<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

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牧野成儀 牧野成時
 寛永5年(1628年)書院番となり、寛永18年(1641年)小姓組頭、寛永21年(1644年)書院番頭となる。遺領は没後、長男・成長が3000石を継ぎ、2男・成貞が2000石の分知をうけた。成長はやがて罪を得て絶家した。しかし成貞は、館林藩主・徳川綱吉の家老となり知行3000石となり、綱吉が5代将軍に就任すると加増されて諸侯に列した。

 上総国久留里藩の藩祖にあたる黒田用綱の4男として誕生した。正室は牧野成貞次女の安。
  徳川綱吉の側近として活躍した牧野成貞の養子となる。天和元年(1681年)12月に、成貞の次女・安と結婚、はじめは成住と名乗る。天和2年(1682年)、美濃守に叙任する。妻・安は綱吉に望まれて大奥に入ったとも言われており、大奥入りした夜に切腹したとも、貞享4年(1687年)9月27日に食傷で死亡したとも伝わる。成時の没後は、成春(牧野家臣・大戸吉房の子)が養子となった。

牧野 安 牧野貞通

 関宿藩主・牧野成貞の次女として生まれる。母は大戸阿久里。成貞には男子が生まれなかったため、安の婿に黒田用綱4男の成時を迎えた。しかし、5代将軍・徳川綱吉が牧野邸を訪れた際に、安に惚れ込み手を出したとされ、夫の成時はその際に切腹したと言われている。
 牧野家では安だけでなく、母の阿久里も綱吉のお手付きとなったとされ、阿久里は『幕府祚胤伝』などに側室として記録されている一方で、安の名前はどこにも記録されていない。また、阿久里と安が大奥へ入ったという話は後世の創作という説もあり、成時の死因についても食傷とする説もある。元禄2年(1689年)9月3日、享年21で死去。

 徳川綱吉の側近・牧野成貞の長男。母は側室の藤田氏で成貞74歳の時の子だった。牧野家の家督は成貞の後、養子の成春、その長男の成央が継いでいたが、成央が21歳で早世したため、跡を継ぐこととなった。
 享保19年(1734年)28歳で奏者番、翌20年(1735年)には寺社奉行を兼任する。元文4年(1739年)に越後長岡藩と相談の上、長岡藩主・牧野忠周の嗣子として、自分の嗣子である忠敬を長岡藩嗣子とし、併せて自身の家を長岡藩主家の分家として位置づける。なお、忠敬の代わりに次男の貞隆を嗣子とするが寛保元年(1741年)に早世したため、3男の貞長を嗣子とする。
 寛保2年(1742年)には従四位下に上り、京都所司代に就任した。実績が認められ、延享4年(1747年)には常陸笠間藩に転封となった。延享5年6月(1748年)に長岡藩を相続した忠敬が死去すると、長岡藩江戸藩邸に入って相続の相談に加わり、忠敬の末期養子として9男の忠利を長岡藩主にする。
 寛延2年9月13日(1749年)、任地の京都において43歳で没する。なお、公式系図では貞通の子とされる、忠利の跡を継いで長岡藩主となった牧野忠寛は、実は忠敬の養父である牧野忠周の実子であるが、貞通の死後の寛延3年(1750年)に笠間藩を継承した貞長によって故人・貞通の猶子となったとしている。

牧野貞長 牧野貞喜

 5男であったが、長兄の忠敬が越後国長岡藩主となり、次兄の貞隆が早死したため、寛延2年(1749年)に笠間藩嗣子となり家督相続した。宝暦9年(1759年)に奏者番となり、安永6年(1777年)に大阪城代、天明元年(1781年)に京都所司代と累進した。1784年(天明4年) ~1790年(寛政2年)にかけての7年間、老中として江戸幕府の枢機に参画した。政治的知見は、父・貞道に譲らず卓抜で、物事の決断を明確に処理し、稀に見る為政者であると尊敬され、老中在任中は、極めて適切な政策を次々と立案・進言したので、将軍徳川家治,家斉からの信頼も深かったといわれる。また、慈愛心が深い人物で、閣老であったときに、多くの孝子・義僕を表彰した。
 寛政8年(1796年)9月、64歳で病没。江戸深川の要津寺に埋葬されたが、現在は改葬して笠間市笠間の盛岸院にある。

