長沢松平~大河内松平

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松平信綱 松平信祝

 慶長元年(1596年)10月30日、徳川家康の家臣・大河内久綱の長男として生まれる。生母の深井氏は白井長尾氏の末裔である。慶長6年(1601年)に父・久綱の弟・松平正綱の養子となり、慶長8年(1603年)9月に徳川秀忠、11月に徳川家康と初めて拝謁し、秀忠の嫡男・徳川家光誕生後の慶長9年(1604年)7月25日には家光付の小姓に任じられた。
 元和9年(1623年)7月には徳川家光の上洛に従い、従五位下伊豆守に叙位・任官された。寛永5年(1628年)1月5日には相模高座郡・愛甲郡で8000石の所領を与えられて合計1万石の大名となった。寛永7年(1630年)5月17日には上野白井郡・阿保郡などで5000石を加増される。
 寛永10年(1633年)5月5日、家光より老中に任じられ、同時に1万5000石を加増されて3万石の上で武蔵忍藩に加増移封された。
 寛永15年(1638年)には幕府軍の総大将として肥前島原藩で起こった島原の乱鎮圧に務めた。その際、篭城する一揆軍に対してオランダ船に要請して援護射撃をさせたが、細川忠利らに暴挙であると諫止されている。戦後、一揆鎮圧の勲功を賞され寛永16年(1639年)1月5日には3万石加増の6万石の上で、武蔵川越藩に加増移封された。
 家光没後はその息子で第4代将軍となった徳川家綱の補佐に当たり、慶安の変や明暦の大火などの対応に務めている。藩政では城下町川越の整備、江戸とを結ぶ新河岸川や川越街道の改修整備、玉川上水や野火止用水の開削、農政の振興などにより藩政の基礎を固めた。寛文2年(1662年)3月16日に死去。享年67(満65歳没)。

 宝永6年6月21日(1709年7月27日)に父の隠居により家督を継ぐ。古河から吉田への国替えの時、古河の頼政神社より分霊して、吉田に豊城神社を建立した。最終的には遠江浜松に移封されている。
 諱ははじめ林信篤の撰により信高。享保4年(1719年)、やはり信篤の撰によって信祝と改めた。奏者番,大坂城代,老中など要職を歴任し、8代将軍・徳川吉宗の享保の改革に参与した。延享元年4月14日(1744年5月25日)、病気により老中辞職を願い出るが許されず、4月18日(5月29日。実際は16日(27日))に死去した。享年62。

松平信復 松平信礼

 享保4年(1719年)4月4日、浜松藩初代藩主・松平信祝の長男として谷中下屋敷で生まれる。側室の子であったが、父の正室菊姫(酒井忠挙養女)に子が無かったため、生後間もなく嫡子となる。享保15年(1730年)正月朔日に信復と名乗る。享保18年12月18日(1734年)、従五位下・左衛門佐に叙任する。
 延享元年(1744年)6月4日に亡父の遺領7万石を継ぎ、6月10日に伊豆守と改める。寛延2年(1749年)10月15日、浜松から吉田に転封される。宝暦2年(1752年)7月、藩校時習館を設立する。明和5年(1768年)8月から腫物を患い、江戸から御目見医師徳田玄秀を招いて治療にあたらせたが病状は回復せず、9月19日に吉田城内で死去した。享年50。
 信復の父・信祝は教育熱心であり、荻生徂徠の弟子・三浦竹渓を招聘して嗣子である信復の教育にあたらせた。竹渓に師事した信復は好学の殿様となり、詩歌や絵画,古楽の研究や横笛の演奏などで優れた才能を発揮した。その一方で、幕府老中として享保の改革の一翼を担った父と違って、幕政への意欲を示すことはなかった。
 信復が死去した際、領民の中から棺の搬送を希望する者があり、宰領庄屋3人と人足60人がこれに参加した。領民を憐れむ政治を行った信復の人柄を伺わせる事例である。

