K003:彦国姥津命 | 春日人華 | KG02:春日人華 | ● |
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柿本得足 | 柿本人麻呂 |
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柿本臣の祖。『新撰姓氏録』によると、敏達天皇の時、家の門に柿の樹が有ったことにより、柿本臣の姓を負ったとされる。 |
後世、山部赤人と共に歌聖と呼ばれ称えられている。三十六歌仙の一人。 |
柿本市守 |
粟田真人 |
聖武朝末の天平20年(748年)従五位下に叙爵し、翌天平感宝元年(749年)丹後守に任ぜられると、孝謙朝末の天平勝宝9歳(757年)安芸守と聖武朝から孝謙朝にかけて地方官を歴任する。 淳仁朝の天平宝字5年(761年)主計頭として京官に遷り、天平宝字8年(764年)従五位上に至る。 |
孝徳朝の白雉4年(653年)第2次遣唐使に学問僧として随行し、唐で学問を修め、日本に帰国後は還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下に叙せられる。天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い、臣姓から朝臣姓に改姓する。天武天皇14年(685年)直大肆の冠位を父の百済に譲ることを天皇に請うが、許されなかった。 |
粟田 人 |
粟田人上 |
和銅4年(711年)4月に従六位下から一挙に四階昇進して従五位下に叙爵。同年11月には平城宮造営のための諸国から徴発した役民で多数の逃亡者が発生していたことから、紀男人らと共に兵庫将軍に任命され、衛兵所を仮設して兵庫を守衛した。 |
和銅7年(714年)従六位下から四階昇進して従五位下に叙爵。父・真人が没した翌年の養老4年(720年)従五位上に叙せられる。 |
小野大樹 |
小野野依 |
雄略天皇の命で文石小麻呂の討伐に派遣され、小麻呂の家を焼き払った。 |
「妻木家譜」や『皇胤志』などの系図では、子を野依臣と津幡臣の兄弟としているが、世代的に見て雄略朝の大樹臣は人花命の孫で岡上臣の子とするのが妥当と見る説があり、これに従えば野依臣は大樹臣の子に位置すると考えられる(上記系図はこの説に従う)。 |
春日老女子 |
大春日安守 |
敏達天皇の妃となり、難波皇子,春日皇子,桑田皇女,大派皇子を生んだ。多産ではあったが、中央政界で活躍した皇子を輩出していない。ただし、難波皇子の子孫に橘諸兄がおり、橘氏一族に嵯峨天皇の皇后となった橘嘉智子がいるので、現代の皇室にその血脈は受け継がれている。 |
左近衛将曹を経て、貞観11年(869年)少外記に任ぜられる。少外記在職中の貞観14年(872年)正月に母親の喪に服すことになった少内記・菅原道真に替わって、存問渤海客使に任ぜられる。4月に渤海使が滞在している加賀国へ移動して渤海からの啓牒を確認するが、内容の様式が過去の例と異なっていたことから、渤海大使・楊成規に対して詰問を行う。5月に楊成規と副使・李興晟らを先導して平安京に入る。渤海使への対応が概ね完了した5月末迄には正六位上・左大史に叙任されている。貞観15年(873年)大外記に任ぜられるが、翌貞観16年(874年)外従五位下・武蔵権介に叙任されて地方官に転じた。 |
大春日真野麻呂 |
大春日雄継 |
大春日氏の世業である暦道を相伝し、真野麻呂はその5代目であった。天平宝字7年(763年)に具注・七曜・頒暦・中星の4種の暦を造って淳仁天皇に献上した大春日船主の孫とされる。 |
越前国丹生郡の出身。承和14年(847年)正六位上から外従五位下に叙せられる。また、同年同族1名と共に春日部より春日臣に改姓し、越前国から左京に貫籍を移されている。 |
粟田馬養 |
粟田道麻呂 |
天平2年(730年)太政官が諸学問に優れた人々に弟子を取って学問を教授させるべき旨を上奏した際、馬養は播磨乙安ら4人と共にそれぞれ弟子を2人取って漢語を教授するように命じられる。 |
天平宝字2年(758年)内薬佑に任ぜられ、翌天平宝字3年(759年)臣姓から朝臣姓に改姓する。天平宝字8年(764年)7月授刀大尉の任にあったが、新羅使の金才伯ら91名が博多津に到着したことから、右少弁・紀牛養と共に来朝の理由を問うために大宰府に派遣されている。同年9月に発生した藤原仲麻呂の乱に際しては、外従五位下から一挙に従四位下・参議に叙任されて、乱の鎮圧に当たる。乱後の同年10月既に式部大輔勅旨員外大輔授刀中将の官職に就いていたがさらに因幡守を兼ね、翌天平神護元年(765年)正月には乱鎮圧の功労により勲三等の叙勲を受けた。 |
粟田奈勢麻呂 |
粟田諸姉 |
近江少掾・主税助を経て天平20年(748年)従五位下に叙爵する。のち越前守に任ぜられ、聖武朝末の天平感宝元年(749年)東大寺が越前国に寺領を求めた際、墾田地の選定に携わっている。 |
当初、藤原仲麻呂の長男・藤原真従の妻になったが、天平21年(749年)に従五位下に昇格後、真従の記録が消滅したことから、彼はこの直後に亡くなったものと思われる。しかし、諸姉は夫の死後も仲麻呂の邸宅である田村第にそのまま残った。彼女が粟田真人の縁者であり、藤原仲麻呂はその知名度・経済力を利用しようとした可能性が考えられる。 |