<皇孫系氏族>孝昭天皇後裔

K003:彦国姥津命 〔孝昭天皇後裔〕春日人華 KG02:春日人華

リンク
柿本得足 柿本人麻呂
 柿本臣の祖。『新撰姓氏録』によると、敏達天皇の時、家の門に柿の樹が有ったことにより、柿本臣の姓を負ったとされる。

 後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ称えられている。三十六歌仙の一人。
 一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動を始め、持統朝に花開いたとみられる。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。
 石見国の鴨山における辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々としその終焉の地も定かではないが、最後に石見国で亡くなったとの見方が強い。島根県益田市では鴨島伝説として伝えられている。人麻呂以降の子孫は石見国美乃郡司として土着し、鎌倉時代以降は益田氏を称して石見国人となったとされる。いずれにしても生前や死没直後の史料には出自,官途について記載がなく、確実なことは不明である。

柿本市守 粟田真人
 聖武朝末の天平20年(748年)従五位下に叙爵し、翌天平感宝元年(749年)丹後守に任ぜられると、孝謙朝末の天平勝宝9歳(757年)安芸守と聖武朝から孝謙朝にかけて地方官を歴任する。
 淳仁朝の天平宝字5年(761年)主計頭として京官に遷り、天平宝字8年(764年)従五位上に至る。

 孝徳朝の白雉4年(653年)第2次遣唐使に学問僧として随行し、唐で学問を修め、日本に帰国後は還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下に叙せられる。天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い、臣姓から朝臣姓に改姓する。天武天皇14年(685年)直大肆の冠位を父の百済に譲ることを天皇に請うが、許されなかった。
 持統朝では大宰大弐として外国からの賓客を饗応する経験を積む。また、持統朝から文武朝にかけては忍壁皇子,藤原不比等らと共に大宝律令の編纂に参画する。文武4年(700年)令をほぼ完成させると、同年6月には律令選定の功労により物品を与えられ、翌大宝元年(701年)8月に大宝律令として完成・施行された。
 大宝元年(701年)第8次遣唐使の派遣が決まると、同年正月に使節の最高責任者である遣唐執節使に任命される。5月に文武天皇から節刀を授けられるが、これが天皇が節刀を授けた初例という。大宝2年(702年)5月に大伴安麻呂,高向麻呂,下毛野古麻呂,小野毛野とともに参議に任ぜられ朝政に参加する。
 同年6月に自らが編纂に関わった大宝律令を携えて唐(正確には中国の王朝は武則天が新たに建てた武周)へ渡る。天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで倭と唐が敵対して以降、初の本格的な使節派遣であり、国交回復の意味を持った遣使であると同時に、首都や律令制度の整備や天皇号および「日本」の国号が成立したことを唐に対して宣言するなど、様々な目的を持った使節であった。同遣唐使には山上憶良や道慈らも加わっている。この渡航は成功し、楚州塩城県に到着すると、唐王朝は武則天(則天武后)による簒奪で周王朝に代わっていたことを知る。翌大宝3年(703年)都の長安に到着、武則天に謁見した。唐人からは「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と評されたという。武則天からは司膳員外郎に任ぜられた。なお、遣唐使節らが長安で見た実際の都城や律令制の運用実態は、日本国内での想像とは似て非なるものであり、大きな衝撃を受けて帰国した粟田真人らは、これらの日中の都城や律令制の差異を報告し、のちの律令制改革に活かされていく。
 慶雲元年(704年)帰国の途に就き、白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて五島列島福江島西端の玉之浦へ漂着する。10月に拝朝。慶雲2年(705年)中納言が議政官として復活すると、高向麻呂,阿倍宿奈麻呂と共にこれ任命された。慶雲3年(706年)より始まった律令制改革である慶雲の改革に参画し、入唐で得た知識を生かして実情に即した制度の修正を行う。和銅元年(708年)には、唐に倣った初の流通貨幣である和同開珎が発行されるとともに、長安の造形に倣った本格的都城となる平城京への遷都の詔が発せられた。なお、平城京は長安と同じく大極殿を北端に置いており、実際の遷都は2年後の和銅3年(710年)に行われている。
 和銅元年(708年)大宰帥に任ぜられ、元明朝末の和銅8年(715年)正三位に至る。元正朝の養老3年(719年)2月5日薨去。

