<神皇系氏族>地祇系

MK02:宗形清氏  胸形徳善 ― 宗形清氏 ― 宗像氏盛 MK03:宗像氏盛

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黒川隆尚 黒川菊姫

 生年には1500年,1512年など諸説があって明確ではない。1508年、時の宗像神社大宮司であった従兄弟の宗像興氏から家督を譲られて大宮司となる。その後は大内義興に仕えて尼子氏や大野氏との戦いのために出雲や安芸を転戦した。
 1527年、弟の氏続を猶子として、大宮司の家督を譲った。1528年、義興の死後は大内義隆に仕えたが、このとき義隆から周防黒川郷を与えられたため、偏諱を与えられて黒川隆尚と改名した。そして間もなく家督を譲っていた弟の氏続を除いて、再び家督に復帰している。正氏には庶子として氏貞がいたが、死の直前の1547年に家督を猶子の氏男(黒川隆像)(氏続の息子または弟)に譲って隠居し、同年のうちに死去した。没年には1551年説もある。

 宗像氏の家督を巡る争いに巻き込まれ、悲劇的な最期を遂げたことで知られる。その死後の数々の伝説が残された。
 父の正氏は大内家への軍役を果たすために、菊姫親子を宗像の地に残し山口に3年間ほど出仕しており、この期間に大内家の実力者・陶隆房(陶晴賢)の姪照葉を第二夫人に迎え、菊姫の異母兄弟となる鍋寿丸(氏貞)と色姫をもうけていた。
 菊姫は14歳の頃に伯父で父正氏が山口出仕の際に大宮司を務めた氏続の子氏男と結婚した。正氏の死後は氏男が宗像大宮司の家督を継承し、正氏と同じく山口に出仕しているが、この結婚は長くは続かず、陶隆房が蜂起した大寧寺の変により氏男は主君大内義隆に殉じて死亡している。
 当主を失った宗像家では氏男の弟千代松を推す派と氏男の未亡人である菊姫、異母弟鍋寿丸を擁立する派に二分し家督を巡る争いが生じた。最終的にこの争いは、陶隆房の後押しを受けた鍋寿丸側が勝利し、千代松及びその父氏続は豊前に逃れるも、討手を差し向けられ千代松は山口(宮若市)で、氏続は彦山で討たれた。この家督を巡る争いには菊姫親子も否応なしに巻き込まれることとなった。天文21年3月23日の夜山田の館で、鍋寿丸側から命を受けた家臣により山田局、18歳の菊姫、四人の侍女が惨殺された。館内は血の海と化し、館に乱入した雑兵により財宝を奪われたという。菊姫ら6人の遺体は館の裏側の崖下に穴を掘って埋められた。 
 この事件の後に、宗像家中では事件に関わった者たちが次々と怪死や変死し、数々の怪異が起き、宗像領内では山田事件の怨霊がささやかれたという。また、事件の七回忌にあたる永禄7年には、菊姫の異母妹色姫が突然髪を振り乱し、母照葉の咽喉笛に噛み付き、発狂するということも起きている。山田事件の後に、鍋寿丸から名を改め、第70代宗像大宮司を相続した氏貞は、家内や領内で起こる数々の怪異や不幸が幼少期におきた悲惨な事件が原因だと考え、多くの僧を呼んで菊姫ら6人の大法要を営み、領内に56のも寺院を建て6人の鎮魂と慰霊を努めたという。

黒川氏貞 黒川色姫

 父・正氏は大内氏に属し天文16年(1547年)に死去すると、その家督は父の猶子・宗像氏男が継ぐことになった。ところが天文20年(1551年)、陶晴賢の謀反により大内義隆が討たれた大寧寺の変において、氏男は義隆を守り奮戦するが討死した。
 そのため、宗像氏内部で家督争いが起こる。鍋寿丸の相続を支持する一派が白山城に、宗像千代松(氏男の弟)を支持する一派が蔦ヶ岳城に立て籠もって家督を巡って争った。しかし陶晴賢は鍋寿丸の家督相続を支持したため、鍋寿丸がこの争いに勝利して、1551年9月12日、鍋寿丸は宗像に入り、翌年宗像大宮司に補任され、宗像総領を継いだ。1552年、山田事件が起き、宗像氏男の父である宗像氏続は英彦山に逃亡するも、その年の暮れに土橋氏康によって殺害された。氏貞は山口派の領主として活動し、吉見正頼が打倒陶の兵を挙げた1554年の石見三本松城にも参加している。また、1555年の厳島の戦いで陶晴賢は自刃するが、この戦いに宗像勢も参加したという説があるが実際は不明。小早川隆景は宗像を騙り、厳島の陶軍の陣に兵を紛れ込ませたともいわれている。
 1557年、鍋寿丸は元服し宗像氏貞と名乗る。翌年には杉連緒とも戦う。この頃大内氏滅亡により宗像郡内にあった大内氏所領・西郷庄の代官河津隆家が氏貞に帰属を決め、河津隆家を中心とした西郷党を支配下に置く。そして大内氏の北九州所領を引き継いだ大友氏に従うこととなる。しかし、毛利氏が北九州に侵攻すると、秋月氏らとともに大友氏を離反。1559年9月25日、宗像の地を大友氏の支援を得た宗像鎮氏が襲撃、氏貞は宗像を捨て逃亡するが、毛利氏の支援を得て、1560年3月27日に所領を奪回し、4月18日、そして8月16日~19日、翌年の3月15日まで、許斐山城,赤間表,長者原,白山城,蔦ヶ嶽城,吉原里城に数度大友軍立花鑑載,怒留湯融泉,吉弘鑑理,高橋鑑種,臼杵鑑速,立花道雪らの攻勢を防いだ。その後毛利氏と大友氏の講和が成ると、氏貞も大友氏と講和する。
 1567年、高橋鑑種が大友宗麟に叛旗を翻すと、氏貞も同調し、秋月種実,筑紫惟門,大友一族の立花鑑載も同調する。これにより筑前・豊前は大混乱となり、大友氏と毛利氏は立花山城攻防戦等、北九州各地で干戈を交えた。1569年、北九州より毛利氏が撤退すると、大友氏に降伏。講和条件として大友氏の重臣臼杵鑑速の娘を宗麟の養女として、1570年に妻とした。もう一つの条件として家臣の河津隆家の殺害があり、氏貞はやむなく隆家を殺害した。殺害したものの、これを深く悔やんだ氏貞は隆家の子供達を取り立てて、一門同様の扱いとした。戸次鑑連(立花道雪)が立花氏の家督を継ぎ、立花山城主となるとその関係に氏貞は心を砕いた。自身の妹を人質として側室に差し出したのも苦心の表れであろう。
 1581年、秋月種実が大友領への侵攻を開始。一部の宗像家臣が立花勢の兵糧を強奪し、道雪は激怒。氏貞は謝罪に努めるも道雪は軍を出し、宗像氏への攻撃を開始した。一度は立花勢を撃退するも、最終的には守りきれず、宗像を捨てて逃亡。1584年には、側室兼人質として立花道雪の元にいた氏貞の妹・色姫が、氏貞と道雪の対立に心を痛めて自害している。1585年に立花道雪が病死すると、すぐさま反撃を開始し旧領を回復した。翌1586年、豊臣秀吉の九州征伐前に急死した。
 氏貞の子の塩寿丸が亡くなり氏貞の未亡人も去った為、家督は事実上擬大宮司職(大宮司職に次ぐ職)の一族の深田氏栄が後を継ぐことになった。なお、翌年の秀吉の九州征伐によって、宗像大社の大宮司の権限は、祭礼のみに限定されることとなった。