 寛保元年(1741年)11月1日に信礼と名乗る。父信復は正室を持たなかったため、長子である信礼が嫡男とされ、寛延4年(1751年)1月15日に将軍家重に御目見した。以後、父の吉田在城中は名代として公務を勤めた。宝暦元年(1751年)12月18日、従五位下甲斐守に叙任される。宝暦12年(1762年)6月27日、駿河田中藩主・本多正珍の養女・芳姫を娶る。
 明和5年(1768年)9月、国元にいた父・信復の病状悪化の知らせを受け、看病のため初めて吉田へ向かった。この時、父の死を挟んで10日間在城したが、信礼にとってのお国入りはこれが最初で最後であった。11月16日に家督を相続し、翌17日に伊豆守と改名した。
 明和6年(1769年)6月15日、藩主として初めての帰国を許されるが、眩暈により旅行が困難であることを理由に3度にわたって延期願を出し、そうこうするうちに10月11日に奏者番に任ぜられたことで帰国の件はなくなった。生来病弱であった信礼は、明和7年(1770年)1月の将軍紅葉山参詣の際に御鏡餅役は勤めたものの、5月下旬以降は病床に臥して全く登城できず、6月16日に死去した。享年34。
 学問は父・信復と同様に三浦竹渓に師事した。武芸にも励み、特に射撃の腕前がよかったという。古楽についてもまた父と同様に興味を持っており、楽書数十巻を購入した。

松平信明 松平信順

 幕府公認の記録である『寛政重修諸家譜』は、宝暦10年(1760年)生まれとしているが、これは信明が側室の出生であるところから、嫡子として幕府に届け出るにあたって年齢を水増ししたためである。
 明和7年(1770年)、父の死去により家督を継いで第4代藩主となる。しかし幼少のため、叔父の本庄道揚が補佐し、明和8年(1771年)の道揚の死後は松平正升と本庄道利が補佐した。安永6年(1777年)に従五位下・伊豆守に叙位・任官する。
 天明4年(1784年)2月14日に奏者番に任じられる。天明8年(1788年)2月2日に側用人に任じられ、4月4日に老中に任じられ、松平定信が寛政の改革をすすめるにあたって、定信とともに幕政に加わった。5月1日に従四位下に昇叙し、8月に侍従に任官される。
 寛政5年(1793年)に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導し、「寛政の遺老」と呼ばれた。享和3年(1803年)12月に老中を辞職しているが、文化3年(1806年)5月に老中に復帰し、死去するまで幕政を主導した。幕政主導の間は定信の改革方針を受け継ぐ一方で、蝦夷地開拓などの北方問題を積極的に対処しており、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を、文化4年(1807年)に西蝦夷地を幕府直轄地とした。その中、文化8年(1811年)にはゴローニン事件も起きている。文化14年(1817年)8月16日に死去。享年55。

 寛政5年(1793年)、松平信明の次男として江戸西丸下屋敷で生まれる。寛政9年(1797年)10月25日に嫡子となり、信順と名乗る。享和3年(1803年)9月22日、将軍家斉・世子家慶に御目見する。文化2年(1805年)12月16日、従五位下駿河守に叙任される。
 文化14年(1817年)8月に父が病死し、10月16日に家督を相続する。同21日に伊豆守と改める。襲封直後には、国元の家臣に対して文武出精,質素節倹などを指示する「御直書」を発している。文政元年(1818年)8月24日、奏者番に就任する。文政8年(1825年)5月6日、寺社奉行に就任する。天保2年(1831年)5月25日に大坂城代に就任し、従四位下に叙される。天保5年(1834年)4月11日に京都所司代となり、侍従に任じられる。天保8年(1837年)2月に大坂で大塩平八郎の乱が発生すると京都市中の警備を強め、朝廷への事件の報告や江戸・大坂間の連絡確保などに当った。その後、江戸に召しだされて5月16日に老中に就任するが、8月6日に病を理由に辞任する。わずか3か月で老中を辞任したのは、同役の水野忠邦と意見が合わなかったためとも言われている。天保13年(1842年)12月13日に隠居して刑部大輔と改め、家督は嫡子の信宝が相続した。天保15年(1844年)に小名木川屋敷で死去。享年52。
 学問を重んじ、父が招聘した大田錦城に儒学を学んだ。吉田へ帰国した際には錦城を伴い藩校時習館で講義させ、自らも聴講した。また中山美石に国学を学び、後に本居大平の門人となった。和歌にも通じており、本居春庭の和歌を集めた『春庭歌集』を編集したほか、信順自身が詠んだ和歌も多数残されている。
 京都所司代を務めていた際、天保の大飢饉による窮状においては、京都に救恤小屋を設けて、粥などを民衆に与えた。

