K008:武内宿禰 | 武内宿禰 ― 平群木菟 | HG01:平群木菟 | ● |
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平群木菟 | 平群真鳥 |
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『日本書紀』では「平群木菟宿禰」、『古事記』では「平群都久宿禰」。『日本書紀』仁徳天皇元年正月条によれば、大鷦鷯尊(仁徳天皇)と木菟宿禰とは同日に生まれたという。その際、応神の子の産殿には木菟(ミミズク)が、武内宿禰の子の産屋には鷦鷯(ミソサザイ)がそれぞれ飛び込んだので、その鳥の名を交換して各々の子に名付けたという。上記のように、平群木菟に関しては仁徳天皇との名前の交換説話(易名説話)が知られるが、このような易名説話は天皇家と武内宿禰および平群氏との君臣関係の締結を示すとされる。 |
雄略天皇の御世に大臣となり、平群氏の全盛期を迎えさせる。 |
平群 鮪 | 平群神手 |
小泊瀬稚鷦鷯尊(武烈天皇)との影媛(物部麁鹿火の娘)を懸けての決闘が『日本書紀』に記されている。鮪の父である真鳥は国政をほしいままにし、皇室のためと偽って自らの邸宅を造営するなど、日本の王になろうと画策していた。 |
用明天皇2年(587年)の大臣・蘇我馬子による大連・物部守屋の討伐(丁未の乱)の際に、平群神手は大伴噛,阿倍人,坂本糠手らと軍兵を率いて志紀郡から渋河郡の守屋の家に到った、という。正規の史書に名前が現れるのは、この箇所のみである。 |
平群広成 | 額田早良 |
遣唐使の判官として唐に渡るが、帰国の途中難船。はるか崑崙国(チャンパ王国、現在のベトナム中部沿海地方)にまで漂流したが、無事日本へ帰りついた。古代の日本人の中で最も広い世界を見たとされる人物である。 |
『新撰姓氏録』によれば、早良宿禰は母の氏である額田首を名乗ったとされるが、平群氏を名乗らなかったのは、平群真鳥が朝敵として討伐されたことと関連しているという説が存在する。 |
武内氏覚 | |
竹内家は大膳紀宿禰を初代として香椎宮宮司を務める家系である。武内覚隆(のちに氏覚)は20代目にあたる。 |