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牧野成儀 | 牧野成時 |
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寛永5年(1628年)書院番となり、寛永18年(1641年)小姓組頭、寛永21年(1644年)書院番頭となる。遺領は没後、長男・成長が3000石を継ぎ、2男・成貞が2000石の分知をうけた。成長はやがて罪を得て絶家した。しかし成貞は、館林藩主・徳川綱吉の家老となり知行3000石となり、綱吉が5代将軍に就任すると加増されて諸侯に列した。 |
上総国久留里藩の藩祖にあたる黒田用綱の4男として誕生した。正室は牧野成貞次女の安。 |
牧野 安 | 牧野貞通 |
関宿藩主・牧野成貞の次女として生まれる。母は大戸阿久里。成貞には男子が生まれなかったため、安の婿に黒田用綱4男の成時を迎えた。しかし、5代将軍・徳川綱吉が牧野邸を訪れた際に、安に惚れ込み手を出したとされ、夫の成時はその際に切腹したと言われている。 |
徳川綱吉の側近・牧野成貞の長男。母は側室の藤田氏で成貞74歳の時の子だった。牧野家の家督は成貞の後、養子の成春、その長男の成央が継いでいたが、成央が21歳で早世したため、跡を継ぐこととなった。 |
牧野貞長 | 牧野貞喜 |
5男であったが、長兄の忠敬が越後国長岡藩主となり、次兄の貞隆が早死したため、寛延2年(1749年)に笠間藩嗣子となり家督相続した。宝暦9年(1759年)に奏者番となり、安永6年(1777年)に大阪城代、天明元年(1781年)に京都所司代と累進した。1784年(天明4年) ~1790年(寛政2年)にかけての7年間、老中として江戸幕府の枢機に参画した。政治的知見は、父・貞道に譲らず卓抜で、物事の決断を明確に処理し、稀に見る為政者であると尊敬され、老中在任中は、極めて適切な政策を次々と立案・進言したので、将軍徳川家治,家斉からの信頼も深かったといわれる。また、慈愛心が深い人物で、閣老であったときに、多くの孝子・義僕を表彰した。 |
宝暦14年(1764年)1月11日に貞喜と名乗る。寛政4年(1792年)3月21日、父の隠居で家督を継ぎ、3月22日に備中守に遷任する。寛政5年(1793年)3月7日に日向守に遷任する。12月16日には奏者番に任じられた。 |
牧野貞一 | 牧野貞直 |
文政2年(1819年)11月25日に貞一と名乗った。文政11年(1828年)に父が死去したため家督を継ぎ、12月25日に江戸城桜田門番を勤めている。文政12年(1829年)12月16日に従五位下・越中守に叙位・任官された。 |
文政13年(1830年)11月27日、第3代藩主・牧野貞喜の4男・布施重正の次男として生まれる。嘉永3年(1850年)に本家の第7代藩主・牧野貞久(貞喜の曾孫、貞直の従甥にあたる)が死去したため、嘉永4年(1851年)4月にその養子となって家督を継ぐ。5月16日に江戸城西の丸大手御門番に任じられ、12月16日に備後守に任官する。嘉永5年(1852年)11月28日の江戸城西の丸火災の消火で功績を挙げた。 |