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長尾景忠 | 長尾景行 |
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南北朝時代から室町時代前期にかけての武士。長尾氏7代当主。関東長尾氏の祖。多くの系図では、長尾景為の嫡男とされる。長尾藤景の娘婿となったとする説もある。 |
景行の実在を認めず、忠房,清景兄弟を景忠の子・景直の弟として、景直を景忠の嫡男とする系図もある。
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長尾忠政 | 長尾景棟 |
総社長尾氏当主として武蔵守護代を務めると共に、応永29年(1422年)には山内上杉家の奉行人の1人として奉書に名前を連ねている。応永32年(1425年)に鎌倉長尾氏の長尾房景の死去に伴って家宰に就任した。 |
宝徳元年(1450年)の父の没後に武蔵国守護代として享徳の乱では山内上杉氏の一員として戦い、寛正3年(1462年)頃には本領の武蔵長尾郷に住んでいたとされ、文明10年(1478年)に没し、養子の忠景が後を継いだとされている。 |
長尾忠景 | 長尾顕景 |
白井長尾家から惣社長尾家・長尾景棟の養子となり、家督を継いだ。その後、武蔵国守護代など山内上杉家の要職を務めた。一方、実家の白井長尾家では、父・景仲が山内上杉家の執事に就任し、父の後は兄・景信が執事となっていた。 |
総社長尾氏庶流・高津長尾氏の長尾定明の子として誕生。関東管領・上杉顕定に仕えて偏諱を受ける。永正7年(1510年)、越後国の長尾為景との戦いに加わった父・定明が長森原の戦いにおいて顕定と共に討たれたため、その後を継いだ。 |
長尾景仲 | 長尾景信 |
上野群馬郡白井城主。太田道真と共に「関東不双の案者(知恵者)」と称された。孫には太田道灌(外孫)がいる。 |
寛正2年(1461年)、家督を継ぎ、山内上杉家の当主・上杉房顕の執事となった。 |
長尾景春 | 長尾景英 |
北条早雲と並ぶ関東における下克上の雄の一人である。 |
父・長尾景春と共に主君である上杉顕定と戦うが、本拠地である上野国白井城が奪還され、また景春父子が頼りとしてきた古河公方・足利政氏が上杉顕定と和解すると、扇谷上杉氏を頼ってあくまでも顕定に対抗しようとする父と対立した。明応5年(1495年)までに景英は父の下を離れて顕定に降り、景英は山内上杉家の重臣に列した。永正2年(1505年)に長享の乱が終結すると、追い詰められた景春も顕定に降伏した。 |
長尾憲景 | 長尾輝景 |
上野国白井城主。一時期、八崎城主。白井長尾氏7代当主・長尾景誠の横死後に長野業正の斡旋で景誠の養子となり、白井長尾氏の家督を継いだ。この際に主君で関東管領・上杉憲政より偏諱を受けて「憲景」と改名した。 |
長尾憲景の次男であったが兄・憲春に代わって嫡男となる。越後国の上杉輝虎(謙信)に仕えて偏諱を受け輝景と名乗る。 |
長尾景広 | |
天正10年(1582年)、兄・長尾輝景の命によって後北条氏の人質として小田原城に入る。最初は北条氏政の偏諱を受けて政景と名乗った。3年後に帰国するも重臣である牧和泉守・牧弾正の父子の居城・田留城を所望する。輝景と牧父子はこれを拒むが、政景は親北条派の重臣達の支持を受けて独断で牧氏一族を滅ぼして田留城を奪取、天正17年(1589年)には兄を隠居させて家督を奪ったとされる。 |