松平信宝 松平信璋

 文政7年(1824年)、松平信順の長男として江戸谷中下屋敷で生まれる。父の正室に子がなかったため、文政9年(1826年)11月7日に嫡子となる。文政11年(1828年)11月23日、信宝と名乗る。天保8年(1837年)3月15日、初めて将軍家斉・世子家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下隼人正に叙任される。天保12年(1841年)7月、病身の信順の名代として吉田城へ入る。帰国中に鳳来山東照宮に参詣するなどし、天保13年(1842年)7月に江戸へ参勤する。
 同年12月13日に信順が隠居し、家督を相続して呉服橋内上屋敷に移る。翌14日、伊豆守と改める。天保14年(1843年)4月3日、備後福山藩世嗣・阿部正粹の娘を娶る。同年6月に帰国の暇を賜るが、病気により2度の延期願いを出す。天保15年(1844年)3月2日、隠居していた信順が病死する。その後、信宝自身も病に倒れ、帰国することなく10月17日に死去する(表向きには11月20日死去と公表)。享年21。跡継ぎがいなかったため、妹の貞姫を養女とし、分家の旗本・松平信敏の子の信璋を婿養子に迎えた。

 文政10年8月9日、旗本松平信敏の嫡子として江戸で生まれる。天保15年(1844年)11月20日、本家の松平信宝の婿養子となり、同月22日に呉服橋内上屋敷へ移り、信璋と改名する。
 弘化元年(1844年)12月29日に家督を相続し、遺領7万石を継ぐ。弘化3年(1846年)12月16日、従五位下・伊豆守に叙任される。このころの吉田藩は約29万8千両もの莫大な借財を抱えていたため、信璋は自ら財政改革に乗り出し、嘉永元年(1848年)9月に藩士の引米を再強化した。さらに吉田城内の大書院に御用達を集めて新規の御用金を依頼したほか、吉田城下の町役人,領内の村役人を集めて財政改革への協力を要請した。しかし、嘉永2年(1849年)7月27日(表向きには9月24日死去と公表)に改革の志半ばで死去した。享年23。子がなかったため、越前鯖江藩主・間部詮勝の次男の理三郎(信古)を妻・貞姫(房姫と改名)の婿に迎えた。