 宝暦14年(1764年)1月11日に貞喜と名乗る。寛政4年(1792年)3月21日、父の隠居で家督を継ぎ、3月22日に備中守に遷任する。寛政5年(1793年)3月7日に日向守に遷任する。12月16日には奏者番に任じられた。
 この頃の笠間藩牧野家では、父の時代からの藩財政悪化により、重税を行ない、さらに天明の大飢饉による被害などで農村は荒廃し、人口も減少していた。このため、貞喜は藩政再建のために藩政改革に乗り出す(寛政改革)。良水という僧侶を登用して、家臣の俸禄削減や倹約令の徹底、年貢収納の強化、北陸地方の農民移住の奨励などを行なった。これらは一定の成果を挙げたが、北陸の農民を移住させたことが加賀藩の怒りを買い、そのため文化5年(1808年)に良水は自害に追い込まれた。これにより、改革は一時的に停滞する。
 文化6年(1809年)、貞喜は川崎頼母を登用して新たな藩政改革に乗り出した(化政改革)。農村支配の強化や次男・三男の分地・分家取立てによる人口増加、窮民への資金融資、出生や多子を持つ親への褒賞、勧婚などを行なったのである。さらに農業以外にも分業を奨励し、囲米なども行なった。また藩校・時習館を創設して優秀な人材を積極的に登用し、藩士の意見を広く取り立てるために上書の制を採用した。これらは笠間藩の再建に大きく効果を挙げている。
 文化14年(1817年)10月21日、足病を理由に家督を次男の貞幹に譲って隠居する。以後も藩政の実権を握って改革を推進しながら、俳諧の世界に入って江戸可因に師事し、「菊畠」などの作品を残している。文政5年(1822年)10月17日に死去、享年65。
 牧野氏の歴代藩主の中でも随一の名君であり、当時から中興の英主として評価された。多芸な大名で、作陶を趣味とし、自ら城内で御庭焼を行った。また政策としても窯業を奨励し、笠間焼を発展させた。

牧野貞一 牧野貞直

 文政2年(1819年)11月25日に貞一と名乗った。文政11年(1828年)に父が死去したため家督を継ぎ、12月25日に江戸城桜田門番を勤めている。文政12年(1829年)12月16日に従五位下・越中守に叙位・任官された。
 積極的な藩政改革に乗り出し、農民の食糧確保や米の買い入れ、藩内の穀物調査や囲米の強化、上層農民からの借上、農業奨励による再生産の維持など、主に自給自足体制を整えるための政策を行っている。この政策のおかげで、天保の大飢饉では被害を最小限で乗り切ることに成功した。天保6年(1835年)には藩士の練士場を創設して訓練を行うなど、藩政の立て直しに辣腕を振るっていたが、天保11年(1840年)11月27日に死去した。享年26。
 子の貞久は幼少のため、弟の貞勝が養子となって跡を継いだ。

 文政13年(1830年)11月27日、第3代藩主・牧野貞喜の4男・布施重正の次男として生まれる。嘉永3年(1850年)に本家の第7代藩主・牧野貞久(貞喜の曾孫、貞直の従甥にあたる)が死去したため、嘉永4年(1851年)4月にその養子となって家督を継ぐ。5月16日に江戸城西の丸大手御門番に任じられ、12月16日に備後守に任官する。嘉永5年(1852年)11月28日の江戸城西の丸火災の消火で功績を挙げた。
 嘉永7年(1854年)4月26日、江戸城桜田門番に任じられる。安政5年(1858年)6月25日に越中守に遷任し、万延元年(1860年)6月26日に奏者番、12月28日には寺社奉行に任じられる。しかし文久2年(1862年)の文久の改革で奏者番は廃止された。元治元年(1864年)4月28日、名を貞明から貞利と改め、同年に起こった天狗党の乱では幕府軍として鎮圧に努めた。11月1日に大坂城代に任じられる。
 慶応4年(1868年)1月の戊辰戦争では、大坂城代だったこともあって幕府方に与したが、その緒戦である鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、徳川慶喜が海路から逃亡したのに対し、家臣3人だけを連れて陸路から江戸へと逃げのびた。1月20日に大坂城代を辞任した。また、藩内でも佐幕派と尊王派に分裂して抗争した結果、新政府に属して4月8日に宇都宮藩に対して出兵している。
 明治元年(1868年)12月5日、家督を長男の貞寧に譲って隠居する。明治2年(1869年)8月12日に貞直と改名した。明治20年(1887年)1月13日に死去した。享年58。