<桓武平氏>高望王系

H536:長尾景忠  平 高望 ― 平 将常 ― 平 忠通 ― 鎌倉景村 ― 長尾景忠 ― 長尾景直 H538:長尾景直

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長尾憲景 長尾実景

 次兄・景人が臣従していた関東管領で山内上杉家当主の上杉房顕より偏諱を受けて房清と名乗る。
実家の鎌倉長尾氏は景人が継承していたため、弟である房清は長尾氏一門の犬懸長尾家を継いでいたが、文明7年(1475年)に甥の定景が急死、後を継いだ弟の景長も幼いため、房清は景長の後見役を務めた。しかし、文明9年(1477年)の長尾景春の乱においては、長尾六郎(房清)が主家・山内上杉家(当主は房顕の養子・上杉顕定)に反して長尾景春に味方していたことが、太田道灌の『太田道灌状』に記されている。
長享元年(1487年)11月に扇谷上杉家と山内上杉家が全面戦争を起こした(長享の乱)際にも、房清は扇谷上杉家(当主は上杉定正)に通じたため、下野勧農城を上杉顕定に攻撃された。
明応4年(1495年)、上野金山城主の岩松尚純と家老の横瀬成繁が対立した時、足利勢を率いて出陣し岩松氏を支援している(合戦自体は尚純が隠居、成繁が尚純の子昌純の執事として実権を握った)。
 永正元年(1504年)の立河原の戦いで戦死したと言われているが、房清は既に死亡しており、その子と混同されたのではないかという説もある。

 犬懸長尾家の出身で、鎌倉長尾家の長尾房景の息子・長尾景仲が母方の実家白井長尾家に養子に行ったため、房景の養子となり鎌倉長尾家を継いだ。関東管領である上杉憲実に仕え、憲実の引退後は子の上杉憲忠に仕える。江の島合戦の責任を取った景仲が家宰を退くと、実景が代わって家宰となるが、鎌倉公方・足利成氏によって憲忠が暗殺された際、岩松持国に襲われ嫡男の景住と共に殺害された。次男の景人は下野足利庄に拠点を移し足利長尾家の祖となっている。
長尾景人 長尾景長

享徳3年(1454年)12月に父と兄が関東管領上杉憲忠と共に足利成氏に殺害されたため、家督を継いで憲忠の弟・房顕に仕えて成氏と戦った(享徳の乱)。長禄3年(1459年)の太田庄の戦いにも参戦している。
寛正6年(1465年)、房顕の推挙で室町幕府から下野足利荘の代官に任命され、翌年11月、勧農城に入部した。以後、景人の一族は鎌倉長尾氏から足利長尾氏と呼ばれるようになる。上杉氏はここを拠点にして応仁2年(1468年)の上野綱取原合戦、文明3年(1471年)には下野に出陣、古河城を落としている。景人はこれらの合戦に加わったが、翌年になると成氏の反撃によって足利荘に攻め込まれ、その戦いの最中に死去。享年は28と推定される。嫡男の定景が継いだ。墓は栃木県足利市の長林寺。

 幼くして父を亡くし、兄も病死したために7歳で叔父の長尾房清の後見を受けながら足利長尾氏の家督を継いだ。長享元年(1487年)、房清が扇谷上杉家の上杉定正と通じたために山内上杉家の当主である関東管領・上杉顕定に勧農城を攻撃される。これが、上杉氏の内紛である長享の乱の開始となった。明応4年(1495年)、岩松尚純が横瀬成繁に攻撃されるとこれを救う。同年足利高基の元服の儀に家宰・長尾顕忠に代わって参列し、これによって但馬守を受領した。本来、家宰が参加する古河公方家の元服に景長が参加した事実は、当時の景長の影響力の大きさを示していた。そして、この頃から当主としての活動が本格化する。
永正元年(1504年)の立河原の戦いで房清(房清は既に没してその子とも)が戦死すると、ようやく当主として自立することが出来た。永正7年(1510年)の上杉顕定の没後、関東管領と山内上杉家当主の座を巡って上杉憲房と上杉顕実が争ったときに横瀬景繁と共に憲房を擁立して顕実側の成田顕泰,長尾顕方と戦い、顕実の居城鉢形城を攻め落とした。憲房の勝利後、景長は顕実側の長尾顕方に替わって山内上杉家の家宰に任じられた(永正の乱)。
景長は画家としても優れており、彼が建立した長林寺には彼の自画像や、関東の代表的な水墨画家祥啓に倣った山水図が遺されている。また、狩野正信とも親交があったとも言われている。

長尾憲長 長尾当長
 憲長の名は上杉憲房の一字を得たとみられている。大永4年(1524年)頃に足利長尾氏の家督と山内上杉家の家宰を継ぐ。享禄元年(1528年)に父が病没する。この年、古河公方・足利高基の嫡男・晴氏の元服に際し、長尾為景を介して将軍・足利義晴の偏諱を拝領するために交渉を行うとともにその元服式に参列、式の翌日である同年12月28日に但馬守の受領名が与えられた。長尾景誠の暗殺によって白井長尾氏が断絶すると、それまで対立していた総社長尾氏とともに事態の収拾を図り、長尾憲景を当主に立てている。内紛によって関東管領が上杉憲寛から上杉憲政に交替した後も家宰を務めている。天文17年(1548年)の足利藤氏の元服式には息子の当長が参列しており、当長を元服式に参列させるために隠居して家宰を譲ったとも考えられる。

 足利長尾家当主。父の跡を受け家督を継ぐ。主君であった上杉憲當から偏諱を拝領して當長(当長)と名乗り、関東管領家の家宰として活躍して天文17年(1548年)に行われた足利藤氏の元服の功によって但馬守の受領名を受けた。だが、憲当が後北条氏に圧迫されるように関東から撤退すると、関東管領家家宰職も事実上消滅し、当長も北条氏康に降る。
永禄3年(1560年)に一旦出家して「禅昌」と名乗るが、同年11月には再び還俗して名を戻す。翌年3月、上杉憲政が家督や関東管領職等を養子の長尾景虎(のちの上杉謙信)に譲ると、4月にはこの景虎より偏諱を与えられて、祖父と同じく「景長」を名乗った。やがて上杉政虎と改名した景虎が関東出兵に乗り出すと同じ長尾氏としてこれを支援する。政虎が後北条氏を圧迫し、後に越相同盟まで結ぶようになると、上杉・北条両家の軍事的・外交的な折衝に当たった。
景長の死後は婿養子の顕長が跡を継いだが、館林城は同じく婿であった広田直繁に与えられたようである。また、男子に北条氏政から偏諱を受けたとされる長尾政長がいたとされるが、顕長が跡を継いでいることから早世したものと考えられる。

長尾顕長
 足利長尾氏の長尾当長の娘を娶り、その家督を継いだ。天正10年(1582年)に長兄・国繁と共に滝川一益に仕えたが、その後は後北条氏に従属した。天正13年(1585年)、隣国の佐野氏当主・佐野宗綱と抗争し、これを討ち取った。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐では小田原城に籠もって戦ったため、北条氏滅亡後に所領を召し上げられて浪人となる。一時は常陸の佐竹義宣に仕えたが、その後再び流浪の身となった。子の宣景は後に土井利勝に仕えて家老職となったという。