大河内信古 大河内正敏

 文政12年(1829年)4月23日、越前鯖江藩主・間部詮勝の次男として江戸で生まれる。嘉永2年(1849〔9月24日に吉田藩主・松平信璋の没後婿養子に迎えられ、同26日に信古と名乗る。同年11月15日に家督を相続し、12月1日に家督の御礼として初めて将軍家慶・世子家定に拝謁する。その後奏者番、寺社奉行を歴任する。
 万延元年(1860年)5月に正室が男子を出産するが、母子ともに亡くなってしまう。信古は異姓養子であったため、大河内松平家の血縁の女性を継室に迎えることが求められ、文久元年(1861年)12月10日に松平信祝の娘の血を引く越後新発田藩主・溝口直溥の娘を継室に迎えた。
 文久2年(1862年)6月30日に大坂城代に登用され大坂に向かうが、この時継室の同伴を願い出て許されている。大坂城代在任中は幕末の動乱期であり、約200年ぶりの将軍上洛や生野の変、第一次長州征討など様々な難問が山積していた時期であった。
 慶応元年(1865年)1月に江戸に召し出され、2月15日に溜間詰格となる。溜間詰は特定の親藩・譜代数家が世襲するもので、重要事について幕閣の諮問を受ける地位であった。これに老中を永年勤めて退任した大名が一代限りで溜間詰格として加わることがあった。したがって老中を経験していない信古が任命されたのは異例の抜擢と言える。
 慶応3年(1867年)12月13日、将軍慶喜に合流するため幕府の軍艦翔鶴丸で品川沖を発する。途中暴風雨に見舞われ、同月25日にようやく天保山沖に到着する。しかし慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、慶喜がひそかに大坂を脱出すると信古も大坂を離れ、陸路を経て吉田城へ帰城する。それまで吉田藩は穂積清軒らの佐幕派と勤王派に分かれていたが間もなく新政府軍に加わり、家名も「松平」から「大河内」に復姓した。
新政府側についた吉田藩は、鳥羽・伏見で旧幕府軍を指揮した大河内正質(信古の実弟)が藩主であった上総大多喜藩の領知人民を預けられ、さらには江戸を追放された信古の実父間部詮勝の護送役も命じられた。
明治4年(1871年)7月14日に廃藩となると東京谷中へ移住し、1884年(明治17年)7月8日に子爵を授与された。1888年(明治21年)11月27日に死去。享年60。

 理化学研究所(理研)の3代目所長、貴族院議員。旧上総大多喜藩主で子爵・大河内正質の長男として東京浜松町に生まれ、のちに旧三河吉田藩の子爵・大河内氏の養子となり、最後の藩主・大河内信古の娘を妻に迎える。学習院初等科時代は、大正天皇の御学友であった。東京帝国大学工学部造兵学科に入学。
 1903年(明治36年)、東京帝大を首席卒業、講師となる。その後、私費でヨーロッパに留学し、1911年(明治44年)の帰国後は東京帝大教授に就任する。この頃、寺田寅彦と共同で飛行弾丸の流体的な実験を行う。1914年(大正3年)工学博士。翌年、貴族院子爵議員補欠選挙で初当選、1918年(大正7年)原内閣の海軍省政務次官を務める。
 1921年(大正10年)9月30日、山川健次郎(東大総長)の推薦により、理化学研究所の所長に登用される。理研に主任研究員に自由をもたせる研究室制度を導入するとともに、研究成果の事業化を進め、理研を国際的な研究機関にまで育て上げた。1925年(大正14年)、東大教授の職を辞して理研の所長職に専念する。1927年(昭和2年)、ピストンリングに関する研究成果の事業化を目的に、理化学興業株式会社(後のリケン)を設立、同社は日本で初めて実用ピストンリングの製造を開始。その後も76におよぶ理研グループ(理研産業団)の会社を興し、理研産業団を新興財閥の一角を占めるまでに成長させる。
 1930年(昭和5年)、勲四等に叙され、瑞宝章を授けられる。
 1945年(昭和20年)12月6日、軍需産業,内閣顧問,原爆製造計画などに関与したことにより、連合国軍最高司令官総司令部による逮捕者リストに名を連ねた。戦争犯罪容疑で巣鴨拘置所に収監される。1946年(昭和21年)4月に釈放されるが、貴族院議員を辞職し、理化学研究所所長も辞任する。所長辞任後に 公職追放となる。1951年(昭和26年)8月6日、公職追放を解かれる。
 1952年(昭和27年)8月29日、脳梗塞で死去、享年73。墓所は、埼玉県新座市の平林寺(松平信綱以来の菩提寺)にある。
 なお、無名時代の田中角栄を引き立てたことでも知られる。