粟田 人 粟田人上

 和銅4年(711年)4月に従六位下から一挙に四階昇進して従五位下に叙爵。同年11月には平城宮造営のための諸国から徴発した役民で多数の逃亡者が発生していたことから、紀男人らと共に兵庫将軍に任命され、衛兵所を仮設して兵庫を守衛した。
 和銅7年(714年)新羅使の入朝に対応するため、左右の将軍が任命された際、右副将軍に任ぜられる。また同年には弟と思しき人上が従五位下に叙爵している。
 その後、人はなかなか昇進を果たせず、父・真人が没した翌年の養老4年(720年)に人上が従五位上に叙せられた際も昇進に与ることができなかった。なお、養老8年(724年)に人上の正五位下への昇叙と同じタイミングで、人も13年ぶりに昇進し従五位上に叙せられている。

 和銅7年(714年)従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵。父・真人が没した翌年の養老4年(720年)従五位上に叙せられる。
 神亀元年(724年)聖武天皇の即位に伴って正五位下に昇叙、神亀6年(729年)正五位上、天平7年(735年)従四位下に至る。この間の天平4年(732年)平城京薬師寺造営のために造薬師寺司が置かれると造薬師寺大夫に任ぜられたほか、武蔵守も務めている。天平2年(730年)1月13日に大宰帥・大伴旅人の邸宅で催された宴会に際して和歌を詠んだ大宰少弐・粟田大夫にも比定される。

小野大樹 小野野依

 雄略天皇の命で文石小麻呂の討伐に派遣され、小麻呂の家を焼き払った。
 山背国小野里(京都府京都市山科区小野)に居り、春日小野臣の姓を負ったとされる。
「妻木家譜」や『皇胤志』などの系図では淵名臣の息子としているが、世代的に見て大樹臣は人花命の孫で岡上臣の子とするのが妥当と見る説があり、これに従えば野依臣は大樹臣の子と見られる(上記系図はこの説に従う)。

 「妻木家譜」や『皇胤志』などの系図では、子を野依臣と津幡臣の兄弟としているが、世代的に見て雄略朝の大樹臣は人花命の孫で岡上臣の子とするのが妥当と見る説があり、これに従えば野依臣は大樹臣の子に位置すると考えられる(上記系図はこの説に従う)。
春日老女子 大春日安守
 敏達天皇の妃となり、難波皇子,春日皇子,桑田皇女,大派皇子を生んだ。多産ではあったが、中央政界で活躍した皇子を輩出していない。ただし、難波皇子の子孫に橘諸兄がおり、橘氏一族に嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子がいるので、現代の皇室にその血脈は受け継がれている。

 左近衛将曹を経て、貞観11年(869年)少外記に任ぜられる。少外記在職中の貞観14年(872年)正月に母親の喪に服すことになった少内記・菅原道真に替わって、存問渤海客使に任ぜられる。4月に渤海使が滞在している加賀国へ移動して渤海からの啓牒を確認するが、内容の様式が過去の例と異なっていたことから、渤海大使・楊成規に対して詰問を行う。5月に楊成規と副使・李興晟らを先導して平安京に入る。渤海使への対応が概ね完了した5月末迄には正六位上・左大史に叙任されている。貞観15年(873年)大外記に任ぜられるが、翌貞観16年(874年)外従五位下・武蔵権介に叙任されて地方官に転じた。
 なお、貞観18年(876年)に来日した次回の渤海使に対して、一族の大春日安名が同じく存問渤海客使兼領客使を務めている。
 その後、陽成朝初頭に勘解由次官を務め、元慶3年(879年)に内位の従五位下に至る。

