<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

K008:武内宿禰  武内宿禰 ― 葛城襲津彦 KZ01:葛城襲津彦

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葛城襲津彦 葛城磐之姫

 襲津彦のモデル人物は実在を仮定すれば4世紀末から5世紀前半頃の人物と推測されるが、その頃に氏・カバネは未成立であるため、「葛城」というウジ名のような冠称は記紀編纂時の氏姓制度の知識に基づいて付されたものになる。
 また、『日本書紀』所引の『百済記』に壬午年(382年)の人物として見える「沙至比跪」は、通説では襲津彦に比定される。
『日本書紀』では、神功皇后,応神天皇,仁徳天皇に亘って襲津彦の事績が記されている。
 神功皇后5年3月7日条では、新羅王の人質の微叱旱岐が一時帰国したいというので、神功皇后は微叱旱岐に襲津彦をそえて新羅へと遣わしたが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられてしまう。これに襲津彦は怒り、使者3人を焼き殺したうえで、蹈鞴津に陣を敷いて草羅城を落とし、捕虜を連れ帰った(桑原,佐糜,高宮,忍海の4邑の漢人らの始祖)。
 応神天皇14年是歳条では、百済から弓月君が至り、天皇に対して奏上するには、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないという。天皇は弓月の民を連れ帰るため襲津彦を加羅に遣わしたが、3年経っても襲津彦が帰ってくることはなかった。
天皇は襲津彦が帰国しないのは新羅が妨げるせいだとし、平群木菟宿禰と的戸田宿禰に精兵を授けて加羅に派遣した。新羅王は愕然として罪に服し、弓月の民を率いて襲津彦と共に日本に来た。
 仁徳天皇41年3月条には、天皇は百済に紀角宿禰を派遣したが、百済王族の酒君に無礼があったので紀角宿禰が叱責すると、百済王はかしこまり、鉄鎖で酒君を縛り襲津彦に従わせて日本に送ったという。
 『古事記』では「葛城長江曾都毘古」の名で見えるほか、『紀氏家牒』逸文では大倭国葛城県長柄里(現・奈良県御所市名柄か)に住したので「葛城長柄襲津彦宿禰」と名づけたとあり、葛城地方の長柄(長江)地域との深い関係が指摘される。また、襲津彦の子孫のうち、仁徳皇后の磐之媛命が履中,反正,允恭を産んだと見えるほか、襲津彦男子の葦田宿禰の娘の黒媛も履中の妃となった見えており、5世紀代における天皇家外戚としての葛城勢力の繁栄が推測されている。

 仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年に立后。葛城襲津彦の娘で、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇,住吉仲皇子,反正天皇,允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮に移り、同地で没した。
的 戸田 葛城玉田

 『日本書紀』巻第十によると、応神天皇16年に平群木菟宿禰とともに加羅へ派遣された。その際に、天皇から精兵を授けて詔して『襲津彦が長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち、その道を開け』といわれた。新羅の国境に臨んだところで、新羅王は恐れて罪に服し、弓月の人夫を率いて、襲津彦とともにかえってきた、という。
 巻第十一では、仁徳天皇12年(この間、記録通りに時間が過ぎたとすると、上記の出来事から55年後となる)に、誰も貫通させることのできなかった鉄の的に、唯一盾人だけが射通した。翌日、盾人宿禰は功績を讃えられて、的戸田宿禰という名前を賜った。このことについて、本居宣長は『古事記伝』の中で、盾の的を射たのだから、戸田を「盾人」に改めたのではないか、という説をあげている。このとき、小泊瀬造の祖先である宿禰臣も賢遺臣の名を賜っている。
 この5年後、戸田宿禰と賢遺臣は新羅に派遣され、大和政権に貢ぎ物を献上しないことを問責した。新羅人は懼って調の絹1,460匹及び種々雑物併せて八十艘を献上したという。

 『日本書紀』允恭天皇5年7月14日条によると、玉田宿禰は反正天皇の殯を命じられていたが、地震(允恭地震:日本の記録上初めての地震)があったにも関わらず酒宴を行なっていて殯宮にいなかった。允恭天皇は尾張連吾襲を遣わして調べさせたが、玉田宿禰は事の発覚を恐れて吾襲を殺し、武内宿禰(葛城襲津彦の父)の墓域に逃げ込んだ。天皇は玉田宿禰を呼び出したが、玉田宿禰が鎧を身につけているのを見つけ、これを誅したという。
葛城 円 葛城烏那羅

 履中天皇2年(401年)、国政に参加する。安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子を屋敷に匿う。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛と葛城の屯倉7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される(『日本書紀』)。
 『古事記』では、坂合黒彦皇子は逃げ込む前に討たれ、差出した屯倉も5ヶ所になる。また、焼き殺されたのではなく眉輪王を殺して自害したことになっている。

 蘇我馬子が物部守屋を討った際、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇),厩戸皇子らと共に参陣した。崇峻天皇4年(590年)11月新羅討伐大将軍の一人として諸氏の臣・連を率いて裨将部隊2万余を領し、筑紫に在陣した(ただし実際に渡海はしていない)。
 厩戸皇子が伊予国の温泉に行啓した折には、同じく側近の僧・恵慈と共に同行した。

朝野鹿取

 立身するために、叔父・忍海原道長の養子となる。延暦10年(791年)忍海原魚養の言上により、一族と共に忍海原連から朝野宿禰に改姓する。延暦11年(792年)自ら申請して父の戸籍に戻るが、この際に父の鷹取も朝野宿禰姓を追賜されている。若くして大学寮で学び『史記』『漢書』を修得する。
 大学寮で学んだ知識を評価されて、延暦21年(802年)遣唐使の准録事として入唐し翌年帰国。のち大宰大典,式部少録,左大史,左近衛将監を歴任する傍ら、『日本後紀』『内裏式』の編纂に携わり、さらに皇太子・神野親王(のち嵯峨天皇)の侍講も務めた。
 嵯峨天皇即位後、順調に昇進し、嵯峨天皇譲位・淳和天皇即位を通じて、蔵人頭を辞任して左中弁に遷任する。天長4年(827年)従四位上・大宰大弐に叙任される。鹿取は大弐の任を解くことを求めて上表するが許されず、淳和朝後半は大宰府に下向した。
 仁明天皇が即位した天長10年(833年)参議に昇進して公卿に列す。議政官として式部大輔,左大弁,民部卿を兼ねたのち、承和9年(842年)鹿取を含む一族19人が宿禰姓から朝臣姓に改姓している。
 承和10年(843年)6月11日薨去。享年70。最終官位は参議従三位勲六等兼越中守。生まれつき慎み深い性格であった。政務に明るく官吏としての才能を称賛され、人々からの評判が良かった。