大河内信威 大河内桃子

 日本の美術史家,評論家,実業家、社団法人日本陶磁協会第5代理事長。元共産党員。別名を小川信一。号は風船子。一時、磯野姓を名のる。
 10代後半から左翼運動に興味を持ち、高校在学中から東京帝国大学を中心とする学生運動組織「新人会」に参加。小川信一のペンネームで、左翼文化団体の指導者となり、『日本資本主義発達史講座 第2部 資本主義発達史』の「労働者の状態及び労働者運動史」などの著作を発表。昭和初期に共産党再建事件で逮捕され、獄中で転向宣言して減刑されるも、華族社会に大きな衝撃を与え、大河内家から正式に相続廃除される。父親の正敏は貴族院議員など公職から退いた。
 釈放後、戦前は大多喜天然瓦斯(現:関東天然瓦斯開発)を経て、理研グループ各社の役員を務め、戦後は理研科学映画専務ののち、東邦物産嘱託となった。この間、陶磁史,茶道史の研究を深め、なかでも楽茶碗に関しては父子代々のコレクターでもあり、執筆のほか、自ら作陶もした。
 後に河原崎長十郎と結婚する河原崎しづ江と結婚していた時期がある。しづ江との間に一児(信具)を儲けるも、信威が豊島刑務所に収監中に離婚している。

 河内桃子の芸名で女優として活躍。俳優座所属。昭和20年代にデビューした女優としては久我美子と並ぶ名家出身で、祖父は理研グループ総帥で子爵であった大河内正敏、父は正敏の次男で画家であった大河内信敬。夫は今治松平家末裔でテレビプロデューサーの久松定隆。
 高校卒業後、OLをしていたが、1953年に東宝ニューフェイスの6期生として東宝に入社。同期には宝田明,佐原健二,藤木悠,岡田眞澄がいる。入社した年の『女心はひと筋に』で映画初出演を果たす。1954年の出演5作目『ゴジラ』ではヒロイン・山根恵美子役に抜擢され、その後も青春映画を中心に数多くの映画に出演し、1957年には年間で10作を数えた。
 演技を勉強し直すため、1958年に東宝を退社し、俳優座養成所に8期生として入所する。同期には山崎努,水野久美,嵐圭史,山本耕一,小笠原良知,松本典子がいた。その後は活動の軸足を舞台やテレビドラマへと移す。TBSテレビのホームドラマで活躍し、石井ふく子と橋田壽賀子の作品には常連出演していた。特に晩年の代表作である『渡る世間は鬼ばかり』では高橋文子(中田喜子)の義母・高橋年子役を演じた。
 1997年年の冬、俳優座の東北地方を中心にした巡業中に体調不良を訴え、年が明けた1998年1月に大腸がんと診断された。がんの進行が早く、発見時には手の施しようがなかったという。1998年11月5日、大腸がんのため入院先の東京都渋谷区広尾の日本赤十字社医療センター病院で死去。66歳没。 亡くなる直前の10月29日、病床で洗礼を受け、「マリア」の洗礼名が与えられた。
カトリック布教番組『心のともしび』『太陽のほほえみ』の朗読を永年務めた功績により番組が5000回に達した時にヨハネ・パウロ2世から「聖十字架章」を親授、朗読が1万回を迎えるのを記念して「感謝の集い」が1996年に東京都内のホテルで開かれ、教皇代理のカルー大司教から「聖シルベストロ教皇騎士団勲章」が贈られている。 

