H536:長尾景忠 | 平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 鎌倉景村 ― 長尾景忠 ― 長尾景直 | H538:長尾景直 | ● |
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長尾憲景 | 長尾実景 |
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次兄・景人が臣従していた関東管領で山内上杉家当主の上杉房顕より偏諱を受けて房清と名乗る。 |
犬懸長尾家の出身で、鎌倉長尾家の長尾房景の息子・長尾景仲が母方の実家白井長尾家に養子に行ったため、房景の養子となり鎌倉長尾家を継いだ。関東管領である上杉憲実に仕え、憲実の引退後は子の上杉憲忠に仕える。江の島合戦の責任を取った景仲が家宰を退くと、実景が代わって家宰となるが、鎌倉公方・足利成氏によって憲忠が暗殺された際、岩松持国に襲われ嫡男の景住と共に殺害された。次男の景人は下野足利庄に拠点を移し足利長尾家の祖となっている。 |
長尾景人 | 長尾景長 |
享徳3年(1454年)12月に父と兄が関東管領上杉憲忠と共に足利成氏に殺害されたため、家督を継いで憲忠の弟・房顕に仕えて成氏と戦った(享徳の乱)。長禄3年(1459年)の太田庄の戦いにも参戦している。 |
幼くして父を亡くし、兄も病死したために7歳で叔父の長尾房清の後見を受けながら足利長尾氏の家督を継いだ。長享元年(1487年)、房清が扇谷上杉家の上杉定正と通じたために山内上杉家の当主である関東管領・上杉顕定に勧農城を攻撃される。これが、上杉氏の内紛である長享の乱の開始となった。明応4年(1495年)、岩松尚純が横瀬成繁に攻撃されるとこれを救う。同年足利高基の元服の儀に家宰・長尾顕忠に代わって参列し、これによって但馬守を受領した。本来、家宰が参加する古河公方家の元服に景長が参加した事実は、当時の景長の影響力の大きさを示していた。そして、この頃から当主としての活動が本格化する。 |
長尾憲長 | 長尾当長 |
憲長の名は上杉憲房の一字を得たとみられている。大永4年(1524年)頃に足利長尾氏の家督と山内上杉家の家宰を継ぐ。享禄元年(1528年)に父が病没する。この年、古河公方・足利高基の嫡男・晴氏の元服に際し、長尾為景を介して将軍・足利義晴の偏諱を拝領するために交渉を行うとともにその元服式に参列、式の翌日である同年12月28日に但馬守の受領名が与えられた。長尾景誠の暗殺によって白井長尾氏が断絶すると、それまで対立していた総社長尾氏とともに事態の収拾を図り、長尾憲景を当主に立てている。内紛によって関東管領が上杉憲寛から上杉憲政に交替した後も家宰を務めている。天文17年(1548年)の足利藤氏の元服式には息子の当長が参列しており、当長を元服式に参列させるために隠居して家宰を譲ったとも考えられる。 |
足利長尾家当主。父の跡を受け家督を継ぐ。主君であった上杉憲當から偏諱を拝領して當長(当長)と名乗り、関東管領家の家宰として活躍して天文17年(1548年)に行われた足利藤氏の元服の功によって但馬守の受領名を受けた。だが、憲当が後北条氏に圧迫されるように関東から撤退すると、関東管領家家宰職も事実上消滅し、当長も北条氏康に降る。 |
長尾顕長 | |
足利長尾氏の長尾当長の娘を娶り、その家督を継いだ。天正10年(1582年)に長兄・国繁と共に滝川一益に仕えたが、その後は後北条氏に従属した。天正13年(1585年)、隣国の佐野氏当主・佐野宗綱と抗争し、これを討ち取った。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐では小田原城に籠もって戦ったため、北条氏滅亡後に所領を召し上げられて浪人となる。一時は常陸の佐竹義宣に仕えたが、その後再び流浪の身となった。子の宣景は後に土井利勝に仕えて家老職となったという。 |