 5歳のとき陶隆房のクーデターにより大内義隆が自害し、父・正氏の跡を継いだ異母姉菊姫の夫で、色姫の従兄弟にあたる宗像氏男が戦死する大寧寺の変がおきている。大寧寺の変後間もなく、天文20年(1551年)9月12日に色姫と母照葉,兄鍋寿丸は初めて宗像に入国した。氏男戦死後の宗像家内は氏男の弟千代松を擁立する勢力と鍋寿丸を擁立する長州派に二分しており家督を巡って合戦を繰り広げた。最終的には長州派が勝利し鍋寿丸は名を氏貞と改め第70代宗像大宮司を相続した。この家督を巡る争いにより異母姉菊姫とその母山田夫人が長州派によって惨殺される山田事件がおきた。
 山田事件の後は関係者の怪死や変死、数々の怪異がおきており、色姫もまた12歳の時に奇怪な言動の記録がある。事件の7回忌にあたる永禄元年(1558年)3月23日に母照葉と双六を興じていた際に、突然立ち上がり、髪を振り乱し、照葉の咽喉笛に噛み付いたという。その後、「われは山田の怨霊なり」と叫び、山田事件の惨状や恨み辛みなどを話続けたという。
 元亀2年(1571年)、25歳の色姫は大友家一族で立花山城城主の立花道雪のもとへ輿入れした。当時の道雪の年齢は59歳であり、正室がすでにいたため側室としての輿入れであった。宗像氏は陶隆房亡き後、毛利氏と結びつき大友氏とは敵対関係にあったが、毛利本国の内乱勃発により毛利氏が北部九州から撤退し、大友家との講和を結ぶ必要となった。両家の和議により色姫が立花家に嫁ぐこととなったが、側室をいう立場も当時の宗像家としては毛利の支援がない以上、承服せざるを得なかった。この婚姻に際して、色姫の化粧料として西郷(福津市)の地300町を持たせた。色姫は立花山城の松尾丸を与えられたので「松尾殿」と呼ばれた。平時は立花山麓の青柳村石瓦で暮らしたという。
 宗像氏と立花氏との和議のために輿入れした色姫であったが、両家の間には天正9年(1581年)に小金原の戦いがおきている。道雪から鷹取城主・毛利鎮実への食料援助の列を若宮の宗像の郷士が襲撃したことが発端であるが、この郷士は色姫の化粧料を送った際に先祖代々の地西郷から若宮へ移住させられた者たちであった。宗像家中の反立花勢力も加わり小金原台地で合戦で多くの者が亡くなった。
 小金原の戦いの3年後天正12年(1584年)3月24日に色姫は38歳で病死した。青柳村字河原に埋葬された。平時に暮らした石瓦の屋敷跡には菩提寺の竹龍院が建てられ、天正15年(1587年)には道雪の婿養子立花宗茂により田地7町が寄進された。

黒川隆像 宗像氏隆

 永正9年(1512年)、宗像氏続または宗像氏佐の子として誕生。氏続の兄・宗像正氏(黒川隆尚)の養子となる。その後、大内義隆に仕え、偏諱を受け黒川隆像と改名する。
天文20年(1551年)9月1日、大寧寺の変で主君・義隆が自害したのに伴い殉死する。

 大内義隆に招かれ、黒川姓を名乗り、陶晴賢の謀反で死亡した宗像大社の第79代宮司・宗像氏男の子。幼名・国丸。父が大内義隆と共に死亡した後、陶晴賢に殺されそうになるが、宗像の旧臣らによって救出され、長門国へ落ち延びた。以後、帰農して寛永19年(1642年)11月29日に90歳を越える天寿を全うして死去したという。
 宗像氏貞は嫡子が夭折し、自身も子を残さないまま病死した為に直系の宗像氏の血筋は絶えたが、氏貞の従兄弟に当たる氏隆の家系は現在にも残っている。