松平信望 松平堅綱

 元禄9年(1696年)8月13日、はじめて将軍徳川綱吉に拝謁する。元禄10年(1697年)12月5日に父の隠居により常陸国新治郡5000石の家督を相続し、小普請旗本に列した。元禄11年(1698年)3月、遠江国山名郡,城東郡,豊田郡,周智郡に所領を移された。元禄13年(1700年)1月11日、小姓となった。11月21日、綱吉の易経の講義に招かれて聞かされる。元禄15年(1702年)12月3日、従五位下・駿河守に叙任した。
 宝永6年(1709年)に綱吉が死去して徳川家宣・新井白石らが実権を握ると、小姓を解任されて寄合に列した。正徳3年(1713年)8月21日、定火消役としてお役目に復帰する。享保2年(1717年)8月15日、御書院番頭に転じた。享保7年(1722年)2月7日、大番頭に就任した。享保9年(1724年)11月15日、将軍・徳川吉宗の嫡男の徳川家重の側近となり、二の丸に入り、さらに享保10年(1725年)6月19日、家重に従って西の丸に移った。享保13年(1728年)4月に徳川吉宗が日光山へ赴いた際に、家重の使者として信望も日光山へ赴いた。元文元年(1736年)2月28日、病により宿直から外された。
 延享2年(1745年)9月25日から本丸勤務に変わったが、寛延元年(1748年)6月20日には高齢を理由に詰番の際にのみ登城するようになった。寛延3年(1750年)12月28日には年齢80が近くなった祝いに衣服に紅裏を着用することが許された。宝暦3年(1753年)10月9日、病を理由に職を辞することを申し出たが、許されなかった。宝暦4年(1754年)4月10日にようやく許しが出て幕府の職を辞した。さらに8月3日に隠居し、宝暦7年(1757年)9月4日に死去。享年84。

 寛永18年(1641年)に松平信綱の6男として生まれる。寛文元年(1661年)3月8日に初めて将軍家綱に御目見し、4月9日に中奥小姓となる。寛文2年(1662年)4月18日に父の遺領である武蔵埼玉郡の内で新墾田1000石を分与された。寛文5年(1665年)6月26日に死去した。
なお、分家した際に滝沢興也(曲亭馬琴の先祖)が家老となっている。

松平信成 松平信敏

 延享2年(1745年)12月2日に松平信応の末期養子となり、閏12月2日に遺領を相続する。同月12日に初めて将軍家重に御目見する。延享3年(1746年)2月12日に小納戸となり、12月18日に布衣の着用を許される。宝暦10年(1760年)5月13日に大御所・家重附となり、家重死後の宝暦11年(1761年)8月4日に寄合に列する。9月6日、再び小納戸となる。宝暦12年(1762年)11月1日、将軍世子・家基附となる。安永8年(1779年)に家基が亡くなったため、4月18日に再び寄合に列する。
 安永9年(1780年)4月5日に隠居し、養老料300俵を賜る。天明3年(1783年)5月6日に死去。享年65。
 信成の代の松平家に仕える用人に滝沢運兵衛興義がいた。興義の5男・倉蔵はのちの戯作者・曲亭馬琴(滝沢興邦)であり、松平家の屋敷跡地には「滝沢馬琴誕生の地碑」が立っている。安永5年(1776年)、10歳で兄から家督を譲られた倉蔵は信成の孫・八十五郎(信栄)の小姓を勤めていたが、安永9年(1780年)に松平家を出奔している。

 江戸時代後期の旗本。石高は1000石。文政5年(1822年)3月に父が死去したため家督を相続する。書院番を勤め、文政8年(1825年)12月7日に小納戸、文政10年(1827年)6月21日に小姓、天保4年(1833年)5月28日に徒頭、天保8年(1837年)2月9日に西丸目付となる。大御所時代が終焉してからは、天保12年(1841年)7月8日に佐渡奉行、10月17日に京都町奉行、天保14年(1843年)5月30日に先手鉄砲頭となる。弘化元年(1844年)10月に本家の三河吉田藩主・松平信宝が死去し、長男の信璋が養子に入る。弘化2年(1845年)12月12日、小普請奉行となる。嘉永2年(1849年)9月10日に死去。
 三河吉田藩主の実父となった信敏であったが、信璋とともに吉田藩家中からは軽視され、官名の「兵庫頭」をもじって「兵てき」と呼ばれて批判の的にされた。