投降を許さなかった。そこで、9月末には春風は自ら敵地に入って降伏の文書を書かせると、俘囚側の指揮者を従えて戻った。この時の春風は防具・武器を脱ぎ捨て単身で夷俘の中に乗り込み、夷語を用いて降伏を促すなど硬軟取り混ぜた対応を通じて俘囚を悉く降伏させたという。こうして、官軍側は俘囚に降伏心があることを理解し、ついに降伏を許した。 同年12月に200名の俘囚がかつて官軍から略奪した鎧22領を持参して降伏を願い出た際、出羽権掾・清原令望らは降伏する人数に比べて持参した鎧が少なすぎる(鎧を隠し持っている)ことから虚偽の降伏の懸念があるため、もっと数多くの鎧を持参させた上で降伏を認めるべき旨の意見を述べる。しかし、春風は自ら敵情視察を行った結果、降伏は本心によるもので、わざわざ霜雪を越えてやってきたのは降伏を強く願う証拠であるとの意見を出した。結局、出羽権守・藤原保則の判断により、春風の意見が採用されて降伏を受け入れることになり、出羽権介・藤原統行らが降伏した俘囚側に派遣されて労いの饗宴を行った。翌元慶3年(879年)3月には諸国から召集された征討軍を解散すべき旨の勅符が出され、6月までに春風らは上野・下野両国などに兵士の返却を完了させている。なお、春風は乱鎮圧後も鎮守府将軍を務め、元慶6年(882年)には従五位上に叙せられている。  光孝朝の仁和3年(887年)5月に大膳大夫に任ぜられるが、同月に出羽介・坂上茂樹が地震に伴う地勢の変化を理由に国府の移転を願い出たことから、春風は蝦夷征討の従軍経験を買われて、北陸地方の地方官経験のある民部大輔・惟良高尚や左京亮・藤原高松らとともに太政官に召されて意見を述べる。同年6月に摂津権守に遷ると、宇多朝の仁和4年(888年)左衛門権佐、寛平2年(890年)右近衛少将次いで陸奥権守、寛平3年(891年)讃岐権守と、光孝朝から宇多朝にかけても主に武官と地方官を歴任した。  元慶2年(878年)3月に元慶の乱が発生し、出羽国の俘囚が反乱を起こして秋田城を急襲、城や周辺の官舎・民家を焼き払った際、出羽守・藤原興世の命令を受けて、出羽権掾の文室有房と小野春泉は共に、精兵を率いて反乱勢力の手に落ちた秋田城へ向かい合戦を行う。しかし、城は焼け落ちて保管していた多数の武器は灰燼に帰しており、敵の兵力は日に日に増さる状況であった。5月には、出羽権介・藤原統行と春泉・文室有房率いる出羽国の兵士、および陸奥大掾・藤原梶長が率いて来た陸奥国からの援軍、合わせて総勢5000人をもって秋田城周辺に陣を敷くが、四方から夷俘の攻撃を受けて官軍は敗走し、武器・兵糧をことごとく奪われた。春泉自身も官軍兵士の死体に隠れ、ようやく殺害を逃れたという。  その後、右中弁・藤原保則が乱鎮圧の責任者として出羽権守に任ぜられて赴任し戦況は好転するが、保則の命令を受けて、春泉は鎮守将軍を務めていた兄・春風の許に赴き、鎮守府に待機して後続の連絡を待ち機に応じて対応すべき旨の伝言を伝えている。翌元慶3年(879年)鎮圧軍は解散されるが、春泉は出羽権介・藤原統行と共に出羽国団司として引き続き兵士約800名を率いて出羽国に配置されている。
小野広人 小野牛養
 和銅元年(708年)9月、中臣人足,小野馬養らと共に造平城京司次官に任ぜられ平城宮の造営を担当した。  聖武朝初頭の神亀元年(724年)3月に海道(東北地方の太平洋沿岸地域)の蝦夷が起こした反乱を鎮圧するため、4月に任ぜられた持節大将軍・藤原宇合,副将軍・高橋安麻呂に続いて、5月に牛養も出羽国の蝦夷征討のため鎮狄将軍に任ぜられる。この遠征による成果は明らかでないが、同年11月末に宇合と牛養は平城京に帰還している。翌神亀2年(725年)閏正月に遠征した将軍らに対する叙位叙勲が行われた際、藤原宇合や高橋安麻呂は叙位叙勲を受けている。一方で、牛養は少なくとも叙位が行われた形跡がないが、天平年間には勲五等を持っていることから、この時に勲五等の勲位のみを与えられた可能性もある。  天平元年(729年)2月に発生した長屋王の変に際しては、右中弁として長屋王に対する罪状の糾問に参画している。同年8月に従四位下に叙せられ、9月に聖武天皇の夫人・藤原安宿媛が皇后に冊立(光明皇后)されると、牛養は皇后宮大夫に任ぜられこれに仕える。天平2年(730年)には催造司監を兼ねて平城宮の造営も担当した。  天平11年(739年)10月5日卒去。