大春日真野麻呂 大春日雄継

 大春日氏の世業である暦道を相伝し、真野麻呂はその5代目であった。天平宝字7年(763年)に具注・七曜・頒暦・中星の4種の暦を造って淳仁天皇に献上した大春日船主の孫とされる。
 嘉祥2年(849年)従五位下に叙爵。暦博士を務める傍ら、斉衡3年(856年)紀伊権介、天安2年(858年)備後介と地方官を兼帯した。この間の斉衡4年(857年)にこれまで長く用いられた大衍暦について、唐の年暦と比較した結果、月の大小に大幅な相違が見られるとして、唐で使用されている五紀暦に改めるための準備を進めるよう上請し許される。これにより、翌天安2年(858年)から大衍暦と五紀暦が併用されることになった。
 また、貞観2年(860年)この年は19年に一度の朔旦冬至(11月1日が冬至)となるはずの年であったが、暦では11月2日が冬至となる事象が発生。閏10月末に諸家での議論の結果、暦をずらして朔旦冬至とすべきとの結論が出た。この結論を受けて真野麻呂と陰陽博士・笠名高らに対して、暦をずらすことによる影響(二十四節気の錯誤など)の有無について下問がなされた。これに対して真野麻呂らは暦術を調査し、吉凶を踏まえて暦をずらすようなことは行わないのが通例であり、本来であれば今年は朔旦冬至とすべきでないこと、一方で群臣の議論により朔旦冬至としても暦への影響はないことを上奏し、朔旦冬至とすることが決まった。同年11月には、これまでの暦博士に加えて陰陽頭に任ぜられているが、これは陰陽寮管下の諸道の熟達者である博士と陰陽頭の兼任の初例である。
 貞観3年(861年)先の渤海使・烏孝慎により貞観元年(859年)に日本にもたらされていた宣明暦について、大衍五紀の両暦より精度が高く、かつ唐では既に採用されていると見られることから、日本も早急に採り入れるべき旨を奏上して許される。翌貞観4年(862年)正月に宣明暦への改暦が行われ、大衍暦と五紀暦の併用は僅か4年で廃止された。また同月には真野は従五位上に叙せられている。

 越前国丹生郡の出身。承和14年(847年)正六位上から外従五位下に叙せられる。また、同年同族1名と共に春日部より春日臣に改姓し、越前国から左京に貫籍を移されている。
 嘉祥3年(850年)従五位下・大学博士に叙任され、貞観15年(868年)に没するまで博士を務める。大学博士としての事績として、天安2年(858年)に大納言・安倍安仁以下、文章博士・菅原是善,陰陽博士・滋岳川人らと共に、山城国葛野郡田邑郡真原の地に赴いて、文徳天皇の山陵の地を定める。貞観3年(861年)清和天皇が『論語』を講読する際に侍講を務めた。
斉衡3年(856年)には大春日朝臣姓に改姓している。
 貞観10年(868年)2月25日に野火による田邑山陵(文徳天皇陵)兆域の樹木焼失への対応について議論が行われた際、『礼記』では先人の室に火災があった場合は3日間哭すとの記載があることを述べ、それに従うべき旨を奏した。しかし、巨勢文雄による宗廟で火災が発生した際に皇帝は素服を着用したという『漢書』における故実に基づくべきとの意見が採用された。その後間もなく、雄継は引退の上表を行うが許されず、4月23日に卒去。享年79。

粟田馬養 粟田道麻呂

 天平2年(730年)太政官が諸学問に優れた人々に弟子を取って学問を教授させるべき旨を上奏した際、馬養は播磨乙安ら4人と共にそれぞれ弟子を2人取って漢語を教授するように命じられる。
 治部少輔を経て、天平18年(746年)従五位上・筑前守、天平19年(747年)備中守に叙任されるなど、聖武朝後半に地方官を歴任した。

