<皇孫系氏族>孝元天皇後裔

K008:武内宿禰  武内宿禰 ― 平群木菟 HG01:平群木菟

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平群木菟 平群真鳥

 『日本書紀』では「平群木菟宿禰」、『古事記』では「平群都久宿禰」。『日本書紀』仁徳天皇元年正月条によれば、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれたという。その際、応神の子の産殿には木菟(ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたという。上記のように、平群木菟に関しては仁徳天皇との名前の交換説話(易名説話)が知られるが、このような易名説話は天皇家と武内宿禰および平群氏との君臣関係の締結を示すとされる。
 ただし上記伝承以前にも記事があり、同書応神天皇3年是歳条によると、百済の辰斯王が天皇に礼を失したので、木菟宿禰は紀角宿禰,羽田矢代宿禰,石川宿禰とともに遣わされ、その無礼を責めた。これに対して百済は辰斯王を殺して謝罪した。そして紀角宿禰らは阿花王を立てて帰国した。
 続けて同書応神天皇16年8月条によると、葛城襲津彦が朝鮮から久しく戻らないため、天皇は新羅が妨げているとし、木菟宿禰と的戸田宿禰を精兵を従えて加羅に遣わした。木菟宿禰らが新羅の国境まで兵を進めると、新羅王は愕然として罪に服し、弓月君の民を率いて襲津彦と共に日本に来たという。
 また、同書履中天皇即位前条では、住吉仲皇子(履中の弟)が太子(履中)に対して反乱を起こした際、物部大前宿禰,阿知使主とともに太子に啓したが信じなかったため、3人で太子を馬に乗せて逃げたという。その後、瑞歯別皇子(のちの反正天皇)の仲皇子討伐に従ったが、仲皇子から離反し仲皇子を殺した刺領巾について、自分たちにとっては大功だが主君には慈悲がないとして殺害している。そして履中天皇2年10月条において、天皇が磐余に都を作った時に、蘇賀満智宿禰,物部伊莒弗大連,円大使主らと共に国事を執ったと記されている。
 『日本書紀』では応神,仁徳,履中の3代(130年間)に渡って忠誠を尽くした人物として描かれているが、いずれの伝承も父の武内宿禰と酷似することから、木菟宿禰は極めて政治的に造作された伝承的人物と考えられている。

 雄略天皇の御世に大臣となり、平群氏の全盛期を迎えさせる。
 仁賢天皇の没後、自ら大王になろうとしたが、これに不満を抱いた大伴金村は小泊瀬稚鷦鷯尊(後の武烈天皇)の命令を受け平群真鳥を討ち、真鳥は自害し平群本宗家の一部は滅んだ(生存説もある)。

平群 鮪 平群神手

 小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)との影媛(物部麁鹿火の娘)を懸けての決闘が『日本書紀』に記されている。鮪の父である真鳥は国政をほしいままにし、皇室のためと偽って自らの邸宅を造営するなど、日本の王になろうと画策していた。
 ある時、小泊瀬稚鷦鷯尊は影媛と婚姻の約束を交わした。しかし、以前に影媛は鮪に犯されており、その発覚を恐れた影媛は小泊瀬稚鷦鷯尊に「海柘榴市でお会いしましょう」と伝えた。鮪と影媛の関係を知らない小泊瀬稚鷦鷯尊は真鳥へ使者を出し、官馬を要求したが、真鳥は小泊瀬稚鷦鷯尊を侮って提供しなかった。小泊瀬稚鷦鷯尊は怒りを抑えつつ約束の場所へ行き、影媛と合流した。二人が袖を取り合って向き合っていると、鮪がその間に押し入り、ここで歌の詠み合いとなった。
 鮪と影媛の関係を知って激昂した小泊瀬稚鷦鷯尊は顔を赤くして怒り狂って帰った。そして、その晩に大伴金村を訪ねて数千の兵を集めた。金村はその兵を率いて逃げ道を塞ぎ、鮪は平城山丘陵に追いつめられ殺された。影媛はこの一部始終を目撃し気を失った。
 その後、金村の提案により鮪の父の真鳥も追い詰められ、謀反の計画が頓挫したと知った真鳥は呪いの言葉を呟いて自害した(生存説もある)。こうして平群氏の嫡流は滅んだ。

