H501:平 忠通 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 鎌倉景村 | H535:鎌倉景村 |
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大庭景義 | 大庭景親 |
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若くして源義朝に忠誠を誓う。保元元年(1156年)の保元の乱においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降、歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した。 |
保元元年(1156年)の保元の乱では義朝の軍勢に属し、兄の景義とともに白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景政の末裔であると名乗りを上げた。強弓の勇者為朝は鏑矢を放ち景義の左の膝を砕いた。景親は落馬した兄を助け出して退散している。平治元年(1159年)の平治の乱で義朝が敗死して源氏は没落するが、義朝とは疎遠であったと思われる景親は平家への接近に成功し、それによって相模国内の大庭氏の立場は強化される。 |
俣野景久 | 長尾定景 |
大庭御厨の下司大庭景宗の庶子で、相模国鎌倉郡俣野郷に住して俣野氏を称した。景久の知られている事跡は主に『平家物語』に基づいており、また『曽我物語』では、河津祐泰と相撲で対戦をし、初めて「河津掛け」をされた人物ともいわれている。 |
治承4(1180年)に源頼朝が挙兵すると兄の新五郎為宗及び従兄弟の大庭景親,俣野景久と共に平家方に加わり、石橋山の戦いで抗戦する。この戦いで、頼朝の寵臣で三浦党の佐奈田義忠を討ち取っている。後に頼朝に降伏し、その身柄を義忠の実父である岡崎義実に預けられている。定景が法華経を唱えるのを見た義実はこれを殺すのを止め、助命するよう頼朝に懇願している。これが認められ、以後は同族・三浦氏の郎党として勇名を馳せることになる。 |
長尾景茂 | 長尾景忠 |
長尾家は当時三浦氏の郎党であった。三浦氏は北条氏の外戚として勢威を振るっていたが、新たな北条家外戚となった安達氏との対立が激化する。 |
長尾氏一族が宝治合戦において三浦氏に殉じたためその殆どが滅亡し、景忠は数少ない生き残りとなった。左衛門尉景忠と混同されることもあるが、活動時期に70~80年ほどの差があるので、明らかに別人である。しかし諸系図では同一視されることが多く、これが中期長尾氏の系図を混乱させている要因になっている。 |
長尾景為 | 長尾氏春 |
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武士。長尾氏6代当主。5代当主・長尾景能の嫡男といわれる。曾祖父の景茂の代に三浦氏滅亡と共に衰退した長尾氏であったが、景忠(景為の祖父)は生き残り、景基(景能の兄)のときに婚姻関係を元に上杉家を頼っていた。 |
父は千秋長尾氏の長尾藤明(叔父とも云われる)である。実子に長尾景広らがいる。小山田上杉頼顕の男系従兄弟にあたる。元々は上総国佐貫あたりに本拠を持ったと云われるが定かではない。のちに上杉禅秀から武蔵守護代に任じられた。 |
長尾景広 | |
上総国佐貫を領する佐貫長尾家(千秋長尾家)の当主と記録されているが、上杉禅秀の乱以降の動向は不明。 |