光遠親王,宗像清氏,清氏親王とも。出自について宇多天皇の末子とも、第4子とも、また弟という説があるが、伝承の域を出ない。宮司就任が914年と天皇と同時代であることは窺える。 昌泰元年(898年)太政大臣、源清広の猶子となって源姓を賜り、正三位中納言の官位を得た後、延喜14年(914年)3月に宗像神社の宮司となり、天慶元年(938年)まで務めたとされる。 子孫は大宮司職を世襲する。子に宗形氏男など。母は藤原継蔭の娘・又若子。清氏ははじめ光遠親王といい、古代豪族の宗形千世が難波氏を賜り宗像の地を去ると、宗像神社宮司に就任した際に宗形清氏と改名したとされる。
平安時代末期の宗像大社の第25代・第28代・第30代・第32代・第35代大宮司である。文治3年8月7日、源頼朝から従来通りの支配権を認められ、鎌倉幕府御家人となった。以後、宗像大宮司家が宗像地方を支配する武士団として展開することとなる。