 用明天皇2年(587年)の大臣・蘇我馬子による大連・物部守屋の討伐(丁未の乱)の際に、平群神手は大伴噛,阿倍人,坂本糠手らと軍兵を率いて志紀郡から渋河郡の守屋の家に到った、という。正規の史書に名前が現れるのは、この箇所のみである。
平群広成 額田早良

 遣唐使の判官として唐に渡るが、帰国の途中難船。はるか崑崙国(チャンパ王国、現在のベトナム中部沿海地方)にまで漂流したが、無事日本へ帰りついた。古代の日本人の中で最も広い世界を見たとされる人物である。
 留学生ではなく遣唐使の判官とはいえ、6年もの間他国を渡り歩いた広成は当時の日本では屈指の知識人であり、朝廷から重用されて昇進を重ねた。
 天平15年(743年)刑部大輔、天平16年(744年)東山道巡察使、天平18年(746年)式部大輔次いで摂津大夫を歴任し、聖武朝末の天平19年(747年)従四位下に叙せられる。孝謙朝の天平勝宝2年(750年)従四位上に至り、天平勝宝4年(752年)には武蔵守に任ぜられている。天平勝宝5年(753年)正月28日卒去。最終官位は武蔵守従四位上。

 『新撰姓氏録』によれば、早良宿禰は母の氏である額田首を名乗ったとされるが、平群氏を名乗らなかったのは、平群真鳥が朝敵として討伐されたことと関連しているという説が存在する。
 なお、額田早良宿禰の子・額田駒宿禰は平群県において馬を養育しており、馬を天皇に献上したことで、馬工連の姓を賜り、馬の飼育について任されたという。また、駒宿禰が馬を養育したところが生駒であるという。駒宿禰の子は馬工御樴連を賜っている。

武内氏覚

 竹内家は大膳紀宿禰を初代として香椎宮宮司を務める家系である。武内覚隆(のちに氏覚)は20代目にあたる。
 延元元年/建武3年(1336年)に行われた多々良浜の合戦に武装した香椎宮神人兵を引き連れ、島津軍,大友軍,小弐軍と共に足利尊氏に与した。その武功に対して、尊氏の「氏」の字が与えられ、氏覚と改名している。
 足利軍は香椎宮の浜宮(頓宮)で各軍の大将を集め、初めての軍議を開かれた。そのとき、肥後の菊池武敏を総大将とする2万騎の後醍醐天皇軍が、箱崎から多々良川に向けて集結し始めた。覚隆は敵の動きが見渡せる香椎宮裏の「御飯の山」を案内し、さらに山から見えた丘陵(陣の腰)を押えるべく宮の者に道案内させた。
 直義が社殿を出ようとした、つがいの烏が御神木の綾杉の枝を直義の兜の前に落とした。すると、朝から吹いていた北風がいきなり唸りだし、突風と化したという。
 それを見た尊氏は、これは香椎宮の神が我が軍を勝利へ導くお告げであると叫んだ。この風では旗差し物は役にたたず、味方同士と判るよう全騎の鎧に神木である綾杉の枝を着けさせるように計らって頂きたいと、覚隆に依頼した。
 合戦には、香椎宮の神人100人も武内覚隆と共に武装し、綾杉の枝を付けて、胸形軍と共に尊氏の後ろに加わった。当初は宮方の菊池軍が優勢であったが、菊池軍に大量の裏切りが出たため戦況は逆転し、菊池軍は総崩れとなり敗走した。
 幕府を開いた尊氏は香椎宮の神威に感謝し、神領を安堵すると共に、新たに多々良,名島,唐の原,和白,三苫,三代など800丁の神領を寄進したことが記録に残っている。香椎宮史によると、1374年には3代将軍・足利義満が香椎宮に使者を送り、南北朝合一成就と天下太平を祈願している。多々良浜合戦以降、足利幕府から厚い信任を受けていた香椎宮がうかがえる。