『太平記』では人見恩阿と表記される。武蔵榛沢郡(現在の深谷市)人見郷を本拠地とした人見氏は武蔵七党の一つ猪俣党の庶流。光行は鎌倉幕府第14代執権・北条高時に仕えた御家人で、八王子市の子安神社は、元徳2年(1330年)に人見光行が再建したと伝えられている。 元弘の乱では、幕府軍に従軍する。『太平記』巻六「赤坂合戦事付人見本間抜懸事」によると、元弘3年(1333年)2月2日、楠木正成の籠る赤坂城攻城戦で、本間資貞と共に抜け駆けをし討ち死にを遂げた。享年73。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての御家人。武蔵七党の猪俣党の当主。 保元の乱で源義朝に仕えた。平治の乱では源義平の下で軍功をあげた十七騎の雄将として知られている。また源頼朝,源義経にも仕え、一ノ谷の戦いで平盛俊を騙し討ちにしたとされている。 範綱の死後、始まりの時代は不詳だが、一族の霊を慰めるため猪俣百八燈という行事が毎年行われている。