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牧野康成 | 牧野信成 |
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まだ徳川氏が三河西部の国人領主松平氏であった時代に三河東部の有力国人であった牧野氏は、駿河・遠江の戦国大名・今川氏と、新興勢力であった松平氏との間で翻弄されていた。徳川家康(当時は松平家康)が東三河に侵攻し優勢になった永禄8年(1563年)に牧野山城守は、嫡子・半右衛門正勝(のちの康成)と共にいち早くに内通した。その後は牛久保城主・牧野氏の徳川家康に対する帰順と、家康の三河平定に寄与した。国人領主牧野氏の庶流の一つに過ぎなかった牧野山城守定成,康成,信成の3代は、こうして家康の信任を得て、やがて譜代大名に上り詰めた。 |
慶長4年(1599年)、康成の死去により信成が家督を継ぐ。この康成は、第二次上田合戦に参加して牛久保城主から大胡城主となった牧野右馬允康成とはまったく別人であり、混同されないように、康成・信成の系統は牧野山城守の一族と注釈して説明されることが多い。所領は武蔵国足立郡石戸にあった。 |
牧野親成 | 牧野宣成 |
兄・九右衛門の早世により嗣子となった。父から独立した旗本として取り立てられ、幼少期から2代将軍徳川秀忠の小姓役などを務めた。寛永10年(1633年)1月に膳番に、8月に徒頭に任じられて上総国高根村に1000石を与えられた。寛永19年(1642年)3月に書院番頭、寛永21年(1644年)3月に4000石を加増、さらに父の旧領である武蔵国足立郡石戸1000石を加増され、5000石の大身旗本となった。 |
寛政の改革では老中首座・松平定信のブレーンとして幕政に参与した。藩政では田辺城三の丸に藩校・明倫斎を創設して学問を奨励し、藩士子弟の教育振興に努めた。寛政4年(1792年)には80歳以上の百姓,町人に褒美を与え、凶作に備えて備蓄制度を整備している。文化元年(1804年)8月22日、病気を理由に家督を長男の以成に譲って隠居する。
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牧野誠成 | |
嘉永5年(1852年)6月5日、父が病気で隠居したため家督を継いで9代藩主となった。安政2年(1855年)2月に大坂加番に任じられる。元治元年(1864年)3月に二条城警備、7月の禁門の変では幕府方として参加して御所の警備を務めた。8月の第一次長州征討では14代将軍・徳川家茂の警護を務めている。これらの功績から、9月10日には奏者番に任じられた。 |