長沢松平~大河内松平

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松平信興 松平輝貞

 寛永18年8月に徳川家綱の側近として中奥小姓,小姓組番頭、寛文7年正月には御側などを務めたほか、延宝7年に若年寄、天和2年に奏者番、貞享4年に大坂城代、元禄3年に京都所司代などの要職も歴任した。雑兵の戦場での体験談をまとめた『雑兵物語』の編纂に関与したという説がある。しかし実際の作者は不詳である。元禄4年(1691年)死去。
 信興には実子がなく、家督は養子の輝貞が継ぎ、最終的には上野国高崎藩主として幕末を迎える。

 領地は摂津国・河内国内→下野壬生→上野高崎→越後村上→上野高崎と変遷した。
 延宝2年(1674年)武綱と名乗り、天和2年(1682年)6月23日、元服と同時に輝貞と改名。信興養子の松平斐章が廃嫡されたため代わって嫡子となり、元禄4年(1691年)、家督を相続する。
 家督相続以前より5代将軍・徳川綱吉の小姓,側衆として仕え、側用人にのぼる。また、幾度か加増を受け、最終的に7万2000石を安堵される。しかし徳川家宣は6代将軍になると綱吉側近を排除し、輝貞も側用人を免職され村上に左遷されたが、徳川吉宗は8代将軍になると享保2年(1717年)、輝貞を再び高崎に復帰させ、同時に家格を溜詰格に昇格させた。さらに享保15年(1730年)には老中格に任命した。延享4年(1747年)に死去。

松平輝高 大河内輝声

 所司代在任中、竹内式部を逮捕した(宝暦事件)。同年老中にのぼり、安永8年(1779年)、松平武元死去に伴い老中首座となり勝手掛も兼ねる。天明元年(1781年)、輝高が総指揮をとり、上州の特産物である絹織物や生糸に課税を試み、7月、これを発表したところ、西上州を中心とする農民が反対一揆・打ちこわしを起こし、居城高崎城を攻撃するという前代未聞の事態に発展した(絹一揆)。幕府は課税を撤回したが、輝高はこの後、気鬱の病になり、将軍家治に辞意を明言するも慰留され、結局老中在任のまま死去した。これ以降、老中首座が勝手掛を兼務するという慣例が崩れることになる。

 

 上野国高崎藩の最後の藩主。高崎藩大河内松平家11代。はじめ松平姓を称した。
 安政6年(1859年)12月15日、将軍徳川家茂に拝謁する。万延元年(1860年)8月24日、家督を継いだ。元治元年(1864年)、天狗党の鎮圧を命じられ、11月16日に下仁田で高崎藩兵と天狗党が戦うが、36名の死者を出して敗走する。
 慶応2年(1866年)、藩政・軍政の近代化を始め、農兵を募って「強心隊」を結成した。8月5日、甲府城代を命じられる。慶応3年(1867年)9月6日、奏者番に就任した。同年10月29日、陸軍奉行並に就任した。慶応4年(1868年)1月20日、辞任する。同年閏4月4日、上洛する。幕末動乱の時代にあって軍費の増大と役職に伴う出費、譜代大名としての見栄を張るための支出が財政を圧迫したため、本領の高崎領5万石に「八公二民」の重税を課した。
 慶応4年(1868年)4月、松平姓を改め、本姓の大河内に復する。明治2年(1869年)に版籍奉還が勅令された後は知藩事として旧領土を統治し、明治4年(1871年)に廃藩置県を迎えた。その後、大学南校で英語を学び、東京に英学校を設立した。なお、版籍奉還後すぐに数千人の高崎領民が重税撤廃を求めて何度かデモンストレーションを決行したが、そのたびに代表者を監禁・処刑するなどしてしのいだ。
 漢学的教養による中国文化愛好者としても知られ、日本に赴任した清国公使・何如璋との交流の記録は『大河内文書』に述べられている。