<神武朝>

K004:孝元天皇  孝元天皇 ― 彦坐命 K009:彦坐命

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彦坐命 狭穂彦命

 『日本書紀』では事績に関する記載はない。『古事記』では丹波派遣伝承が記されるのに対して、『日本書紀』では子の丹波道主命が四道将軍の1人として丹波に派遣されたとしている。『古事記』崇神天皇段では、日子坐王(彦坐王)は天皇の命によって旦波国(丹波国)に遣わされ、玖賀耳之御笠を討ったという。      
 墓は、宮内庁により岐阜県岐阜市岩田西にある日子坐命墓に治定されている。宮内庁上の形式は自然石。墓には隣接して伊波乃西神社が鎮座し、日子坐命に関する由緒を伝える。 

 垂仁天皇5年に妹の狭穂姫命に天皇暗殺を試みさせるが失敗。叛乱を興すものの、追い詰められ兄妹ともに稲城の中で自殺する。この「狭穂彦王の叛乱」は、『古事記』における最も物語性の高い記述とされる。
狭穂媛命 丹波道主命

  狭穂彦王の叛乱について、特に『古事記』中巻では倭建命の説話と共に叙情的説話として同書中の白眉とも評され、また同じく同母兄妹の悲恋を語る下巻の木梨之軽王と軽大郎女の説話と共に文学性に富む美しい物語とも評されている。
 以下は『古事記』におけるあらすじで名前の表記も同書に従う。
 狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀を渡され天皇を暗殺するように言われる。妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨がかかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた後、兄の元へ逃れてしまった。反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子がすくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るように頼んだ。天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意は固かった。髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。天皇が「この子の名はどうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子とつけたらよいでしょう」と申し上げた。また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてくれるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。

『日本書紀』では丹波道主王,丹波道主命、『古事記』では旦波比古多多須美知能宇斯王。四道将軍のひとりで、丹波に派遣されたとされる。一説には彦湯産隅命(開化天皇の子)の子。
  京都府久美浜の地名は、道主命の伺帯した「国剣」から「国見」「久美」となり「くみのみなと」「くみの見谷」「くみの浜」など久美浜の地名の起源になったと言われる。

日葉酢媛 迦邇米雷王

 垂仁天皇の皇后である。垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子,2皇女を産む。
  『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺志により同15年2月甲子(10日)に丹波から後宮に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。

  迦邇米雷王は丹波之遠津臣の女・高材比売を妃とし、息長宿禰王(気長宿禰王)を儲けた。息長宿禰王は神功皇后の父である他、2人の王子は近淡海国造,吉備品治国造,但馬国造の祖と伝えられる。なお、迦邇米雷王は京都府京田辺市の朱智神社の主祭神で、子孫は朱智姓を名乗ったという。
神功皇后

 『日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗,百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
  渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社,京都市西京区の月読神社,福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたといわれている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し、志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど、九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
  神功皇后が三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子,忍熊皇子が畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。
  明治から太平洋戦争敗戦までは学校教育の場では実在の人物として教えていた。現在では実在説と非実在説が並存している。