<皇孫系氏族>孝昭天皇後裔

ON10:猪俣時範  小野妹子 ― 猪俣時範 ― 藤田政行 ON11:藤田政行

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用土康邦 用土信吉

 当初は山内上杉家に仕え、天神山城を守っていたが、天文15年(1546年)の河越城の戦いの後、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の4男・乙千代丸(氏邦)を幼少から養子として育て、娘の大福御前を娶らせて藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から康邦に改めたのもこの頃とされる。ただし、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
 康邦の子には用土重連や藤田信吉がいたが、彼らは北条氏にとっては邪魔な存在であり、重連は沼田城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。

 藤田康邦の次男といわれているが、康邦は天文24年(1555年)8月13日、信吉が生まれる4年前に死去しており計算が合わない。このため、康邦の孫または甥ではないかと思われる。また、藤田康邦の一族である用土業国の子息とする説もある。
 兄の用土重連が北条氏邦(康邦の養子)に謀殺されたことによりその跡を継いだ信吉は、はじめ用土氏・小野氏を名乗っていたが、天正8年(1580年)8月、旧知の間柄であったという武田家臣・真田昌幸の調略を受入れ、北条氏から離反し武田氏に沼田城を引き渡した。その後、上州攻略で武功を挙げ、沼須城主となり、武田勝頼から5700貫の所領を拝領する。さらに藤田氏に復して勝頼から武田氏の通字「信」字を与えられ藤田能登守信吉と名乗り、海野信親の娘を娶った。
 天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、他の上州国人と同様に織田氏の重臣・滝川一益に仕える。同年6月の本能寺の変の後、上杉方の長尾伊賀守に通じ、5千の兵で滝川益重麾下4千の兵の守る沼田城を攻めたて水曲輪の一つを乗っ取るも、一益が小幡,安中,和田,倉賀野,由良,長尾(館林),内藤を従え2万の兵で北上したため、信吉は沼田城攻略を諦め、6月13日夜、泣く泣く越後に落ちていったという。
 上杉景勝から越後長島城を与えられた信吉は、以降上杉家中で数々の武功を挙げていく。特に新発田重家討伐戦では、新潟城・沼垂城を調略によって降し、赤谷城救援に駆けつけた金上盛備率いる蘆名軍を撃破し、さらには五十公野城を攻略するなど、その功績は抜群であった。天正17年(1589年)佐渡国の本間氏討伐にも従軍し、天正18年(1590年)の小田原征伐では上杉軍の先鋒を務め、上野・武蔵の北条方の諸城を次々と攻略した。慶長3年(1598年)に上杉氏が会津に移封されると、景勝から越後津川城代として1万5,000石の所領を与えられた。
 慶長5年(1600年)、信吉は景勝の代理として新年の祝賀のために上洛する。この際、徳川家康は信吉に銀子や青江直次の刀等を贈るなどして好意的に接している。しかし景勝の後に越後に入封した堀秀治が、上杉に叛意有りと訴えたことで上杉と徳川の間で緊張が高まった。上洛して申し開きをせよと迫る家康に対し、上杉家の権臣・直江兼続は露骨に家康に敵対する姿勢を見せた(そもそも堀と上杉の対立は、上杉が越後から会津に転封された際に、新領主のために残して置くべき分の年貢を兼続が全て持ち去ったことに起因する)。
 信吉は景勝に安易に挑発に乗らぬよう諫言するとともに、自らは大坂に赴いて家康に対して懸命に弁明して避戦に努めた。ところが、兼続が信吉は家康に買収されて内通していると讒言したため、信吉や大森城代の栗田国時ら避戦派は上杉家からの出奔を余儀なくされ、江戸の徳川秀忠の許に逃れた(国時は兼続の追っ手により殺害された)。その後、信吉は京都の大徳寺に入って剃髪し、源心と号した。関ヶ原の戦いの後、信吉は家康に下野国西方に1万5,000石の所領を与えられたため、還俗して諱を重信と改めた。
 慶長7年(1602年)、佐竹義宣が常陸国水戸から出羽国秋田へ減移封されたとき、水戸城の接収を担当している。大坂の陣にも従軍したが、慶長20年(1615年)の夏の陣後に改易された。理由は榊原康勝軍の軍監を務めていたときの失態、戦功に対する不満からの失言など諸々の理由を挙げられている。
 元和2年(1616年)7月14日、信濃国奈良井宿で死去した。享年58。死因は病死説もあるが、近年では自殺説が有力となっている。末裔として、黒前村議・藤田源七、同・藤田源次などがいる。

藤田幽谷 藤田東湖

 江戸時代後期の儒学者・民政家。後期水戸学の中心人物の一人。著書に『正名論』『勧農或問』『修史始末』など。
 常陸国水戸城下の奈良屋町に、古着商藤田屋を営む藤田与右衛門の次男として生まれる。幼少の頃から学問で頭角を現すようになり、寺社奉行下役の小川勘助や医師の青木侃斎に学ぶ。侃斎の推挙を受け、彰考館編修で後に総裁となる立原翠軒の門人となる。1788年(天明8年)にはその推薦で彰考館に入る。1789年(天明9年)には正式に館員となり、水戸藩の修史事業である『大日本史』の編纂に携わる。
 水戸藩では徳川光圀の百回遠忌に向けて写本を献本するため『大日本史』の校訂と浄書を行っていたが、『大日本史』の題号に国号を憚るべきとする題号問題が発生していた(史館動揺)。翠軒が藩主・治保からこの問題を諮問されている間に幽谷は翠軒を差し置いて題号を『史稿』に改めるべきであるとする意見書を提出し、翠軒の修史方針や藩主治保の修学態度、さらには藩政改革の提言や対外情勢への意見などを著作で発表し、一時は編修職を解任される。この史館動揺は党派的な対立に発展する。
 1807年(文化4年)、彰考館の総裁に就任し50石を受ける。著作である『勧農或問』は水戸藩天保の改革の農村対策に影響を与えた。1812年(文化9年)再び総裁を専任。門人に次男である藤田東湖,豊田天功,会沢正志斎らがおり、彼らは水戸学の尊王攘夷思想を全国に広める活動を行った。

 戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として「水戸の両田」と称された。また、武田耕雲斎を加え、「水戸の三田」とも称される。会沢正志斎と並ぶ水戸学の大家として著名であるが、藤田は本居宣長の国学を大幅に取り入れて尊王の絶対化を図ったほか、各人が積極的に天下国家の大事に主体的に関与することを求め、吉田松陰らに代表される尊王攘夷派の思想的な基盤を築いた。名は彪、号の「東湖」は生家が千波湖を東に望むことにちなむという。
 文化3年(1806年)、水戸城下の藤田家屋敷に生まれる。父は水戸学者・藤田幽谷、母は町与力丹氏の娘・梅。次男であるが、兄の熊太郎は早世したため、嗣子として育つ。妹には豊田芙雄の母・雪子、武田耕雲斎の長男・彦衛門の妻・幾子らがいる。
 文政10年(1827年)に家督を相続し、進物番200石となった後は、水戸学藤田派の後継として才を発揮し、彰考館編集や彰考館総裁代役などを歴任する。また、当時藤田派と対立していた立原派との和解に尽力するなど水戸学の大成者としての地位を確立する。文政12年(1829年)の水戸藩主継嗣問題にあたっては斉昭派に与し、同年の斉昭襲封後は郡奉行、天保元年(1830年)に江戸通事御用役、御用調役と順調に昇進した。天保11年(1840年)には側用人として藩政改革にあたるなど、藩主・斉昭の絶大な信用を得るに至った。
 しかし、弘化元年(1844年)5月に斉昭が隠居謹慎処分を受けると共に失脚し、小石川藩邸(上屋敷)に幽閉され、同年9月には禄を剥奪される。翌弘化2年(1845年)2月に幽閉のまま小梅藩邸(下屋敷)に移る。この幽閉・蟄居中に『弘道館記述義』『常陸帯』『回天詩史』など多くの著作が書かれた。理念や覚悟を述べるとともに、全体を通して現状に対する悲憤を漂わせ、幕末の志士たちに深い影響を与えることとなった。
 弘化4年(1847年)には水戸城下竹隈町の蟄居屋敷に移され、嘉永5年(1852年)にようやく処分を解かれた。藩政復帰の機会は早く、翌嘉永6年(1853年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航し、斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することになる。安政元年(1854年)には側用人に復帰している。
 安政2年10月2日(1855年)に発生した安政の大地震に遭い死去。享年50。当日、東湖は家老の岡田兵部宅へ藩政に関する相談をするために訪問し、中座して自宅に戻った際、地震に遭遇した。地震発生時に東湖は一度は脱出するも、火鉢の火を心配した母親が再び邸内に戻るとその後を追い、落下してきた鴨居から母親を守るために自らの肩で受け止め、救出に来た兵部らの助けもあって何とか母親を脱出させるが、自身は母親の無事を確認した後に力尽き、下敷きとなって圧死した。

藤田小四郎

 水戸天狗党の首領格。常陸国茨城郡水戸で当時水戸藩主・徳川斉昭の側用人であった藤田東湖の4男(庶子)として生まれる。名は信。母は東湖の妾であった土岐さき。
 2歳の時、母・さきが暇を出され藤田家を出る。原因は東照宮の例祭でさきが妾でありながら正妻の里子と同じ帯を仕立てて出席したことによる。これは身分を弁えない無作法な振る舞いであると世間から見咎められ、夫である東湖も批判の対象となったことから、家内の混乱を心配した里子により放逐されたものである。
 小四郎には二人の兄(長男は早世)がいたが、小四郎は兄弟の中で最も才能があり活発であったと言われる。父・東湖の影響を受け、尊皇攘夷思想を掲げて活動するようになる。安政2年(1855年)、安政の大地震により父を失う。この頃から弘道館館長の原市之進に師事する。
 文久3年(1863年)3月、藩主・徳川慶篤の上洛に随従。京都では長州藩士の桂小五郎,久坂玄瑞を始めとする志士と交流したほか、公家に周旋活動を行う。これにより更に尊皇攘夷の思想を深くし、水戸藩過激派の首領格として台頭する。同年5月、将軍後見職・一橋慶喜に従って江戸に下る。同年8月、八月十八日の政変により長州藩勢力が京都から一掃され、急進的尊攘派は衰退した。一方で孝明天皇の攘夷の意思は変わらず、幕府に対して横浜港鎖港の早期実行を要求した。これを受けて幕府は鎖港交渉を開始したものの、首脳部内の意見対立も相まって交渉は遅々として進まなかった。
 元治元年3月27日(1864年5月2日)、小四郎は即時鎖港の要求・支援のため同志など60人余りとともに筑波山にて挙兵するも失敗し、越前国新保にて加賀藩に捕縛される。小四郎らは鰊倉に監禁された後、加賀藩から幕府へ出された処分寛大の嘆願も空しく元治2年2月23日(1865年3月20日)敦賀の来迎寺にて処刑された。享年24。なお、この来迎寺は元々町人を処刑する場所であった。処刑後、小四郎の首は武田耕雲斎らの首と共に水戸に送られ、罪人として晒されている。墓所は処刑場所となった来迎寺、および茨城県水戸市松本町にある常磐共有墓地。