 天平宝字2年(758年)内薬佑に任ぜられ、翌天平宝字3年(759年)臣姓から朝臣姓に改姓する。天平宝字8年(764年)7月授刀大尉の任にあったが、新羅使の金才伯ら91名が博多津に到着したことから、右少弁・紀牛養と共に来朝の理由を問うために大宰府に派遣されている。同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に際しては、外従五位下から一挙に従四位下・参議に叙任されて、乱の鎮圧に当たる。乱後の同年10月既に式部大輔勅旨員外大輔授刀中将の官職に就いていたがさらに因幡守を兼ね、翌天平神護元年(765年)正月には乱鎮圧の功労により勲三等の叙勲を受けた。     
 同年8月に和気王の謀反に与したことが発覚して詔によって譴責を受ける。道麻呂は以前より和気王と親しく、和気王邸で飲食を共にしていた。ある時道麻呂と和気王が密かに語り合った帰路に、道麻呂が帯びていた刀が門の塀に触れて折れてしまったために、和気王はすぐに立派な飾太刀を贈ったが、これにより人々の疑心を招き、陰謀が露見してしまったという。本来であれば法に基づいて罰せられるところを道鏡の取りなしによって道麻呂は一旦赦されて解官ののち10日余りで飛騨員外介に左遷されるが、同時に道麻呂にかねてより恨みを持っていた上道斐太都も飛騨守に任ぜられる。斐太都は赴任するとすぐに道麻呂夫妻を一院に幽閉して往来を禁じた。数月の後、道麻呂は妻と共に院内で死亡した。

粟田奈勢麻呂 粟田諸姉

 近江少掾・主税助を経て天平20年(748年)従五位下に叙爵する。のち越前守に任ぜられ、聖武朝末の天平感宝元年(749年)東大寺が越前国に寺領を求めた際、墾田地の選定に携わっている。
 天平感宝元年(757年)藤原仲麻呂が紫微内相に任ぜられると同時に正五位下に叙せられ、間もなく要職である左中弁に任ぜられる。天平宝字2年(758年)淳仁天皇の即位に伴って正五位上に昇叙されると、淳仁朝では右京大夫・司門衛督などを歴任し、天平宝字6年(762年)従四位下・遠江守に至るなど、藤原仲麻呂政権下で順調に昇進を果たした。またこの間の天平宝字5年(761年)には礼部少輔・藤原田麻呂らと共に保良宮に派遣され、班給宅地使(官人に宅地を分配支給する役)を務めている。
 天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱終結後の10月に遠江守を解任されており、乱によって失脚したと見られる。 神護景雲元年(767年)8月29日卒去。

 当初、藤原仲麻呂の長男・藤原真従の妻になったが、天平21年(749年)に従五位下に昇格後、真従の記録が消滅したことから、彼はこの直後に亡くなったものと思われる。しかし、諸姉は夫の死後も仲麻呂の邸宅である田村第にそのまま残った。彼女が粟田真人の縁者であり、藤原仲麻呂はその知名度・経済力を利用しようとした可能性が考えられる。
 やがて、仲麻呂のすすめで舎人親王の第七子である大炊王の妻となり、仲麻呂の婚姻政策に加担することになる。やがて大炊王が立太子し淳仁天皇となる。淳仁天皇は仲麻呂夫妻を父母と慕い、仲麻呂に「藤原恵美」の氏と「押勝」の名を与え、「尚舅」とも呼んだ。そのまま順調に行けば、諸姉が皇后になることが予想されていた。
 粟田氏一族は続々と昇進するが、藤原仲麻呂の乱後、位階を剥奪された(のちに復位した者もいる)。
 諸姉の存在そのものは、天平宝字2年以後、語られておらず、淳仁天皇の淡路配流後も、母親の当麻山背は同道しているが、諸姉の存在は記載されていない。