世襲の官である三浦介を号して天治年間(1124~26年)国務に参画し、三浦半島一帯に勢力を扶植する。多くの子女に恵まれた。長男の杉本義宗は和田氏の祖、次男の義澄は父の後嗣となり、また娘の一人は都から東国に進出した源義朝の側室となったという。以降、相模国における義朝の覇権確立の有力な後ろ盾となった。 治承4年(1180年)源頼朝が挙兵すると、次男の義澄率いる三浦一族はこれに合流しようと8月22日に三浦を出る。だが悪天候のため参戦できず24日に引き返し、途中、由比ヶ浜で平家方の畠山重忠に襲われるがこれを退け三浦に帰る。しかし26日には再度畠山重忠に襲われ衣笠城にて防戦、衣笠城合戦となった。攻撃は朝から続き二度の合戦で刀折れ矢尽きた義澄ら一族は夜半になって城を捨て脱出したが、老齢の義明は独り城に残り河越重頼,江戸重長らに討ち取られた。享年89。 後世、齢89にして頼朝の挙兵に呼応し源氏の再興に一命を捧げた義明の行為は源氏武士の鑑とされた。義明の死後、頼朝が追善供養のため堂宇建立を命じて創始されたのが満昌寺であり、義明はその境内の御霊明神社に主神として祀られている。
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三浦大介義明の4男、四郎義春は多々良の地を領し、多々良氏を名乗ったといわれている。『吾妻鏡』では義春ではなく、子の三郎重春,四郎明宗などの存在が記されている。三郎重春は三浦一族と畠山重忠の軍勢が由比ヶ浜で衝突した合戦にて郎従の石井五郎と共に討死した。その後、四郎明宗が多々良氏を継いだようで、七郎と共に文治元年(1185),建久元年(1190),建久6年(1195),建仁4年(1204)などで『吾妻鏡』にその名が記されている。 |